第三章 窮余の爪 -3-
たとえ何かしらの外的要因が介在していたとしても、冬城アリサが臨死に陥るための必要条件に変化はない。――それはすなわち、肉体的な死を生への執着が阻むか、あるいは、生命活動を否定するほどの死への渇望を抱いているかの二択。
アリサの快活な立ち居振る舞いを見て、上崎たちは無意識に後者の可能性を排除していた。見えないように蓋をしていたのだ。
魔獣は人々の負の感情を呼び水に出現する。たとえたった一人で抱え込んだ感情であろうとも、一つの生命を鎖すほどの絶望であれば魔獣をおびき寄せることは起こり得る。それが万に一つの可能性であっても、その危険性を軽視することだけはあってはならなかったというのに。
――事実として、それは起きたのだから。
眼前には三メートル近い体躯。
青白い肌に、漆黒の影にも似たぼろ切れのような毛皮。外形は狒々と形容するのが最も近いだろうか。霊長類のような外見でありながらも肉も爪も発達したそれは、獣らしい四肢を持っていた。
そしてなによりも特徴的なのは、頭蓋にある刃のような角の生えた髑髏の兜。
それが突如として現れた魔獣の姿であり――そして、ただの一撃で上崎結城を沈黙させた者の正体であった。
「――っ」
言葉を発しようとするのに、上崎の喉は痙攣するだけでうまく動いてくれなかった。ほとんど倒れた状態にもかかわらず、半分赤く染まった視界はぐらぐらと揺れて安定しない。ただの脳震盪であればいいが、下手をすれば核にまで響いているか。
――いや、と。
靄がかかったような思考がようやくのように別の可能性に辿り着くと同時、上崎は体育館の中を覆い尽くすように白藍色の結界を生み出す。――だが、平時の氷を弾くような澄んだ音はなく、耳障りなノイズに混じったひどく不格好な四面体がなんとか形を保っている程度だ。
そんな無様で、それでも上崎は躊躇なく己の全身を黒曜石の剣へと変貌させた。上崎の体を構成する全てが解け、闇よりなお深い黒色の片刃の剣に再編されると同時、その体を誰よりも信頼する少女が力強く握りしめる。
「大丈夫なんですか、先輩……っ!?」
『俺の心配は後でいい……っ。それより、絶対にアリサを守れ』
肉体の全てを黒い剣へと変換し意識や声だけを幽霊のように再構築した上崎の言葉に、六花は戸惑ったような表情で返す。
「編纂結界を張り直して、アリサちゃんだけでも外へ――……」
『駄目だ。この魔獣が群れをなしていないっていう確証がない。結界の外に出したら、俺たちの手どころか目も耳も届かなくなる……っ』
ちらりと背後のアリサを一瞥すれば、突然の魔獣の襲撃にアリサは腰を抜かしてしまっているようだった。それでも無傷でパニックにも陥っていないのは僥倖と言える。
彼女の自力の脱出は望めないし、結界の外に他の魔獣がいないとは言いきれない。そんな現状では、彼女をこの結界の中に閉じ込めたまま、眼前の魔獣を六花たちだけで相手取らなければならない。
――さらに。
『……っ』
黒い剣となった体で、それでも上崎はなおも頭蓋を揺さぶられるような気持ち悪さを抱え続けていた。ただの脳震盪であれば、武具生成術式で体を組み替えた時点で収まって然るべき。つまり、上崎の考えた別の可能性が真であるということだ。
「先輩……っ!?」
そんな上崎の異変に、彼女が気づかないはずがない。だが上崎はそんな彼女の憂心を遮って指示を飛ばす。
『来るぞ、六花……っ。徹底的に防げ。これは掠めただけで終わりだ……っ』
同時、背骨を連ねたような魔獣の尾が六花たちの眼前へ迫る。
その一撃を六花は黒き剣で打ち払った。上崎の言葉に従い、その尾が連撃に打って出ることのないよう体育館の床を突き破るほど力強く。
その衝撃で尾の外骨格の関節から透明な液体が滴る。血液や髄液とは明らかに異なその体液に、六花はやはりと目を剥いた。
「毒、ですか……っ」
『神経毒だ。食らえば動けなくなるぞ……っ』
「先輩はもうこれを――っ」
六花が上崎の身を案じるが、そんな暇さえ与えまいと骨兜の魔獣の追撃が迫る。鞭のようにしなりながら、幾度となくその毒の鏃をたたえた尾を振るう。
六花の身体強化術式があればその程度の単調な攻撃など容易く防ぎきれる。だが掠めることさえ許されないとなれば迂闊に飛び込むわけにもいかず、反撃に打って出るだけの余裕まではない。
じじ、と辺りを取り囲んだ結界の壁にノイズが走る。それらを構築している上崎の意識に、同じような障害が出始めているからだ。
『……持ち堪えてくれ……っ』
その言葉は六花に向けたものか、あるいは、上崎自身へ向けたものか。
