第三章 窮余の爪 -7-
夜の闇に飲まれつつある街の中を、上崎は六花を連れて必死に走り回る。草の根を分けてでも捜し出すべく躍起になっているのに、ぐらぐらと揺れる視界と収まる気配のない吐き気が邪魔をして、そのもどかしさに気が狂いそうになりながら。
「先輩、やっぱりまだ毒の影響が抜けてないんじゃないですか……?」
「そんなこと言ってる場合じゃねぇだろ……っ」
並走しながらも心配そうな面持ちの六花に、上崎は半ば八つ当たり気味に語気を荒げてしまう。そうでもしなければ、走っても走っても振り払えない不安や後悔にそのまま全身が沈み込んでしまいそうだった。
すでにアリサの失踪は白浜を経由してプロの魔術師全体に伝わっている。常に連絡が取れる状況で監視目的の魔術師も配備されなかったがために、彼女が逃げ出した時点で彼女の消息はあっさりと途絶えてしまっていた。頼みのレーネの追跡術式も、オルグヘルム戦でオルタアーツを解いた際に一時的に解除されてしまっている。
臨死の鎖はそれだけでも非常に重要な代物だ。もしも魔獣の手に落ちれば現世の数多の魂が危険にさらされる。――その危機感をもっと持っておくべきだったと、大人は今更ながらに焦っているのだろう。事実、多くのプロ魔術師や警察官を投じるために捜索隊が編制されているところだ。上崎たちはそれより先行して、リーゼフェルト兄妹と上崎、六花の二組に分かれて彼女を捜している。
「でもオルグヘルムが出たばかりです。そんなすぐにまた魔獣に襲われたりは――……」
「そういうことじゃねぇんだ……」
上崎の焦燥を感じ取ってか少しでも気を和らげようとしてくれる六花に、しかし上崎は首を横に振った。
魔獣に襲われているかもしれない。その不安はずっとある。だがそれよりも、上崎の胸中にあったのはもっと別の思いだ。
「……俺が、言ってあげなきゃいけなかったんだ」
気づけば上崎は血が出るほど強く拳を握っていた。
上崎結城にとっての水凪六花のような支柱になることは出来ないとしても、それでも、あのときアリサは間違いなく上崎に救いを求めて手を伸ばしていた。それに応える方法は、きっと、支えになる以外にだってあったはずだ。
その手を取ることをさえ、上崎は自分の弱さを理由にためらった。信頼に応えると誓っておきながら、その言葉さえ上崎が違え彼女の期待を裏切ったのだ。それがこの顛末だ。
「――っ。先輩、あの金髪の子」
角を曲がったところで、六花が前方を指さした。
昼間の歩道のど真ん中で、上崎たちに背を向けるように、ぽつんとたたずむ少女が一人。
その少し傷んだような蜂蜜色の髪を、今さら上崎が見間違うはずもない。
「……アリサ」
一度足を止めていた上崎は、怯えるようにアリサの元に少しずつ近寄った。
――まだ、上崎の中に答えはない。
彼女にかけてあげるべき言葉を、上崎はまだ何も思いつかないままだ。
「ゆ、うき」
そんな震える声がした。
ゆっくりと、その少女は振り返る。
「痛、イよ……」
ぎょろり、と。
黒い眼球の赤い瞳が、上崎結城を捕えていた。
瞳孔の開ききった目に真紅の眼光が陽炎のように揺らいでいる。つぅ、と、何かを訴えるように、そのまま彼女は血のように赤い涙をこぼす。
「………………は?」
理解が出来ない。
目の前の情報が一つも正しく認識できない。
――けれど。
それは、どう見ても人間のものではなくて。
むしろいっそ魔獣のような――…………
「――――ッァァ!!」
絹を引き裂くような悲鳴があった。
反転する。
