第二章 縁 -3-
洗い立てのシーツの香りと、かすかに漂う消毒用アルコールのにおいが混じり合う。
白く切り抜かれたようなそんな部屋を訪れた上崎は、ベッドに腰かけ蜂蜜色の髪をくるくると弄ぶ冬城アリサと向き合っていた。
「……ねぇ」
「ん?」
「なんでオセロなの……?」
アリサの素朴な問いかけに、上崎も「…………なんでだろうな?」と疑問符を浮かべながら、コンビニで購入した折りたためるポケットリバーシの盤面を黒く染めていく。
検査やカウンセリング、事務手続きだなんだと昼間はいそがしいだろうが、それも世間一般の定時まで。夕方になればむしろ手持ち無沙汰だろうと、あれこれと差し入れを持ってアリサが一時的に寝泊まりしている病室にやって来たのだが、言われてみれば確かに脈絡がなさ過ぎただろう。
どこかで、上崎なりにオリヴェルの言葉に思うところがあったのかもしれない。不純な動機をごまかすみたいに、金もないのに買い込んだお菓子の山がその証拠のように思えた。
「そもそもなんで先輩が圧勝してるんですか……」
「オセロって手の抜き方が分かんないんだよな……」
彼の肩口から覗きこんでいる六花に呆れられてしまったが、上崎としてもわざと打ち負かそうとしてはいないのだ。
上崎が特段リバーシを得意としているわけでもなければ、先の先まで読んで打っているというわけでもない。素人同士が直感で石を置いた結果として、たまたま上崎の手番で角が取れるタイミングが来ただけだ。そして一度そうなってしまえば、囲碁や将棋と違って選べる手が極端に少ないという性質上、どんな接待を心がけてももう形勢は覆えせない。
結果、黒いドットに浸食された小さな板を見ながら、蜂蜜色の髪の少女は唇を尖らせてしまった。
「……つまんない」
「そうか? 俺は結構楽しいけど」
「それはあんたが勝ってるからでしょ。大人げない」
五四対一〇で黒の上崎が勝利するという瞬間、ぱたりとリバーシの盤面は閉じられた。大人げないと言いながら、彼女も彼女で存外子供っぽいらしい。
「もっと他にないの?」
がさがさと上崎が持参したコンビニのビニル袋の中を漁りながら、アリサは「……そもそも一人で遊べるヤツ一個もなくない……?」と愚痴をこぼす。
上崎が思っていたように、やはり暇を持て余してはいたのだろう。だから時間を潰せるものがほしいと、そうぼやくのは当然だ。
それでも上崎が用意できるような物なんてたかがしれている。仮に一人遊びできるようなものがいくつかあったところで、根本的な解決にはならないだろう。
「……なぁ、アリサ。検査とか手続き関係はもう終わりだろ。あとはカウンセリングくらいだと、これから昼間も暇になっちゃうんじゃないか」
「何よ急に。まぁ、そうかもしれないけど……」
「どうせなら学校とか行かないか? 義務教育なんだし、申請すればたぶん一時的に編入できるはずだけど」
「いやよ」
上崎の提案を、アリサはきっぱりと否定した。
「なんでさ」
「あたしって臨死ってヤツなんでしょ。本当に死んだわけじゃないし、つまり天界の住人でもない。ならこっちの義務を受ける必要はないんじゃない? 学校なんて好き好んでいく場所でもないでしょ。勉強なんて好きでもないし」
「…………なるほど」
「納得しないでください、先輩……」
子供相手に完全に論破された上崎を六花が白い目で見ていた。とはいえ、怠惰を愛する上崎としてはアリサの反論に頷かない方が無理な話だった。
「それに」
そう言って、アリサは自分の頭を指さす。
「あたし、こんな髪色だし。黒染めなんてしたくないから、編入できる学校もないでしょ」
その少し痛んだような蜂蜜色の髪が、校則で認められはしないだろうことは想像に難くない。現世での彼女もその色で衝突したことだって少なくないはずだ。一時の暇を紛らわせるためだけに、わざわざ天界でまでそんな諍いの種をまくようなことはしたくないのだろう。
「それ、地毛って訳じゃないよなぁ……」
「まぁあたしハーフではあるけど。元は普通に茶髪よ」
父か母が異邦人の金髪であっても、他方が日本生まれの黒髪ならば髪色が金になる可能性は限りなく低いだろう。髪色を決定する遺伝子は複雑でまだ解明されていないらしいが、黒髪の方が顕性として考えるのが一般的だ。
そうなると、やはり校則の問題が出てくるのは否めない。
「……その辺りは六花の方が詳しいよな」
ちらりと、どこか助けを求めるように上崎は背中に立っているアッシュブロンドの少女を見やる。その髪色もまた、およそ日本人の地毛らしからぬものだ。
「……え? 水凪さんもその髪、染めてるの?」
「先輩と同じで下の名前の六花でいいですよ、アリサちゃん。――もちろん染髪です。私の場合は生粋の日本人ですしね」
「……学校で怒られないの?」
「東霞高校はその辺りの校則が緩いので。まぁ中学時代は言われたりもしましたけど、気にしたことはないですね」
さらりと言う六花に、アリサは目を丸くしていた。言葉づかいや立ち居振る舞いなんかは大人しく真面目な印象があるからだろう。その彼女が校則を破ることにさして罪悪感を覚えていない、ということにはギャップがあったのかもしれない。
