断章 冬城アリサの場合 -4-
――季節は巡る。
青葉の輝く夏は過ぎ、その葉を赤く染め上げた秋を迎え、やがて枯れ落ちゆく冬の到来さえ身近に感じ始めた頃。
放課後の練習中、監督であり顧問でもある先生が一度部員たちを集合させた。
ほんの数週間前までは半袖ハーフパンツ一色だったのだが、ちらほらとジャージ上下を着始めた部員も増えたなぁ、とあたしはそんな益体もないことを考えていた。
時期的に、次にある秋の新人大会のメンバー発表であることはみなが理解していた。ただ、三年生が抜けたとしても基本的には二年生から選ばれる。あたしたちからすれば控えで一年生メンバーが何人入れるか、というとこが実質的な焦点だ。あたしが気楽なのは、それが理由だった。
――けれど。
「6番シューティングガード、冬城有紗」
顧問に名前を呼ばれたとき、一瞬、理解できなかった。
遅れて、波が打ち寄せるように次第に頭が言葉を理解していく。
6番。スターティングメンバー。それも外からの得点の要。そんな重要なポジションに自分なんかが選ばれたことに、驚きを隠せなかった。
顧問から低い声で「返事」と促され、ようやく我に返ったあたしは慌てて声を張り上げて返事をして、初めてのユニフォームを受け取った。
受け取って、受け取ったその手に思わず力がこもってせっかくのユニフォームにくしゃりと皺が寄った。
――認められた、と思った。
身長は同級生の中では頭抜けて高かった。けれど、たぶんそれだけでどうにかなるわけじゃない。経験もないあたしがそれでもこうしてレギュラーに選ばれたのは、あたし自身の努力もあったからだと、そう誇ってもいいはずだ。
この6という数字が、その証左のように思えた。
――茉知も、喜んでくれるかな。
早く、明日になればいいのに。
たった一人、初めて出来た親友と、早くこの喜ばしいニュースを分かち合いたかった。
そんなことを思っていた。
*
まだ興奮冷めやらぬ中、部活も終わり帰宅前にとトイレに行ったときだったか。
既に校舎内の照明はほぼ落とされ、手洗い場の鏡の上の安い蛍光灯だけがじじっと音を立てて薄暗いままにぼんやりとあたしと周囲を照らす。
そんな中だった。
「あんたさぁ」
ひどくいらついたような声に肩を叩かれた。手を洗いながらちらりと見やれば、木﨑咲耶と他にも一年生部員数人が、トイレの入り口に陣取っていた。
――まるで、あたしが出て行くのを阻むかのように。
どくりと、なぜか嫌に心臓が鳴ったのが鼓膜を内側から震わせた。
「……なに?」
「本当にハーフなわけ? 髪の色も明るいっちゃ明るいけど、割と普通だし?」
「何が言いたいのか分かんない」
「だからぁ、監督に取り入るための嘘なんじゃないのって話でしょ。そうまでしてレギュラー取りたかったんだ?」
「別に。そもそも嘘でもないし、こんなことで取り入るつもりもない」
「へぇ、そう。――ところでさぁ」
訝しむあたしの言葉など聞いてもいない様子で、木﨑咲耶は続ける。にたぁ、と背筋の凍るような笑みを浮かべて。
「その長い髪。試合の邪魔じゃない?」
言われて。
ようやく。
あたしは彼女の手に握られているものに気がついた。
「――ッ!?」
喉の奥で掠れたような息を吸う音が漏れる。
それは。
誰の筆箱にでも入っているような、どこにでもある安いはさみで。
それを手にした彼女がひどく笑みを吊り上げたのがどうしようもなく不気味だった。
――抵抗は、した。意味はなかったけれど。
人数差が人数差だった。簡単に手足を押さえられて、髪を掴まれてしまえばあたしに出来ることなんて何にもなかった。胸まであったキャラメル色の髪は、肩より短いところでざんばらに切り落とされてしまった。
木崎たちは満足したのか、それとも大事になってしまうことに恐れをなしたのか、さっさと逃げるように散ってしまった。
残ったのは、ぐちゃぐちゃに振り乱された頭のあたしと、気味悪く手洗い場に張り付いた無数の茶色い毛束だけ。
「……ぁ、ぇ……っ」
息が、出来ない。
胸の奥が痙攣して、目頭がかっと熱くなって、鼻の奥がつんとしみる。唇も指先も膝も全部、自分のものじゃないみたいに震えて、そのままぺたりとあたしは座り込んでしまった。
駄目だ、と思った。
顔をくしゃくしゃに歪めながら、目をひたすらにしばたたかせて、涙腺から一滴の雫もこぼすまいと必死に力を込める。
泣いてはいけない。それだけは、絶対に。
木﨑咲耶たちの行動原理なんて嫉妬だけだ。自分たちの怠慢を棚に上げて、あたしの努力を踏みにじろうとした。ただそれだけ。
――だけど。
ここで涙を流してしまえば。それは、あたしのがんばってきたこと全部があんな連中に負けたと、そう証明してしまうような気がしたから。
だからどれだけ悔しかろうと、惨めであろうと、涙だけは流さない。誰にすがりついてもやるものかと、ただ歯を食いしばって虚空を睨む。胸の奥から湧き滲む冷たい気持ちが、燃え尽き灰へと変わるまで。
「……か、み」
ようやく冷静さを取り戻してきたあたしは、洟をすすりながら小さく呟く。
こんな姿じゃ誰にだって心配される。ことが明るみになれば、彼女たちは処罰されるかも知れないけれど、部活自体が停止になる可能性だってある。それじゃああたしの努力を踏みにじりたかったやつらの思うつぼだ。そんなことだけは許さない。
連中が置き忘れたはさみが、ちらりと視界の端に映る。震える指先でそれを握り締めて、薄暗い鏡の前で見栄えだけは整えることにした。
じゃきり、と音が立つ。
ふいにこんな髪を褒めてくれた茉知の姿を思い出して、またどうしようもなくこみ上げてくるものをあたしは必死に飲み下した。
*
――結局、安物のはさみでは限度があった。
最低限ひとに見られてもおかしくないくらいには整えて手洗い場の掃除まで済ませたあたしは、まだ重い足取りでセルフカット用のはさみを買いにドラッグストアへ寄っていた。
そこで、ふと目に入るものがあった。
それは金色に輝く綺麗な長髪のパッケージ。
およそ日本人らしからぬその色。蜂蜜のように綺麗に輝くその色。だけどそれが、どうしてか今のあたしにはどうしようもなく美しく見えたのだ。
――これで。
――染めてしまえば。
そんな突飛もない思考が過ぎった。
ただこのまま短くされたんじゃあそれは『傷』でしかない。だけどそこにあたしが手を加えれば、それはあたしの『意志』に変わる。そんな気がしたのだ。
校則にも違反している。顧問の先生だって怒るだろう。だが、言ってしまえばそれだけだ。周囲の言葉なんて成績で見返せばいい。勉強だって試合だって、こんな髪色一つで貼られてしまうようなレッテル以上にがんばればいいだけだ。
ぎり、とまだ買ってもいない箱を握った手に力がこもっていた。
――何より、見せつけてやりたかったのかもしれない。
連中の矮小な嫉妬では、何一つだって、あたしを思い通りになんかできないと。