人を人たらしめている大切な何かが、冬城アリサの中で裏返っていく。
ずるずると蛇が蠢くかのように、彼女の胸の中央で鎖が伸びていく。それは瞬く間に彼女の全身を飲み込んでしまう。
上崎の理解など微塵も待たず、ただ理不尽は全てを蹂躙する。
やがて内圧に弾かれるようにその鎖の塊は爆ぜた。鞭のようにしなった鎖が辺りを薙ぎ払い、巻き上げられた砂塵が上崎たちの視界を奪う。
思わず反射的に顔を腕で覆った上崎は、そこで土煙の向こうに人影があることに気づく。
安堵はあった。けれどそんなものはほんの刹那しか保ちはしなかった。
――それは。
上崎よりも背の高い、冬城アリサとはかけ離れた大人びた女性のシルエットだったから。
砂煙が晴れたあと、そこに佇んでいたのは、紛れもなく人以外の何かだった。
背には羽が捥げ穴の空いた闇より深い闇色の翼。
元の数倍に膨れ上がった左腕には、獣のような分厚く鋭い爪。
全身に絡みつくような心臓から伸びる金の鎖。
破れたボンテージスーツのような扇情的な姿に、重々しいチェストプレート。
その容貌は黒い西洋兜のようなもの隠されていて。
ただ。
その腰まで垂れた蜂蜜色の髪だけが、彼女の存在を見せつけるようだった。
「ア、リサ……?」
信じたくないと、まるで子供のようにかぶりを振って呼びかける上崎に対し、その金髪の何かは、きょとんと首をかしげていた。
「ありさ? 誰それ」
冬城アリサと同じ髪色をしたその何かは、冬城アリサと全く同じ声で、けれどどこまでもどこまでも冷え切った声音でそう問いかけた。
違う。
それは確かに冬城アリサとよく似ていたけれど。
彼女とは決定的に、致命的に、絶望的に、かけ離れている。
「私は、私は……誰だっけ」
目の前の何かは、少し考えた様子だったが、答えが出る様子はなかった。あるいはそもそも思考する気など微塵もないのか。あっさりと彼女は放り捨てていた。
「まぁいいか。――それより」
にぃ、と。
西洋兜に唯一隠されていない口が、愉悦に歪む。
「あなた、とっても、美味しそう」
ぞっとするほど、蠱惑的な声音だった。
気づけば彼女の姿は視界になく。
その肢体を絡みつかせるように、それは上崎を背後から抱き締めていた。
「――ッ先輩!!」
悲鳴のような六花の声。
だが、間に合わない。
編纂結界を張るという、そんな魔術師として至極当然のことさえ上崎は忘れた。――あるいは、それがいま背後にいるその存在を魔獣だと認めることに繋がると、無意識に忌避してしまったか。
禍々しく輝きを返すその左の爪は、そんな上崎の思いなど一顧だにせず彼の喉へ迫る。
――けれど。
上崎の首が胴と離れることはおろか、血が噴き出すことさえなかった。
代わりに雷鳴があった。
刃のような爪に薄皮一枚を裂かれ、首には珠のような血が浮かぶ。だがそれだけだ。
衝撃と共に背後にいた彼女はいつのまにかふわりと舞うように飛び上がり、上崎をあっさりと諦めていた。
「ダーリンには手を出させない」
その声は。
きっといまだけは、絶対に聞きたくないものの一つだった。
「レー、ネ……」
見上げれば、いつの間にか張られていた白藍色の結界の天蓋の下に、漆黒の長靴を脚にまとった少女がいた。
アリサを見つけてすぐ六花が連絡を取っていたのか。それからほんの数十秒でここまで駆けつけたのだろう。どれほどアリサのことを彼女が心配していたかなど想像するまでもなく――そして、まだ彼女が気づいていない目の前のあまりに残酷な現実にじきに直面してしまうことが、ただただ悲しかった。
「何を呆けているんだ、ユウキ」
