断章 レーネ・リーゼフェルトの場合 -1-
叱られる、と反射的にそう思ったことを今でも覚えている。
それまで幾度となく注意されていて、でもすぐ回りのものに目を奪われて忘れてしまうわたしは、この日も同じだった。
ほとんど金切り声のようにわたしの名前を叫ぶおかあさんの声を聞いて。
わたしは、しゃどうに飛び出してしまったのだと気づいて。
その次の瞬間に、わたしの視界はまっくろな車のバンパーに覆い尽くされていた。
――そして。
次の瞬間には、一糸まとわぬ姿で、わたしは一人立ち尽くしていたのだった。
青く晴れ渡った空の下。
真っ黒なアスファルトの上。
目に入る景色はうっすらと霧にのまれた外国の特徴的な様子で、けれど一瞬前とは建物から何から、出来の悪い間違い探しみたいにあちこち違っていた。――それが現世ではなく死後の世界たる天界だったのだと理解できたのは、そこから何年も経ってからだった。
そのときは、ただただ、訳も分からずぞっとした。
大事にしていた三日月とハートかたどったおもちゃのアクセサリーにすがろうとして、それさえ首からなくなって、虚空で小さな手だけを空っぽのまま握り締める。
いつまでも、どれほど待っても、あの声は聞こえない。
あんなに恐かった叱る声さえどこにもなくて。わたしはいつの間にか、叱ってくれるその声を待ってただ泣きながら辺りを見渡し続けていた。
その声が、もう二度と届かないものだなんて知らなかったから。
*
――それが物心がついて、初めての家族旅行だった。
本当のところはおとうさんの実家がある英国への里帰りだったのだけれど、初めて乗る飛行機や見たことのない街の風景全てが、おじいちゃんおばあちゃんに会いに行くあの『里帰り』と同じだとはどうしたって思えなくて、わたしはただ舞い上がっていたのだと思う。
見たことのないものに目を奪われて、周りが見えなくなっていた。
その結果が交通事故だ。
呆気なく、わたしの現世での人生は幕を下ろしてしまっていた。異国の地でただ一人、言葉も通じない四歳児だ。もはや名前も正しく伝えるのは難しくて、『れいね』と両親が与えてくれた名前を繰り返すことだけが精一杯。ファミリーネームを伝えることもできずに過ごしてしまって、その音は今ではもう忘却の彼方だ。
その日から、わたしはなんでもない『レーネ』として天界で暮らすことになった。
不安がなかったわけではない。寂しさなんて息を吸えば肺が膨らむように当たり前に胸の中でずっと渦巻いていた。
だけどそれでも。
施設の大人たちは言葉も通じないわたしに懸命にあたたかく接してくれたし、同じ境遇の子供たちはそれこそ兄弟姉妹のようにわたしを迎え入れてくれた。
その優しさに、わたしは紛れもなく救われていた。
そうして何年かすれば、もう言葉だって理解できるようになった。そうなれば子供にだって自分の置かれている現状というものが理解できてしまう。――それは、この孤児院が置かれている経済的状況もだ。
この施設は金銭的には決して余裕がなかった。それも、日を追うごとに次第に苦しくなっている。
どうにかしたいと、子供心に思っていた。わたしがこの国で、この施設で、この人たちのおかげで、その不安や寂しさを埋めてもなお余りあるほどに救われていたのだ。だから、少しでも恩返しがしたいと思い続けていた。
そんなわたしに、魔術の才能があると分かったのはいつのことだったか。
興行かなにかでたまたま近くで催されたオルタアーツの体験会。そこに参加したわたしに、周囲はどよめいていた。
理由は単純だ。
オルタアーツの前段階である編纂結界を自力で張れるだけでも十分。身体強化のフィジカルエンチャントを真似て、少しくらい走るのが速くなればもう大喝采。そんな初めてのオルタアーツの体験で、わたしは見様見真似ながらに青く光る棒――武具生成術式であるジェネレートをやってのけたからだ。
それは紛れもなく、わたしに隠されていた才能だ。
周囲全てがわたしをもてはやすなかで、にこにこ笑顔でピースを決めながら、わたしはふと思ったのだ。
――この力があれば。
――わたしにも、大好きな人たちを守れるのだろうか。
勝ち誇るでも、優越感に浸るでもなく、わたしの中にあったのは本当にそれだけだった。
親とも離ればなれになって、いつ会えるかも分からない天界での生活の中で。こんなわたしに、それでも家族の温かさを溢れるほどに注いでくれたみんなに、少しでも報いたいと思ったのだ。
――そして。
さらにその数年後、リーゼフェルト家から養子の話が舞い込んで。
わたしは『なんでもなかったレーネ』をやめて、いつかみんなに恩を返すために、一流の魔術師である『レーネ・リーゼフェルト』となることを決意したのだった。




