断章 レーネ・リーゼフェルトの場合 -4-
――いらいらする。
「次」
――いらいらする。
「次」
――いらいらが、収まらない
「つぎ」
もはや加減も忘れて、わたしはおもちゃより歪な銀色の刀身をへし折りながら、目の前の相手のみぞおちに掌底を叩き込んでいた。
それまで、と審判をしていた指導員が慌てて間に入り、わたしがそれ以上の追撃をしないように制止する。
特別育成プログラムの初日のことだった。
指導員が全員のレベルを知りたがったのと、初日の自分のレベルより正確に把握できるようにするため、と催されたのが、この参加者総勢五〇名ほどのトーナメント戦だった。
はじめは、期待感だけがあった。
このプログラムを通して、わたしは自分の殻を打ち破るのだと、そう意気込んでいたのだけれど。
蓋を開けてみればこれだ。
誰も彼もまともなオルタアーツなんて使えていない。武具生成術式は最低限できているが、そこ止まり。どれも判を押したように基本的な両手剣で、魔獣討伐の最低ラインの『情報破壊』の性質を僅かに含んでいる程度だ。そのくせその習得にかまけていたのか、より基本の身体強化術式だってずさんもいいところで、使いこなすと呼ぶにはほど遠い。
その程度でわたしの相手になんてなるわけがなかった。
こんなレベルの低い集団の中にいては、わたしは強くなるどころか弱体化してしまうんじゃないのかと、そんな恐怖さえあった。
だから、ただただいら立ちだけが募っていた。まるで破裂寸前の風船のように、どうしようもないくらいにフラストレーションが膨れ上がっていく。
結局。
わたしはただの一撃も浴びることなく決勝まで駒を進めてしまった。――それはつまり、この環境でわたしが学べることなど何もないと示していて、リーゼフェルトの期待になど応えられないのだという絶望が、波のように打ち寄せてくる。
――もうこの試合が終わったら帰国してやろう。
半ば本気でそんなことを考えていたわたしの前に、一人の少年が立つ。中肉中背で特徴らしい特徴はない。日本人らしい黒髪黒眼で、たぶんわたしよりは年下だと思う。
その男の子は、まじまじとわたしの顔を見つめて、困ったように声を発する。
「……はろー?」
「よろしく」
不慣れで発音もへったくれもない挨拶をしようとするその子に、わたしはぶっきらぼうに日本語で返す。「日本語通じるパターンかぁ……」と恥ずかしそうにひとりごちる少年を横目に、わたしは試合開始の位置に移動した。
武道場らしき板張りの床の上で、上履きのスニーカーがきゅっと音を鳴らす。湿度は高くて気温も高い。大して動いてもいないのに滲み出てくる汗で張りつく前髪を払って、わたしはいら立ちを抱えたままその少年と対峙する。
「……なにか言いたいことあるの?」
わたしを見て何かを言わんとしている彼の姿に、いら立ちを込めたまま問いかける。
「えっと。髪。ポニーテール? もう少しちゃんとくくった方がいいんじゃないか?」
「ハーフアップだから」
ぴしゃりとわたしは言う。そもそもきちんと髪をくくれなどと、あまりにも高慢だろう。こんな程度の低い者たちが相手では試合になんてなるはずがないんだから。
「君、名前は?」
「上崎結城」
「カミサキ、ね。わたしはレーネ・リーゼフェルト」
「レーネ、りー……なんて?」
髪型はおろか人の名前もまともに覚えられないらしい。周囲のレベルの低さに加えて、この英国とはまるで違う不快を極めた劣悪な気温。その上でこの無礼な年下の男の子、と来ればわたしのストレスも限界値だった。
コツ、とわたしがつま先で床板を叩くと同時。
周囲に白藍色の五〇メートル四方の立方体――編纂結界を展開する。あらゆるオルタアーツの基礎であるからこそ、その結界の形状と硬度、展開速度は重要だ。いまのわたしの結界は、間違いなく一線級のそれだ。
けれど、目の前の少年はそれをけろっと見ていた。彼我の実力差さえいまので理解できないのかと、わたしの中でさらなるいら立ちが湧き上がる。
――いや、これが終わってすぐ帰るなら、ちょっとくらい意地悪してもいいか。
そんな思考が過ぎって、わたしはいら立ちを小さな笑みに変える。
「せっかくの決勝戦みたいだし。――とっておき、見せてあげる」
瞬間。
わたしの両足に、どこからともなく現れた漆黒の靄がまとわりついていく。
それはやがて、一つの形を為していく。
それはほとんど鎧のような、漆黒のブーツだった。
流線型の金属質の本体にピンクゴールドの精緻な装飾が施された、太ももの半分より下を覆う黒色の長靴。わたしのとっておきのオルタアーツだ。
「……俺、そんな奥の手なんてないんだけど」
言いながら、少年は右手を自分の左の腰へ回す。まるで光を吸い寄せるように彼の右手で寄り集まり、それは一つの形を為していく。
わたしのブーツの色にも少しだけ似た、黒曜石の直剣だった。
刀剣型は基本中の基本だ。だが流石に決勝まで勝ち進んでくるとあって、今までの試合相手が見せた粘土細工みたいな歪なものとはわけがちがう。
少しくらいは気を引き締めた方がいいか、なんてことを考えながらわたしは腰を落とし、試合開始に備えていた。
指導員が距離を取り「はじめっ」と号令を掛けたその瞬間。
先手を取ろうと飛び出したわたしの眼前に、漆黒の剣閃が迫っていた。
「――ッ!?」
顔をねじりながら地面を蹴りつけ即座に後退するわたしの頬を、その黒い刃先がかすめていく。剃刀で撫でられたような嫌な感覚が残る中で、何度もステップを踏んでわたしは必要以上に少年と距離を取った。