そんな上崎を叱咤するような声と共に、オリヴェル・リーゼフェルトも上崎のすぐ傍に立っていた。既にその手には、純白の長槍が握られている。
「目の前に魔獣が、それもカテゴリー4がいるんだ。早く君もオルタアーツを――……」
「違う、違うんだよ……」
上ずったような声しか出なかった。こんな戦場のただ中で、それでも泣きそうになって視界がぼやけてしまう。
「違う、あれは、魔獣なんかじゃない……っ」
「何を――……」
カツン、と。
オリヴェルの言葉を遮ったそれは、レーネの踵が地面を叩く音だった。それはほとんど失墜にも近かった。
「う、そ……」
震える声があった。
レーネの瞳は、ようやくのように、眼前に立つ存在の髪を映していた。
その少し傷んだような、蜂蜜色の髪を。
「――誰の邪魔をしているか、分かってる?」
当人は西洋兜越しにも分かるほど怒りを滲ませて上崎たちを睨めつけていた。もはやそれは冬城アリサが彼らに向けるものとは、何もかもが乖離していた。
絶望を前に動けない上崎たちを突き動かしたのは、皮肉にも彼女が放ったおぞましいほどの殺気に対する防衛本能故だった。
「控えろ、人間風情が」
瞬間。
彼女の全身に巻き付いていた鎖はまたしても鞭のようにしなり、真一文字に上崎たちを薙ぎ払う。
オリヴェルは茫然自失のレーネを庇うように白銀の槍で受け止め、上崎はほとんど反射的に自らを漆黒の剣へと変え、六花は泣きそうな顔で彼を掴んで防ぐ。
だが、あまりにもそれは重い。
もはやカテゴリー3などとは比較にもならない。ダンプカーか何かに衝突されたと言われた方がまだしも現実味があった。ただ振り回しただけの一撃ですら受け止めきれずに、上崎たちは呆気なく吹き飛ばされて編纂結界の壁面にまで激突していた。
動揺は確かにあった。だがそれでも英国最優の魔術師と、奇跡の連続であってもカテゴリー5を討伐した魔術師が揃っているのだ。それが、たった一合で無様に吹き飛ばされた。
「へぇ」
しかし、彼女の口から漏れたのは感心するような声だった。
「今のですり潰す気だったんだけれど。存外、固いのね」
ぺろりと桃色の唇を長い舌が舐める。――それはさながら、獲物を前にした野生の獣のようであった。
「せっかく四人もいるのだし。空腹を満たすだけじゃあもったいないわよね」
凶暴に膨れ上がった左腕を掲げ、彼女は言う。
体勢を立て直すことが出来たのはオリヴェルだけだ。六花はまだ痛みに喘いでいて、レーネはもはや戦意を失ってオルタアーツさえ解けてしまっている。
たとえどれほど優れていても、たった一人でカテゴリー4を討伐するなど不可能だ。状況は、紛れもなく絶望的だった。
――だが。
「――っ」
いつまで経っても、彼女に動く気配はなかった。
なにか苦悶に口元を歪め、右手でこめかみを押さえ始めている。
『な、んだ……?』
「あぁ、もう……っ。ちょっとまだ馴染んでないのかしら……っ」
くるりと踵を返す。あまりにも呆気なく、彼女は上崎たちに背を向けていた。
「待て、何をする気だ」
「帰るのよ。なんだか不調のようだし。空腹は落ち着いてから、よそで満たすことにするわ」
その言葉に、オリヴェルも上崎も目を剥いた。
一見すれば、戦力も不足していて精神状態も不安定の上崎たちを見逃してくれるのだ。間違いなく命拾いしているのは上崎たちだ。
だが、それは根本的に間違っている。
彼女が冬城アリサであるのなら、その胸の中央には現世へと繋がる鎖がある。
上崎たちが必死になって冬城アリサの捜索をしていたのは、その鎖が魔獣の手に落ち、魔術師のいない現世が蹂躙されるのを防ぐためだ。
