第三章 窮余の爪 -5-
真白なシーツと明るすぎるほどの照明が、上崎の視界を白色で独占していた。漂う消毒液のにおいには鼻がだんだんと慣れてきた頃だ。
ベッドで横になった上崎を見下ろすように、傍でオリヴェル・リーゼフェルトが腕を組んで仁王立ちになっていた。
「……君は、もう少し自分を省みた方がいい」
「返す言葉もないですね……」
自分の頭に巻かれた包帯を見上げるように目を逸らしながら、上崎は居心地の悪い乾いた笑みを浮かべるほかなかった。
六花や白浜にも散々「心配をかけるな」と説教された後に、こうしてオリヴェルがわざわざ入室してきたのだ。それほどに上崎の状況は危なかった。
レーネが魔獣を屠ったことで、上崎の体内に巡っていた神経毒もまた霧散した。だがそもそも頭部に負った傷は縫う必要があるほど深いものだったし、まだ毒の影響で四肢に痺れが残る始末だ。
「レーネが来なければ本当に危なかったなって思ってますよ」
「来てどうにかなったからよかったものの、レーネ一人で対処できる魔獣でなければどうなっていたか。――そもそも、先遣隊が感情にまかせて魔獣を無理矢理討伐した時点で間違っているとは思うのだけどね」
そんな彼の小言を真摯に受け止めながらも、上崎は少し首をかしげていた。
確かにオリヴェル・リーゼフェルトの言葉は正しい。だが彼と上崎の間にわざわざ病室に訪れてまで叱責するような関係性はないはずだ。上下関係でもそれほど親しい間柄でもなく、国籍も所属もまるで異なる魔術師なのだから、ともすればそれこそ越権行為だ。
リーゼフェルト家の嫡男たるオリヴェルならばそんなことは理解しているだろうに、それでもこうして言わずにはいられなかったのだろう。そのことに、上崎は普段の彼からは見えない、何か奥底に秘めた本音のようなものを垣間見た気がした。
「頭に傷を負うのは魔術師としてはあってはならないんだ。核の損傷はそのまま消滅を意味する。仮にそれを免れたとしても、核に負った傷は回復し得ない。そうなれば、魂に負荷をかけるオルタアーツは永劫使用できなくなることだってある」
「…………、」
「君は、カテゴリー5を討伐した英雄だ。その君が魔術を失うということは、世界の希望もまた潰えるということだよ。その自覚を持った方がいい」
そう言って、オリヴェルは上崎に背を向けた。「君は、私のような凡才とは違うのだから」と、そんな言葉を残して彼はそのまま病室を後にする。
そんなどこか寂寞を感じさせる背中を見送って、上崎はそのまま倒れるようにマットレスに背中を預けた。
「流石に気持ち悪い……っ。毒の影響なのかな……」
「だったら無理に起きてないで最初から寝てなさいよ」
唐突なその声に、上崎がぎょっとして振り向いた。見れば、扉の前にはにはいつの間にか冬城アリサが立っていた。オリヴェルと入れ違いで入ってきたのだろう。
「お前、ノックくらいしろよ。俺が着替え中だったらどうするんだよ」
「そしたらおあいこでしょ。――いや、全然おあいこじゃないけど。絶対あたしの方が損してる気がするそれ」
そういつものように上崎を睨むのに、それはどこか弱々しい。何か後ろめたいものを隠しているような、そんな健気さにも似た感情が見え隠れしている。
「どうかしたのか?」
努めて優しく問いかける上崎に、アリサは何度も口ごもり、言い淀みながら、それでも、絞り出すようにぽつりとこぼす。
「……オルタアーツっていうのが二度と使えなくなるかもしれなかった、って、そういう話が聞こえたんだけど」
そう切り出した彼女の声は、震えていた。ぎゅっとスカートの裾を握りしめたその拳に、痛々しいくらいの力がこもる。
「かもしれなかったんだから注意しろっていう話だよ。別にお前が気に病むことじゃ――」
「気にするでしょ……っ」
いっそ怒りさえ込めて、アリサは静かに絶叫する。
「だって、それは結城の大事な夢だって……っ。普通の魔術は使えなくなっちゃっても、それでも諦めないでがんばり続けてるんだって……」
「……だとしても。誰かを守って終わるんならそれは本望だろ。お前を守るためかは関係なく俺はそうやって怪我をしてたよ。落第生でも魔術師だからな」
魔術師は危険な職業だ。大きな怪我もなくその職を生涯全うできるとは限らない。消滅するリスクはあるし、そうでなくとも、オリヴェルの言葉のように後遺症が残るような怪我を負って退職せざるを得ない場面だって起こりえる。
それは覚悟の上だと、そう伝えようとする上崎に、しかし彼女は首を横に振る。
「いつかは、そうかもしれない。だけど今日あんたが怪我をしそうになったのは、あたしのせいだから……」
「お前のせいじゃないだろ。だってそもそも、お前は望んで天界に来たわけでも――」
「望んだんだよ」
はっきりと。
あるいはその肯定は、拒絶と同義だった。
「あたしは、自分で自分の首を掻き切ったんだから」
その、独白に。
上崎はどんな顔をすればいいのか分からなかった。ましてやかけられる言葉があったのだろうか。ただ唇だけが空回りする上崎を置き去りにするように、彼女は顔を伏して続ける。
「……あたしは部活で嫌がらせされてたの。水筒を隠されたりから始まって、髪を無理矢理切られたりとか、まぁひと通り。――だけどそれでもあたしは試合に出た。いままで頑張ってきたことがそんなことで否定されるのだけは、どうしようもなく許せなかったから」
