断章 冬城アリサの場合 -7-
そんな楽しい日々の、なんてことはない休み時間のことだった。
一時間目の体育の授業が終わり、朝練終わりにそのまま出席していたあたしはひとり集団を抜け出して部室で着替えを済ませていた。
次の授業は移動教室で、教室に戻ろうとしていたあたしとクラスメートがすれ違っていく。ふと時計を見れば、もうそんなに時間が残っていない。あたしは慌てて歩調を速めた。
そして、教室の戸に指をかけたときだった。
あたしの鼓膜に、誰かがすすり泣くような声が聞こえた。
――いや。
ような、ではない。それは確かにすすり泣いている声そのもので。
そして、誰か、なんて知らないわけがない。
「茉知……っ!?」
それはたった一人の親友の声に他ならなかった。
ほとんど壊すような勢いで戸を引いて、あたしは迷わず彼女の元に駆けよっていた。セミロングの黒髪を垂らしうつむいたまま、彼女はしゃくり上げている。
きっとついさっきまで周りのクラスメートの目を気にして我慢していたのだろう。もう誰も残っていない教室で、耐えきれなくなったかのように、たった一人で声を上げて涙をこぼしている。
子供のように泣きじゃくっているいまは事情を聞くことも難しい。だが、幸いにも――いや、不幸にも、その必要もなかった。
茉知の目の前。
彼女の机の上。
そこにあったのは――……
「なによ、これ……ッ!」
それはあたしもよく知るもの。
彼女が何より大切にしていた、スケッチブック――だったもの。
それが無残にも引き千切られ、切り刻まれ、まるで墓標にでもするみたいに安いカッターナイフが突き立てられていた。
何かの事故なんてありえない。
誰かの明確な、狂気さえ滲んだ悪意がそこにはあった。
「あれー?」
ばくん、と心臓が嫌な音を立てた。
鼻にかかる鬱陶しい声に、背を叩かれた。
「なにしてんの? 次の授業、始まっちゃうよ?」
声の主なんて、振り返らなくたって分かる。それでも、あたしは睨みつけるために首を回す。
木﨑咲耶だった。
「……あんたが、やったのか」
ふつふつと怒りに震える声を、それでも必死に理性で押さえつけるあたしに対して、木﨑は大仰に手を広げてゆっくりと近づいてくる。
「えぇ? それ誰かに切られたの? 大変じゃん。それ、いじめってやつだよ?」
息のかかるような距離で、にちゃあ、と、木﨑咲耶はそんな気持ちの悪い笑みを浮かべる。
もはやそれが答えだ。
一瞬にして視界が真っ赤に染まったかのような錯覚があった。気づけばあたしは木﨑をほとんど殴るような勢いで胸ぐらを掴んでいた。辺りの机が耳障りな音を立てて倒れていくが、そんな音さえ掻き消すほどの大声であたしは叫んでいた。
「ふざけんなよ、あたしが嫌いならあたしにだけケンカを売ればいい! 茉知は関係ない!!」
「なんのことだかさっぱり」
腰をしたたか打ち付けられただろうに、木﨑咲耶はこんな状況でも鼻で笑いながら肩をすくめて白を切る。
「でもまぁ、殴りたければ殴れば? 私にはこれっぽっちも意味が分かんないけど、少なくとも私とそこの子の問題なわけでしょ? だったらあんたが私を殴っていい理由とかないし。正当防衛もじょうじょうしゃくりょうとかいうのも関係ないよねぇ?」
「――……ッ」
本当に力任せにぶん殴ってやろうかと拳を握り締めたあたしの耳元で、ひどく冷静な何者かが呟く。ぞっとするほど凍える声が、脳の奥を震わせる。
――あぁ。
本当は、分かっていた。分かった上で、それでも怒りで塗り潰して目を逸らそうとして、だけど、あたしのどうしようもない理性はそれさえ許してくれなくて。
たった一つの簡単で残酷な事実だけが、目の前に残る。
これは。
あたしのせいだ。