すでに上崎は最初の奇襲を受けた時点でこの毒にその身を侵されている。武具生成術式により全身を剣と化したいま呼吸困難などの症状は進行しないが、意識自体は次第に暗く落ちていくような感覚があった。――このまま何も処置しなければ、上崎の脱落とともに事態が最悪の状況に陥ることは火を見るより明らかだ。
「速攻で仕留めます……っ」
『無理だ……っ。この魔獣の特性が「毒」なら俺のオルタアーツの能力は使えない。策もないのに単純な膂力だけであの毒の尾を掻い潜るなんて無謀すぎる……っ』
「でも救援がいつ来るかも分からないのに……っ!」
上崎の制止を振り切ろうとする六花に、それでも彼は首を横に振るしかない。
この体育館を貸し切りとしてしまった上に、編纂結界を張っている。外界とは音さえ遮断してしまっている以上、下手をすればまだ魔獣の襲撃が周辺に気づかれていない可能性すらある。こんな状態で魔術師への通報は果たしていつになるか。――いくら楽観視しても、応援が駆けつけるより上崎の意識が落ちる方が間違いなく早いだろう。
事態がどれほど逼迫しているかなど上崎だって理解している。理解した上で、それでもこの場は耐え凌ぐしかないと判断したのだ。
――それに。
『大丈夫だ。救援はすぐ来る。これは絶対だ』
「……分かり、ました」
上崎の言葉に、六花が無条件で頷く。理解も納得もしていないだろうに、それでも、彼へ全幅の信頼を寄せてくれているが故に。
上崎と六花の二人だけでのカテゴリー3の討伐経験は確かにある。だが当然ながら、カテゴリー3の中にも優劣は存在する。台風における風速のような明確な基準が『強さ』に設けられないから、便宜上たった五つの枠に魔獣を押し込めているだけ。上崎たちが以前単騎で討伐したゴートヘッドはカテゴリー3の中でも間違いなく下位。
その後のカテゴリー4:ブラッディゲートも、前人未踏のカテゴリー5:災厄/ディザスターの討伐も、どちらも誰かの助力や度重なる奇跡がなければなし得なかった。――上崎と六花の二人だけで討伐できる限界は、おそらくはカテゴリー3の中位以下。たとえ周囲がどれほどに上崎たちを英雄視しようと、それが客観的に見た二人の実力だ。
だが、眼前の骨兜の魔獣はその枠を大きく逸脱している。
「――ッガァァアア!!」
咆哮があった。尾の連撃さえ通じないと苛立ったか、その音圧はもはや衝撃波に等しい。それだけで、十分に距離をとっていた六花の体をじりと後ろへ下がらせるほどに。
毒などという曲芸に頼ってくれていたからこそ浮き彫りにならなかっただけだ。単純な筋力に全霊を注がれれば、その殴打をまともに捌ききれるかさえ怪しい。
「来ます!」
六花の言葉と同時、骨兜の魔獣がその丸太のように太い腕を振りかぶっていた。そこから繰り出される拳打が上崎の剣を強かに打ち付ける。
上崎結城という一個人の魂ほとんどを費やして形成した、安全性さえ度外視した規格外のジェネレート。それが上崎のオルタアーツだ。それはたとえ、カテゴリー5の一撃であっても防いでみせた。――だが、そのときとはあまりに状況が違いすぎる。
『っが、ぁ……っ』
上崎の口から苦悶が漏れる。子供の喧嘩のようにただ振り回されるだけの拳が、あまりにも重い。単純な魔獣の筋力や上崎の体を蝕む毒の影響だけではないだろう。
「先輩……っ!?」
『大丈夫だ、まだ……っ』
歯を食いしばって絞り出した上崎の言葉は、しかしただの強がりだ。
元々の奇襲で頭蓋が割れるほどの衝撃を受けている。失血にしろ脳震盪にしろ、それだけでも十分すぎるほどに致命的な一撃だった。その蓄積されたダメージが、ここに来てさらに上崎の本領を削いでいる。
状況は最悪だ。上崎の意識がどうにか持ち堪えたとしても、形成したジェネレートや結界が先に脱落するのは目に見えている。もはや敗北までは秒読みの段階だ。
――けれど。
「――うん。もう大丈夫だよ」
声が降る。
それと共に、狭苦しくもあった薄藍色の結界が大きく開かれた。――それは、上崎がとっさに展開したものを別の誰かが上書きしたという証だ。
瞬間、上崎たちの視界は真っ白い何かに埋め尽くされ、魔獣の咆哮を一笑に付すような衝撃に全身を叩かれていた。だが、不思議とそこに痛みはない。
その完全にコントロールされた白い爆発の正体を、上崎は知っていた。
落雷。
すなわち、彼女のオルタアーツだと。
『……流石だよ、お前』
雷光で塗り潰された視界がぼんやりと戻った頃、砕けた天井を見上げた上崎は思わず笑みをこぼしていた。
すらりと長い脚にまとうのは、漆黒の長靴。
身を包むダブルボタンのブレザーは汚れを知らぬ純白だ。
ふわりとキャラメル色の髪が風になびく。
まるで天使と見紛うような美しい少女――レーネ・リーゼフェルトが、そうして天に浮いていた。




