断章 レーネ・リーゼフェルトの場合 -2-
あたたかく豪勢な食事。
きらびやかな無数の衣装。
絵本で見るような豪奢な部屋。
それらに見合うほどの贅沢すぎる教育。
どれもこれも夢のようなものをわたしは与えられた。
オルタアーツの才能を求められての養子縁組ではあったけれど、それでも、義両親も義兄も、わたしを本当の家族として迎え入れてくれた。
公的な場面できっちりとしてさえいれば、わたしが子供らしくわがままに振る舞うことだって笑って許して、いつだって甘やかしてくれた。
もしもわたしが、死んでいなければ。
もう顔も思い出せなくなってしまった本物の両親も、きっとこんなふうに接してくれていたのだろうか。
そんなどこか甘やかで胸を刺すような想いを抱いてしまうくらいに、わたしは間違いなく愛されて育っていた。
本当に、本当に、恵まれすぎなくらいに恵まれていた。
施設にいた頃からこのときに至るまで、わたしは本当にたくさんの愛情の中で育てられていた。それがどれほど幸せなことかを、わたしはきちんと理解していた。
――だから。
「――ぉ、ぁ……っ」
痙攣する足に鞭打って、どうにかトレーニングルームから洗面所へと駆け込んだわたしは、目一杯に蛇口をひねりながら口から血の混じる胃液を吐き出した。
――あの日、わたしがレーネ・リーゼフェルトになってから、四年の月日が経った頃。
この小さな身体の中の大半を占めていたのは、新たな家族からの愛情でも未来への希望でもなく、ただただ内側からひしゃげるほどの常軌を逸した重圧だけだった。
正直に言えば、もう限界だったのだ。
才能は確かにあった。だけど、この程度のものなら世界には掃いて捨てるほどあるのだ。その上で弛まぬ努力を積み重ねた者の中でもなお一際輝く異才を持つ者だけが、さらにその先へゆける。
わたしは、きっとそこまでではなかった。
そう知りながら、それでも、わたしはリーゼフェルトになってしまったから。
まだ貧しい施設の中で、一人抜け出して贅沢な暮らしを与えられた罪悪感。
これほど華美な生活の裏に潜む、わたしへの飽くなき純然な期待感。
そのどちらにも押し潰されていた。だから、笑顔を取りつくろいながら、それでも自分の身体を壊すように訓練に明け暮れた。
「――どうかしたかい、レーネ」
洗面所の扉を叩く音に、わたしはびくっと肩を振るわせた。
よく響くもう声変わりし始めた、テノールとアルトの混じる義兄のノルの声だった。
ざぁざぁと蛇口から水を垂れ流してこもっていれば、それは心配もするだろう。もしかしたら、トレーニングルームから駆け込む様子もどこかで見られていたのかもしれない。
「なんでもないよ、ノル」
きゅっと慌てて蛇口を締めて、わたしは努めて明るい声で扉越しに返事をした。
誰にも心配をかけたくなかった。
――だって。
いまのわたしがあるのは、このオルタアーツの才能のおかげだから。そこに限界を見いだしてしまったら、わたしに価値なんて何も残らないじゃない。
そんな強迫観念に駆られて、わたしは相談することさえ出来なくなって、ただただ内心では強がりながら、表向きはいつもどおりの天真爛漫な無邪気な妹を演じ続けていたのだ。
「ノルも女の子のトイレに聞き耳立てちゃ駄目だよ? いくら大好きなお兄ちゃんでもそれはNGなのです」
「そういうつもりじゃなかったけれど、まぁそんなふうに言えるのなら大丈夫かな」
どこも納得していなさそうな声で、けれど納得したような振りをしたノルの声のあと、足音がして次第に離れていくのだけが分かった。
ふらつく足取りで洗面所の扉まで歩いて、わたしはそのまま背中を扉につけてずりずりと座り込んでしまう。
もうこれ以上は耐えられないことなど自分でも分かっていた。
元より明確なゴールがない。何をどこまで突き詰めればいいのかも分からない中で、ただがむしゃらに走り続けてきた。
四二・一九五キロを走るのに、一〇〇メートルを十秒で走りきるようなペースは絶対に保たない。そんな当たり前のことは分かっているけれど、いま自分の前にある道のりが五〇メートルなのか五〇キロなのかさえ分からないから、ただただそのときの全力で走り続けるしかない。
それでも、もう足は止められない。
わたしが『なんでもないレーネ』から『レーネ・リーゼフェルト』になった以上、こんなところで停滞なんて許されない。たとえ周囲の誰が許したとしても、レーネ・リーゼフェルトがそれを許さない。
許さない、のに。
どんな努力を重ねても成長への実感は遙か彼方。ただただ、次第に頭打ちになってきている絶望だけが募っていく。
背にした扉を開けることさえ、もうままならないくらいに。




