第三章 窮余の爪 -4-
気を抜けばそのまま意識の手綱さえ手放してしまいそうなほど、上崎は心底からの安堵でため息を漏らした。
彼女が冬城アリサに追跡術式を発動していたのを知っていた。だからこうして魔獣に襲われればレーネが誰よりも早く情報を察知し救援に駆けつけてくれる。その可能性に賭けて、上崎はいままでどうにか時
間を稼いでいたのだ。そして、その博打に上崎は見事勝利した。
「ごめんね、ダーリン。ちょっと許可の取り付けに戸惑っちゃった」
『この早さできちんと許可までもらってきたなら上出来だろ』
すたと床板に着地するレーネをねぎらう上崎に、もう魔獣への警戒心はない。――それは、彼女がこの場で魔獣に後れを取ることなどないと確信しているからだ。
「まぁ正式な許可は後でノルが携えてくるはずだけど」
「それは無許可の独断専行というのでは……?」
果たして本当に許可をもらってきたのかは甚だ疑問ではあるが、しかし、そのおかげでこうして上崎たちが助かったのは事実だ。――それがなければ、今頃上崎たちは仲良く消滅していたかもしれない。
「一応、私が先遣隊として仰せつかったのはこの魔獣の足止めなんだけどね」
『先遣隊をよこすってことは、この魔獣はよっぽどってことか』
「そう。カテゴリー3、固有名はオルグヘルム。三年前に発見されてから、三度も魔術師による討伐が試みられているけどいずれもことごとく失敗に終わっているってさ。カテゴリー3としては間違いなく破格の強さだろうね」
そんな風に言いながら、しかしレーネの表情には微塵も不安は感じられない。
『……一人で討伐する気か?』
「カテゴリー3だしね。――ダーリンたちは、アリサちゃんをよろしく」
なんでもないように、いっそ軽薄にレーネ・リーゼフェルトはそう言ってのける。だがそんな啖呵を切れるほどの実力者であることは、四年も前から上崎自身が誰よりも知っていた。
「アリサちゃんも。もう大丈夫だからね」
「ぇ、あ……。じゃ、なくて。う、後ろ……っ」
引きつったようなアリサの言葉に、しかしレーネはただ微笑むだけだ。その背後では、骨兜の魔獣――オルグヘルムが毒の尾の振りかぶっている。
だが、それがレーネの身を捉えることはない。まるで見えているかのように、毒の尾の動きに合わせてレーネの体はふわりと舞い、その攻撃を軽々と躱す。
「大丈夫だって。――アリサちゃんを狙った以上、この獣はわたしの手でぶっ飛ばすから」
『お前の場合は脚だろ』
「ダーリン、うるさい」
余計な茶々に目くじらを立てるレーネに戦闘中の緊張感はない。そんな有様でありながら、魔獣の攻撃は彼女の身を掠めることさえ出来ていなかった。
これが彼女の第二の能力『感覚拡張』の恩恵なのだろう。上崎が知っている四年前にはなかった技能だが、もし上崎のオルタアーツが万全であろうともあの頃のような対等な勝負が出来ただろうか。
彼女の『疑似放電』による速度と威力にこの『感覚拡張』が加わったことで、もはやその脅威の次元を異にしている。いっそ演舞か何かを目の当たりにしていると言われた方が、まだしも現実味があるほどに。
彼女の視覚や聴覚と言ったあらゆる感覚を周囲を飛び交う漆黒の円盤が拡張し、その電磁力による速度を最大限発揮する補助となる。ただそれだけの単純な解が、いっそ悪魔的なほどに凶暴なのだ。
「終わらせようか」
バチィっ、と漆黒の長靴の間に紫電が走る。刹那、その雷光は膨れ上がり、雷神の槌となって一息にオルグヘルムを飲み込んだ。