――実力差を理解していない? とんでもない。彼は実力差を正確に把握し、それを埋めるために自分が出来る最善手を選び取っている。
紙一重とはいえ、後出しで回避できた以上、フィジカルエンチャントそのものでわたしが上手であることは間違いない。だが、それを理解しているからこそ、彼はわたしの集中がピークに達する前、試合開始の瞬間に持てる全てを注いだのだ。その最速の一撃は、ともすればそれだけでわたしの敗北を決定づけていたかもしれないほどに鋭利なものだった。
どくり、と心臓が震えた。
明らかに他のプログラム参加者とは格が違う。ただの一刀にすらそれだけの意味を持たせて考え抜き、そしてそれに必要な力を十全に込めてくる。気を抜けば、それこそ簡単に足をすくわれてしまう。
「ちっ。いまので駄目かー」
本人としては会心の一撃のつもりだったのだろう。それが当たりもせずさすがに悔しがっていた。――だが、そもそも今のを当てられると思っていたこと自体が、わたしの神経を逆撫でしていた。
わたしは、リーゼフェルトの人間だ。
常に強く。
常に正しく。
それだけが、わたしが存在する意味だ。
こんな極東のへんぴな都市のお遊びで許される敗北などありはしない。
「調子に乗らないでよね」
言って。
わたしは床板を蹴りつけ、再び間合いを詰める。カウンターの一閃も、その速度を把握していれば恐るるに足らず。少年の剣閃を掻い潜り、わたしは自慢の長靴をまとった蹴撃を見舞っていく。
基本的な上下段の蹴りだけでなく、ときに地面に手をついてカポエラのように奇抜で大ぶりな蹴りも織り交ぜていく。
周囲より数段上のジェネレートを見せてはいるが、それでもわたしの得意分野はフィジカルエンチャントだ。だからこそ、わたしのジェネレートは身体にまとう形を選んだ。武器の間合いが近いほど、フィジカルエンチャントによる感覚強化の恩恵を得やすいからだ。
このアクロバットな動きを織り交ぜた、激しいダンスをも思わせるこのスタイルこそがわたしの本領だ。
そのわたしの蹴りの乱舞を。
目の前の少年は黒曜石の剣だけでただの一つのミスもなく捌いていく。
「……ッ」
あり得ない光景だった。
致命傷を避けるだけなら分かる。防戦一方を強いられているだけでもまだ納得する。だが、彼はどれとも違う。もはや殺陣と見紛うほどに、五手先、十手先を読んで理想的な形で受け流しているのだ。
オルタアーツはどれを取ってもわたし以下だというのに、わたしの繰り出す攻撃全てを完璧に見切り、常に最適解だけを選び取ってその刃で蹴りの軌道を逸らす。その正確さが何よりも常軌を逸しているのだ。
見えざる糸で人形のように操られているような、そんな言い知れぬ気持ち悪さだけがある。
――だから。
それを振り払うように。
わたしは使う気などなかった、本当のとっておきに手を伸ばしていた。
「――ッ」
バチィッ、と。
わたしのまとう黒いブーツから、青白い閃光が迸る。
瞬間、あらゆる蹴りをいなし続けていた彼がバックステップで大きく距離を取った。
「冗談きついぜ……っ」
滴る汗を拭いながら少年が毒づく。だがそれも当然だろう。
これがわたしのとっておき。ジェネレートからエネルギーを放出するだけでなく、そこに電気的な性質さえ付与した、いわば『疑似放電』だ。
エネルギーを放出するというだけでもプロ魔術師になれるレベル。その上で実際の物理的な現象や物質と同じ性質を付与するとなれば、プロの中でも中堅以上の実力者だ。まだまともにオルタアーツの専門課程を受けていない子供がなせる領域ではないし、ましてやこんなお遊びで見せるようなレベルではもっとない。
だが、それでも。
いま目の前にいる少年には、それほどの全霊をもって当たらねばならないと、そうけたたましく本能が警鐘を鳴らすから。
「悪いけれど、もうお遊びに付き合う気分じゃないの」
ふわりと宙へ舞い上がる。
ここから先は紛れもなく必殺だ。もはやアマチュアかプロの区別も必要ない。ただただ一方的な蹂躙だけが待っている。
指導員が制止しようと声を上げるより、僅か早く。
わたしは天へ掲げた踵を、そのまま竹を割るように振り下ろした。
雷霆があった。
編纂結界の天地を繋ぎ止めるほどの至大の雷撃が、たった一人の少年の身体を簡単に飲み込んでいた。
まともに直撃していればプロ級のジェネレートでさえ容易く打ち砕く一撃だ。彼のレベルを考えても、側撃雷や衝撃波まで一切を回避できるとは思えない。
――なのに。
風が駆け抜けた。
そう感じたときには、すでにわたしは空中から地面へと投げつけられていた。
「――っ!?」
何が起きたのか、まだ理解できていない。ほとんどきりもみ状態となったわたしには、周囲の状況はおろか左右も天地も定かではなくなっていた。
それでもまるで猫のように両手両足をついてどうにか着地し、地面への激突を避けたのは僥倖だった。下手を打てば頭から落下して意識はなかっただろう。
ただ、その瞬間だった。
首筋に、ひやりとした感触だけがあった。
ひゅっと喉が鳴った。そこから指先一つ動かせず、ただ眼球だけをかすかに下へ向ける。
闇より深い、黒曜石のような煌めきがあった。
それは紛れもなく、あの漆黒の剣の刀身そのもので――……
「俺の勝ち、だな」
声が降る。
勝ち誇ったような、安堵したような、そんななんでもない少年の言葉の残響が、わたしの鼓膜を引き千切りかねないほどに震わせ続けていた。
――ま、けた……?