こいつは何をやってもあたしが折れないことを理解した。それ以上を目指せば、自分へ危害が及ぶ可能性も視野に入れた。だから、そこで勝手に諦めたのだとあたしは楽観視していた。
だが、違う。
あたしへ危害を加えなくたって、あたしを傷つける方法なんてごまんとある。そのことにこの女は先に気づいただけなのだ。
たとえば。
あたしが大切にしている人を傷つけるとか。
茉知はあたしみたいに強くもなければ抵抗したりなんか絶対にしない。そのくせ、傷付ければ傷つけただけ、あたしまでいくらでも傷つけられるのだ。こんなに安上がりな方法もないだろう。
「――はっ」
乾いた笑みがこぼれ出る。
詰んでいる。これから先なにをどう足掻いたって、あたし一人じゃ茉知は守り切れない。そうして声も上げられないほど執拗に彼女を痛めつけて、迂遠にあたしの心を殺していく。
そんな結末を予想できてしまった時点で、あたしの中で何かが途切れた。
――これ以上抵抗して、何になる。
そもそも、あたしは自分の努力が踏みにじられることが許せなかった。たった十数年の些細なプライドを守るために意地を張って、一人で見えないものと戦って、勝負もついていないのに勝手に勝った気になっていただけだ。
だけど、その果てがこれだ。
あたしが自分を守ろうとした結果、こうして茉知の努力の結晶は無残に切り刻まれた。何よりも許せなかった『努力を踏みにじる』なんていう真似を、あたしが引き起こしたのだ。
――あぁ。
――なんか。
――もう疲れちゃったな。
そんな風な思考に取り憑かれたあたしの意識は、机の上に突き立てられたままになったカッターナイフの反射する鈍い蛍光灯の光に吸い込まれていった。
「は? ちょっと、なに。まさかそれで私を刺す気?」
「冗談でしょ」
震える手で、それでもあたしはその安い凶器を握り締めていた。
あたしがここで些細な復讐をしたって、こんなふざけた真似が終わってくれる保証なんてどこにもない。もっと怒りを買って、想像もつかないほどに事態がエスカレートしてしまうかもしれない。
だけど。
たった一つ。
この場で全てを終わらせる方法があるのだ。
――だって。
――全部が全部、あたしのせいだというのなら。
あたしが死ねば、全てが終わるでしょう?
その思考へと繋がると同時、あたしは握ったカッターナイフをくるりと返し、自分の首へとあてがっていた。
その動きは自分でも驚くほど滑らかで。
けれど、首の皮一枚に冷たい金属の感触を感じた途端、まるで金縛りにでも遭ったかのようにぴたりと動きは止まってしまう。
その瞬間。
ざぁっと、本当にいろんなことを思い出した。
いつも握らされる御守のこととか、お母さんと一緒にケーキ作ったこととか、お父さんにしてもらった肩車とか、そんな自分も忘れてたことまで焼きつけるように鮮明に。
死ぬなって、生き続けろって、自分の頭が、体が、魂が、本当に叫んでるみたいだった。
気づけば、あたしの頬を止めどなく涙が伝っていた。
これが走馬灯なのかと、そんな風に思った。
そんな、あたしを。
「だ、め。なにしてるの、有紗ちゃ、ん……っ」
茉知が泣きじゃくりながら、それでも必死に止めようとしてくれる声がして。
――そして。
そんな彼女をもうこれ以上傷つけたくないと、本当に心の底から思えてしまったから。
その彼女の優しさが、あたしの背中を押していたのだ。
涙は乾き、金縛りは解けていた。
「――……ごめん、茉知」
最期に彼女に優しくほほえみかけて。
気づけば、あたしは首をそのカッターナイフで掻き切っていた。
あたしの眼下から花火のように真っ赤に吹き出た血は、目に焼き付くほど鮮烈で。
泣き叫ぶ茉知の姿さえ、瞬く間に覆い隠して。
そこであたしの意識は、ぷっつりと途絶えたのだ。