床板や照明は粉々に打ち砕かれ、木っ端が周囲を蹂躙する。目を覆うアリサの前に立ち、それらの破片を六花が打ち落としていた。そんな処理を強いられるほどの莫大な威力だった。
紛れもなく必殺の一撃。これほどの威力を前に、カテゴリー3程度の魔獣が耐えられるはずがない。それを上崎もレーネも確信していた。この粉塵が晴れた後に残るのは、炭化し核さえ焦がされた哀れな魔獣のなれの果てだけだと。
――なのに。
「――っ!?」
レーネの顔が驚愕に染まる。同時、煙を突き破るように骨兜の魔獣の左腕が彼女の眼前へと迫っていた。――周囲の円盤による感覚拡張がなければ、その腕に絡め取られてレーネは今頃無惨な姿となっていただろう。
右半身と毒の尾は黒焦げ、もはや使い物にならないであろうに。それでもその左半身は無傷で、その砕けた兜の奥に光る眼光は憤怒に満ち満ちていた。
「これ、もしかして共食いしてた……っ!?」
漆黒のブーツにより縦横無尽に辺りを駆け巡り、暴れ狂うオルグヘルムの攻撃を躱すレーネ。その言葉に、上崎もまた得心がいった。
共食い。すなわち、魔獣が魔獣を食らうこと。
人を食らうことでエネルギーを蓄えるのが魔獣だ。それはつまり、魔獣自体がエネルギーの貯蔵庫になっていることを意味している。より強い魔獣がほかの魔獣を食らいそのエネルギーを奪うことも可能だ。――その場合、通常の捕食では起こりえない過剰なエネルギーの供給により、一時的にカテゴリーの等級を超えた身体能力を得ることがある。まさしく、眼前のオルグヘルムの耐久力がそれだ。
『――あぁ、だからここに来たのか……っ』
アリサの負の感情に引き寄せられたにしても、偶然が過ぎる。一個人の感情だけで呼び水に届きうるとはいえ、それは『あり得なくはない』という程度の話でしかないからだ。
だがもしも、だ。
オルグヘルムが食った魔獣がこの臨死多発事件を引き起こした魔獣であるならば、話は違う。
世界の境界に作用する魔獣と、世界の境界に位置する臨死者である冬城アリサ。そこに何かしらの共鳴めいたものが存在していても不思議はない。そして、その魔獣をオルグヘルムが食したのであれば、その繋がりを無意識に追ってアリサの前に顕現することはむしろ必然だ。
その結論にレーネもまた至ったか。彼女の眼に、利剣にも似た一層の鋭さが宿る。
「……アリサちゃんをこんな天界にまで連れ回した挙げ句に、勝手に食われて追いかけ回して。――流石に、ちょっとかちんと来たかな」
ぞくりと、身内であるはずの上崎の背筋が凍る。
暴れ狂うオルグヘルムの拳打の全てを躱しながら、笑みの絶えなかったレーネの顔から表情が途絶える。
襲撃のときに自ら開けた天井の大穴の下までオルグヘルムを誘導したかと思えば、彼女はそのままその穴を突き抜けて天空へ舞い上がる。
天地を無視し、逆しまにその漆黒の長靴を振り上げ構えた彼女の脚に、先ほどとは比較にもならないほどの膨大な紫電が迸る。
「わたしの大切な人に手を出したんだから。――その核、一片だって残ると思わないで」
あるいはそれは、雷雲さえ呼び寄せたかのように。
天と地を繋ぐかのような雷電の柱は、音も光も蹴散らしてただ全てを蹂躙する。
ほんの刹那に凝縮されたその一撃は、無窮にも等しいほどにも感じられた。数多の魔術師を貪り、ついにはほかの魔獣さえ食らったその魔獣に、断末魔を上げることさえ許さない。
雷霆が途絶え、砂煙が風にさらわれ流れた後。
そこにあの巨躯は見る影もなかった。
ただ後に残ったのは、焼け焦げ角の折れた兜の残骸だけだった。