そして、形はどうあれ既にそれは破綻している。ここで彼女を逃せば、それはそのまま現世の崩壊を意味する。
「……はいそうですかと、逃がすわけにはいかないんだけれどね」
オリヴェルの挑発にも彼女は動じる気配はない。もはや一瞥すらなかった。
ただ手元の鎖を、無造作に編纂結界の壁面へと叩きつけた。
耳をつんざく音があった。
周囲を囲む白藍色の壁はまだ健在だ。――だが。
「な……っ」
オリヴェルが言葉をなくすのも当然だろう。
その壁面には、巨大な亀裂が幾重にも走っていたのだから。
編纂結界の有無が生死に直結するような上崎は編纂結界の強度を突き詰めているが、そうでなくとも上位の魔術師であればカテゴリー4との戦闘にだって十分耐えうる強度を持つ。
それをただの一撃でここまで打ち砕いた。
おそらく、二撃は保たない。
『……ッ』
一瞬上崎は編纂結界の上書きを考えるが、それとて時間稼ぎにもならないことは明白だ。立て続けに乱打するような形であれば、上崎の結界でも瞬く間に砕かれかねない。
逃がさないことはもう出来ない。仮に出来たとしても、現状の戦力では応援が来るよりもこの場の四人を彼女が殲滅してしまう方が早いだろう。
何か手を打たなければ。
たとえこの場でアリサを逃すことになろうとも、彼女が現世へ渡ることだけは阻止できるような、そんな手を。
『――レーネ! 界外発動と感覚拡張は!?』
即座に結びついた自身の思考を、ほとんど反射的に上崎は叫んでいた。
――気をつけなければならないのは、人の視界に映っている限りは現世に戻れないということくらいだね。
かつてアリサを現世へ帰すためにオリヴェルが言ったことだ。
たとえこの場での逃亡を許しても、何らかの形で知覚し続けることが出来れば現世への渡航だけは阻止できる。そうすればまだ手は打てる。――その先に待つ絶望には、目を伏せるしかなかったけれど。
「……っ」
上崎の短い言葉だけで理解したのだろう。レーネは即座にオルタアーツを再展開する。組み上げられた漆黒の円盤は瞬く間に小さくなり、界外発動のための術式と合わさり、矢のように姿を変えた。
『六花!』
その呼びかけだけで瞬時に理解し、痛みを堪えて六花は漆黒の剣と共に西洋兜へと突貫する。もはやただの膂力に任せた一撃が届くはずもなく、それは周囲を渦巻く鎖に阻まれるばかりだ。
バチバチと金属同士が擦れておびただしいほどの火花が西洋兜の前で弾け飛ぶ。――その視界不良を縫うように、レーネの矢が西洋兜を被った彼女の足首に吸い込まれていった。
「あぁもう。うざったいってば」
軽々と、羽虫でも払うように鎖が六花の体を弾き飛ばす。
それと同時。
長く金属の鞭が大きくしなる。――瞬間、諦観と共に上崎たちはオルタアーツを解くしかなかった。そのまま結界が破損すれば、魂が急激に戻る反動でダメージを負う。その上、いまから彼らに足掻けるようなことさえ何もない。
破鐘のような重い音が耳朶を打ち、砕けた編纂結界が鋭利な光を反射しながら降り注ぐ。あまりにもあっけなく、白藍色の壁は粉々に砕け散った。それは紛れもなく幕引きであった。
「じゃあね。また機会があれば、今度は美味しく頂くわ」
まるで陽炎のように、金髪の彼女の輪郭がぼやけていく。――魔獣の幽体化だ。補食事以外の魔獣はそうして他と一切の干渉を断ち、あらゆる追跡を回避する。
「アリサ――……」
上崎の震えた呼びかけに彼女が応えることはなく。
その姿は、煙のようにゆらりと消えた。