理解が追いつかない。追いつかせたくない。
もう目の前に全ての状況は映し出されていて、今さら何か一つだって覆すことは出来ないと知っていて、それでもなお、わたしはその現状を認めることが出来なかった。
――理屈は、分かる。
大方、わたしの『疑似放電』のような物理的性質を与えないまま、単なるエネルギーをジェネレートから放出したのだろう。半ばそれを盾にする形でわたしの雷撃を躱し、双方の衝撃波を向きを整えて重ね合わせることで生んだ対流に乗り、まるで滝登りのように中空のわたしとの間合いを詰めたのだ。――そして、必殺の一撃を放った影響で完全に無防備となったわたしの隙を突き、地面へと叩きつけた上で剣を首に擬した。
理屈は分かるとも。蓋を開ければ簡単だ。それ以外に彼が対処できる術はなかったし、そのたった一つの最善手を彼が見事に選び取ったというだけ。
しかしそれはあり得ないと断じてしまいたくなるほど、いっそ悪魔的に繊細な一手だ。
わたしの放つ攻撃の威力と位置を未来でも見たかのように正確に予見し、機械のごとく寸分の狂いなく自らのオルタアーツをそれにぶつけることができて、はじめて回避と迎撃を刹那の内に合わせ込める。
およそ常人のなせる技ではない。そもそも、結界の周囲を囲んでいるプログラム参加者には理解すらできていないはずだ。あるいは、審判を務めた指導員にさえ。それほどにいまの彼の一合は常軌を逸している。
「――っ」
駄目だ、と思った。
オルタアーツは間違いなくわたしの方が優れていた。たとえ大差でないにしても、フィジカルエンチャントもジェネレートも、どちらを取ってもわたしの方が確実に上だった。
だが、それだけだ。
他のあらゆる部分で、彼はわたしより遙か上にいる。一挙手一投足、その全ての練度がもはや同じ次元にはない。
絶望的な力の差だった。
これから先、これ以上どれほどのものを犠牲にし苦しみながら努力をすれば、そこに追いつくことが出来るのか。見上げることさえはばかられるほど、その壁はあまりにも高い。
じわり、と視界が滲む。
鼻の奥にしみるような痛みがあった。
まずいと思って、わたしは顔を伏せて、みぞおちから喉奥へ力を込めて、それを必死に堪える。
本当は今すぐに泣き出したいくらいに悔しい。ぼろぼろと涙をこぼして子供のように泣き喚きたい。だがここで涙を流すことは、その無様を晒すことは、リーゼフェルトとなったわたしには絶対に許されない。
何より。
内側から臓腑を焼き焦がすほどのこの悔しさを、たとえ一滴でも外にこぼすことをわたしは忌避したのだ。
その全ての泥を飲み下して、なおも先へ進まなければならないから。
「…………ねぇ」
震えそうになる声を、必死に整える。
ここで負けを認めるだけなら誰にだって出来る。だけど、その先へわたしは這いつくばってでも行くと決めたから。
「な、なに?」
「わたしに勝ったご褒美に、おねーさんが一緒に遊びに行ってあげようか?」
「…………なんで上から目線?」
小悪魔チックな笑みを浮かべてウィンクするわたしに、少年は照れるでもなく呆れたように乾いた笑みをこぼしている。
けれどなんだっていい。理由も態度も建前もなんだって。
ただ、彼に近づかなければ。
その強さの根源を、そこに至る道筋を、その一端だけでも持ち帰らなければ。
ただ負けて涙を堪えることなんかのために、わたしはこんなところまで来たわけではないのだから。




