第三章 窮余の爪 -6-
――逃げ出していた。
何をしているんだろうと自分でも思う。
それがどれほど身勝手で、危険で、迷惑をかけるかなんて分かっている。
それでも、この場から消えてしまいたいと思った。
現世にも天界にも居場所なんてもうないのだと、そう突きつけられてしまった。
このまま誰にも見つからず、ただひっそりと消え失せてしまえればどれだけいいか。――そんなことは叶わないと分かっているのに、それでもそんな衝動が抑えられない。
じくじくと胸の中央が痛んだ。自分の体力を何も顧みずに全力疾走を続けているから、とっくに肺は悲鳴を上げている。けれどそんなひりつく痛みを上書きするくらい、原因不明の疼痛がずっと胸の奥で燻っている。
その痛みから逃れるように必死に足を回して、けれど痛みは薄れるどころか増すばかりで、それに気づいていながらも少しも走る速度を緩められなかった。
それから、どれくらい走っただろう。
随分と遠くに来たような気もするし、ぐるぐると同じところばかりを回っていたようにも思う。どちらにしても、上崎たちがそうすぐに追いつくことはないだろう。もしかしたら、上崎以外はまだアリサが姿をくらましたことにも気づけていないかもしれない。
いっそそれでもいいと、そう思った。
もう誰からも忘れ去られてしまった方が、きっと気が楽だ。
――誰とも関わることのないそんな世界でなら。
――もうこれ以上、誰かの努力を踏み躙るようなことはないはずなのだから。
「それじゃあ、つまらないよねぇ?」
声。
甘く、どこか舌足らずな幼き少女の声。
突然だった。
ただ、そんな無邪気な声がどこからか聞こえてきたとき、気づけばアリサは押し潰されるように膝を折っていた。
「な、に――……っ!?」
視界が霞んで景色が明滅する。先ほどの声以降、ひどい耳鳴りのような靄の向こうにしか音も聞こえない。
何が起きたのか、そんな簡単なことさえ理解の埒外にあった。
ただ突如としてアリサの世界は何かに徹頭徹尾塗り潰されていた。自分が抱えていた葛藤さえ、あまりにちっぽけなもののようにさえ思えるほど、それは津波のように跡形もなく何もかもを根こそぎ押し流してしまっていた。
「せっかく面白いものをぶら下げてるのに、かくれんぼばっかりじゃあ面白くないでしょ?」
声は続く。
かつ、かつ、と。
パンプスを鳴らすような足音だった。
冷たい汗にぐっしょりと背中を濡らし、がくがくと全身を震わせるアリサの前に影がかかる。
見上げることさえ、叶わない。
世界を何かがまるごと上書きしてしまったかのような、そんな得体の知れない存在感だった。
それを前にしてしまえば、もはや泣き喚くことさえアリサには許されなかった。
気が狂いそうになるほどの重圧の中で、声の主は続ける。
「あぁ、ごめんね。人間には少し毒だったかな」
ふっと。
あれほどにアリサを苦しめていたプレッシャーが霧消する。「これなら大丈夫かな」なんて声に、思わず彼女は顔を上げていた。
見れば、そこには『完全なる美』があった。
数多の画家が筆を折るであろう、もはや真理とさえ言っていいほどの美しさだった。まだ十数年しか生きていないアリサにも分かる。その美貌は経験で見抜くのではなく、魂を直接揺さぶるような、いっそ暴力的な何かを秘めていた。
ビスクドールのようだなどと凡庸な形容ではとても言い表せない、人間離れした顔立ちの幼き少女が、その虚空のように澄んだ双眸でアリサを見下ろしていた。その身を包むものはただの黒いロリータ調の衣服のはずなのに、目が眩むような錯覚さえある。
人間ではないと、理解した。
こんな存在が同じ人間であることなど、あってはならないと。
「それよりさ」
膝を屈したままのアリサの頬に、その何者かの白魚のような指が触れる。
「どうせ消えたいっていうのなら、その前にもう少しだけわたしに付き合ってよ」
満面の笑みを浮かべて、その存在は慈しむようにアリサの頬をなで続ける。
「お遊びで作った力作も長生きはしたけど、この前壊されちゃったところだし。新しいおもちゃを探してるんだよね」
なんの話をしているのかはまるで見えてこない。それはほとんど独り言で、あるいはそもそもの初めからアリサに言葉を求めてなどいなかったのか。
「あの兜の子、結構よかったでしょ? まだまだ進化にはかかりそうだったから、瀕死の子のエネルギーを適当に飲み込ませて能力を底上げしてみたら、思ったより効果があったみたい。まぁそれもすぐ壊されちゃったんだけど」
そう言って。
するりとその指先は頬から顎へ、顎から首筋へ、首から鎖骨へとゆっくりと伝い。
そして、胸の中央に輝く白銀の鎖へと触れた。
――そう。
触れたのだ。
無機物であろうと他者には触れることの出来なかった、ただそこにあるだけの臨死者の鎖を。
「珍しい鎖だよね。わたしも久しぶりに見た」
どくりと、心臓が鳴った。
それは紛れもなく、アリサの命だったから。
それが万が一にも千切れてしまえば、アリサは臨死者ではなく死者となる。
自らの手で命を絶ったというのに、いまはそれがどうしようもなく恐ろしかった。
「この珍しい鎖と、さっき言った瀕死の子の核。――組み合わせたら、どんな色になってくれると思う?」
気づけば、彼女の反対の手には、どくんどくんと脈打つ臓物のようなものが握られていた。
声を上げる間もなかった。
その黒い少女の笑顔を最後に、冬城アリサの世界は終わりを告げた。




