第二章 縁 -11-
――幼い頃に、家族と水族館を訪れた日のことを思い出していた。
水底に沈んだ世界の中で、アクリルの壁の向こうに悠然とたゆたう鮫の姿。何も喰らわず、鼻先をかすめる鰯の群れにさえ興味を抱かぬ王者の姿に、しかしそれでも足がすくんだことを覚えている。
そして、それは今も。
編纂結界、などという耳慣れない透明な壁の向こうで繰り広げられる攻防の嵐。どこか殺陣のような現実味さえ薄れるほどの激しさに、冬城アリサは畏怖を抱かずにはいられなかった。
「――恐いよね」
そんな彼女の心の機微を悟ったように、隣の女生徒が顔を覗きこみながらそう呟く。
「スポーツとか音楽ライブみたいに観客席があって、目の前の大きいスクリーンにアップで映し出してくれてもいるけど、やっぱり本質がね。勝ちたいっていうのは同じでも、ファンの思いがとか生活がかかってるんだとか、そういうのとはどうしても違っちゃうよね」
「……少し、だけ」
そう強がるが、その恐怖はどうしたって隠せない。
魔獣という存在そのものを否定し、抹消するためだけの凶器と、生死を賭けた場面で積み重ねたおぞましいほどの研鑽。
素人目にも分かる。ただの親善試合だという名目でどれほどにルールと審判を徹底しようと、その根源は覆しようがなく、その剥き出しの圧力が薄藍色の壁を突き破ってアリサの肌を刺す。
「六花もいつも以上に力んじゃってるし、なおのこと。これアリサちゃんが見てるって意識も抜け落ちてそう」
「互いにエンターテインメントにする気はゼロだよなぁ」
呆れたように、短髪の青年もため息をこぼす。「まぁ仕方ないっちゃ仕方ないんだけど」と言いながらも、納得した様子は微塵もない。
その口ぶりに、アリサは嫌な予感を覚えていた。
「……その、さっき光に包まれてから、結城の姿が見えないんだけど。もしかして」
「たぶん想像してるとおりだよ。――結城はいま六花ちゃんが握ってる黒い剣になってる」
やはり、夢でも見ているのだろうか。
臨死だとか天界だとか、ふわふわと足場を失ったような感覚の中で過ごしてきてはいたが、その言葉は今までのどれより突飛で、頭が受け入れてくれない。
人としての身体の形が失われて、ただ他者を屠る武具と化す。それがどれほど荒唐無稽で歪なことかなんて、中学生にだって分かってしまう。分かってしまうから、分かりたくないと、心が拒絶するのだ。
「……それが、魔術師の普通なの?」
「まさか。普通なら魂の一部を武器に変化させるだけだよ。しかも、一部って言ったって見た目に変化が現れるようなものじゃない。実際、オリヴェルさんなんかそのまま武器を振り回してるだろ」
アリサの素直な問いかけに、隣の男子生徒は首を横に振った。そのことに少しだけ、彼女は安堵を覚えていた。
「俺たちみたいな魂の存在は、頭にある核が壊れない限り消滅することはないんだよ。だけど逆に言えば、核を破壊されたら終わりだ。――全身、つまり頭さえ魔術で変貌させるなんて真似は普通じゃない。やりたくたって出来ないよ。どうしたって本能が邪魔をする」
その言葉に、アリサはぞっとした。結城がなぜこの道を進んでいるのかなんて聞いたこともない。だがそれでも、そんな危険な行為を今なお繰り返しながら、こうして戦い続けている。その事実が、どうしようもなく恐ろしかったのだ。
だが同時に、腑に落ちるものがあった。――こうして透明な壁越しにどうしようもないほどの畏怖を覚えている本当の理由も、おそらくは。
「じゃあ、なんで結城は」
「そういう風にされた、としか。まぁ好き好んでやるような馬鹿じゃないから、そこだけは分かってやってほしいかな」
そうお茶を濁す男子生徒の言葉に、それでも、アリサは察しがついた。
カテゴリー5などという規格外の魔獣を屠ったという上崎結城と水凪六花。その上崎の力が本人の望まない形で、これほどまでに歪められたというのなら。
それは、他者の願いの成れの果てに他ならない。醜悪な、希望の形をしたエゴイズム。
「……元々の結城は、強かったの?」
「そりゃもう。座学も実技も、上を行くやつなんていないくらいに優秀なやつだったよ。こうして戦ってるオリヴェルさんとだって遜色なかったろうな」
その評価は、身内びいきなどではないのだろう。心の底からの言葉であることなど、関係性のないアリサにだって分かる。
だから、なおのこと、胸の奥が締めつけられるような感覚があった。
――きっと、途方もない努力があったはずなのだ。
もはや目で追うことさえ叶わない戦闘を、それでも一目見れば。
あの領域に到達するためにどれほどの才能が必要で、それ以上に、どれほどの時間を犠牲に研鑽を積み重ねなければいけないかなど。
理解できてしまうから、苦しくなる。
努力が報われないことなんて、中学生だって知っている。どれほど勉強したって成績は大して上がらないし、部活に打ち込んだって全国制覇できるような猛者にはなれない。頂点はいつだって一つで、何をどう取り繕ったところでその他はすべからく敗者なのだ。そんな挫折なんて誰もが知る当たり前だ。
けれど、それでも、と思うのだ。
たとえ報われないとしても。
その努力が踏みにじられることだけは、あってはならないと。
そんな真似だけは、そんな絶望だけは、何があろうと許してはいけないのだと。
――なのに。
彼はその絶望の中で、今もまだ、立ち上がっている。
その無残に膝を折ることなく、まだ、抗い続けている。
その姿に、また、冬城アリサの胸は苦しくなる。
「……強いんだ」
だから、冬城アリサは小さくこぼす。その胸に湧く憧憬をそのまま言葉に変えて。