どくり、と上崎の全身が震える。
告白する彼女の背後に、またしても、四年前の自らの幻影を上崎は見てしまう。それは言い逃れの余地を簒奪するほどに鮮明に上崎の心臓を冷たく鷲掴みにする。
「努力が報われないなんて当たり前で、そんなことはあたしだって分かってる。――だけど、頑張って積み重ねてきたことが踏みにじられることだけは、あっちゃいけないでしょ……っ」
「そ、れは――……」
何も言葉は続かない。当然だろう。上崎結城は何よりも、冬城アリサのその言葉に共感を抱いているのだから。
「だけど、抗っても抗っても収まるわけじゃない。最後には、あたしの大事な友達が大切にしていたものをずたずたにされた……っ」
そのときの彼女の絶望が、いったいどれほどのものだったか。
決して踏み躙らせまいと、その努力を懸命に守り続けた彼女をあざ笑うように、そんな彼女の横で大切なものを蹂躙された。たとえほかの誰がそうではないと諭し擁護しようとも、彼女がその罪過を認めてしまった時点で意味はない。――彼女のプライドが、彼女の親友の努力を汚したということと同義なのだ。
「だから、あたしは自分の首を掻き切った。あたしさえいなくなれば、彼女の努力がこれ以上踏み躙られることはないって、そう思ったから」
たったそれだけの理由で、と大人は首をかしげるだろうか。しかしそれは違うのだ。もし彼女の葛藤を些末なものと切り捨ててしまうのだとすれば、それは根本を間違えている。
たった十数年の人生。物心がついてからは十年あるかないか。そんな短さの中ではたとえ大人がどれほど矮小に思えるようなことであっても、簡単に心の内を占拠できてしまう。ましてや目が眩むような学生の日々であればなおのことだ。
だから、それしか道はないのだと、簡単に思い詰めてしまう。
「――なのに……っ。あたしはまた、こうしてあんたの努力を無駄にしそうになってた……。そんなの許せない……っ。ほかの誰がなんて言ってくれたって、あたしがそれを一番許せないんだから……っ!」
凍える彼女の言葉に上崎はいったい何を言えただろうか。
――その感情を、きっと上崎もまだ抱えているというのに。
「…………っ」
アリサの背後から糾弾する虚ろな幻の瞳に射貫かれて、上崎は呼吸を忘れた。指先だけが痙攣したみたく微かに震えている。
神童、と謳われていた。
自身の才能を信じて疑わなかった。レーネと共に特別育成プログラムを受けていたときだってそうだ。このままの道を進めば、自分は優れた魔術師になれるのだという確信があった。
けれど、そんな夢想は無残に崩れていった。
自分の知らないところで魂を歪められ、日に日にオルタアーツは使い物にならなくなっていった。あれほどの輝かしい過去の経歴など瞬く間に霞んで消えた。――それどころか、その才は世界に仇なすような醜悪なものに塗り替えられようとしていた。
費やした時間は踏み躙られ、捧げた辛苦は悪逆の餌食へ。その転落の絶望がどれほどに心を蝕むかを、上崎結城は身をもって知っている。
何かが違うだけだと自分の中で無数の言い訳を重ねて、いつか元に戻るのだと根拠もない妄想に身を投じて、どうにか永らえられていただけ。こんなはずじゃなかったのに、なんて言葉が過ぎらなかった日はない。
きっと。
水凪六花と出会っていなければ、上崎は耐えられなかっただろう。
――あぁ、だからか、と、どこか上崎は納得していた。
彼女の後ろに見えた幼き自分の幻影は、まさしく上崎を咎めるためのものだったのだろう。
冬城アリサが抱え込んだ苦難と懊悩に共感し、しかし他人に依存してその苦しみに蓋をしたお前には何も言う資格はないのだと、そう無慈悲に突きつけるために。
「……どうすれば、よかったのかな」
アリサに促されても、上崎には何も言えなかった。彼女の後ろで今なお睨み付ける己の蜃気楼が決してそれを許してくれない。
彼女だって上崎の共感には気づいているはずだ。だから初めから上崎だけには心を許していたのかもしれないし、だからこうして上崎の言葉にすがろうとしている。
「もう誰の邪魔もしたくない。誰の積み上げたものも壊したくない。そう思うのに、あたしがいるだけでみんな崩れていって――……」
いつものアリサなら、きっとそんなことを言わなかっただろう。天界に来て不安など山のようにあっただろうに、泣き言など一度も上崎たちの前でも言わなかった彼女だ。その彼女の勝ち気を上崎は間近で見てきた。――だが、翻っていまはそんな強さは微塵も感じられない。その弱音は、間違いなく年相応の少女のものだ。
「……っ」
それを正しく理解していて、それでも上崎は目を逸らすように顔を伏せるしかなかった。ただ己の無力を嘆いて歯を食いしばりながら、激励も懺悔も声にはならない。
上崎に言えることなど何もない。言っていいはずがない。
アリサの居場所は現世で、上崎の居場所は天界だ。
たとえどれほど言葉を尽くしたところで、上崎はアリサにとっての水凪六花になることができない。その役目だけは、上崎結城には背負えない。――だから何も言えない。
言わないのではなく、言ってはいけないのだ。
風が吹き込む。
背筋が凍るほどの冷たい空気の流れを感じて、思わず上崎は顔を上げた。
そこにはもう、誰もいない。
「あり、さ……っ?」
ただぽっかりと開け放たれた扉だけが置き去りにされたようで、きぃと軋みを上げていた。