「もともと、現世では必要に駆られてのことだったんですよ。事故の影響で少しキツイお薬とかを飲まなきゃいけなかったりして、髪が薄くなっていたので。それをごまかすには金とか白とかに脱色してしまうのが一番よかったんですよね」
六花はほほえみながら「ウィッグとかエクステも試したんですけどね」なんて言っている。彼女にとってそれはとうに乗り越え受け入れた過去だから、今さらそのことに触れられたところで何も思ってはいない様子だった。
「そうなんだ……」
「当時は迫られてのことでしたけど、思ってたより似合ってたので気に入ってるんですよ。だから天界に来ても続けてるんですし」
「でも怒られるのは誰だって嫌でしょ。それなのにそうやって真っ直ぐ自分を貫けるの、すごいと思う」
「ありがとうございます。けどそれは、アリサちゃんもですよね?」
六花はそう言って、少し遠慮がちに彼女の蜂蜜色の髪に指先で触れた。
「綺麗に染まってます。ただちょっとだけ毛先が傷んでますから、あとでいいトリートメント紹介しますね。――あ、でも現世にも同じ製品あるんでしょうか……」
そんな上崎たちの言葉に、アリサはどう答えたらいいのか分からない様子で口をパクパクさせていた。
「……なんだよ」
「えっと、怒らないの……?」
そんな漠然としたアリサの問いかけに心当たりのなかった上崎は小首をかしげたが、ややあって「あぁ」と理解して手を打った。
「髪染めてることにか? そんなの個人の自由だよ。家庭の方針で親が怒るとか学校の規則で先生が怒るってならまだ筋が通るけど、年上だからってだけで俺が怒るのはおかしいだろ」
「……そう、よね」
その言葉が、彼女の何に響いたのかは上崎には分からない。彼女がどんな境遇で、どんな思いでその髪色を選んでいるのかを上崎は知らない。そして、その髪色だからこそどんな風な言葉を浴びてきたのかも。
だが上崎の言葉にアリサの口元が緩んでいることだけは確かで、それはきっといいことなのだろうと、そう思えた。
「似合ってるよ、その髪」
「……………………ん」
上崎が素直にそう言うと、うつむきながらアリサは消え入るような声でそう答えた。ほとんど見えないその状態でも、顔が真っ赤になっていることだけは分かる。
いつもの六花ならアリサだけを褒めてはヤキモチを焼いたかもしれないが、いまばかりは彼女もアリサのその反応にあたたかいほほえみを向けていた。
「学校なら私の通っていた中学校とかに推薦しましょうか。カテゴリー5を討伐した卒業生の髪色がこんなのなので、今さらとやかくは言えないと思いますし」
「……いや、髪色が関係なくたって行かないけどね? 降って湧いたゴールデンウィークの延長戦なんだし」
さりげなく編入させる方向へ持っていこうとする六花に対し、アリサは頑としてそれを拒んでいた。「むぅ」と六花が年上らしからぬ様子でむくれるが、そっぽを向いたアリサにはその罪悪感を駆り立てる精神攻撃さえ通用しない。
そんな光景に、上崎はどこか普段の自分の姿を重ねていた。そうやって自堕落な生活を送る上崎を叱ろうとしている六花の姿は、幾度となく見ていたから。
――だから、だろうか。
アリサの姿の奥に、見たくもないものが見えてしまったのは。
「……っ」
上崎は思わず目を背けた。だが、それはあまりに遅すぎた。
――そこに、確かにいたのだ。
――彼女の背後に、四年前の、神童ともてはやされていた頃の自らが。
呼吸を忘れた。まだ幼さの残る自身の瞳が訴える、糾弾するような視線。
そんなものは存在し得ないまやかしだと理解しているのに、ほんの刹那その双眸に射貫かれて肺腑が動きを止めた。
「――どうしたの、結城?」
アリサに声をかけられ、はっとして、上崎は首を横に振った。――気づけば、もうあの神童の姿は見えなくなった。そのことに、心の底から安堵する自分がいた。
「……いや、なんでもない」
適当にうそぶいて、上崎は早くなる動悸を抑えるように小さく長い息を吐いた。
なぜ突然そんな幻影を見たのかは分からない。だが今になってもあの頃の自分を思い出すだけで、自身への嫉妬と焦燥に駆られて心臓を抉られそうになる。それが今の上崎のありさまだ。
原因を考えようとすれば、その痛みはさらに深く突き刺さってしまう。だから何も考えないように、ただ記憶に蓋をして水底へと再び沈めるだけだ。
「それより、暇つぶしだよな」
自身の気持ちを抑えつけるように、強引に上崎は話題を戻した。そんな上崎の様子に小首をかしげながらも、アリサは「そうね」と呟く。
「どうせなら買い物にでも行くか。本なりゲームなり、そこで自分の趣味に合うものを買った方がいいだろうし」
「……あのね。買いに行ったって、あたしお金なんて持ってないからね? お小遣いなんて現世の財布の中だし」
もちろん、臨死を含めた死者全員が一文無しでの生活となるわけではない。少なくともこの日本では当面の衣食住は行政から支援を受けられるよう、法の下に定められている。――だが、当然ながらそれらは現物支給が基本となる。金銭的な援助もあるが、その入金にも今しばらく事務的な手続きが必要になるはずだ。
だが、上崎はにっこりと笑顔をアリサへ向けた。
「大丈夫だよ、俺に任せろ」
真っ直ぐにそう答える上崎に、アリサは「……そう?」とどこか不安げながらも一応は納得した様子を見せた。
だが、そんな二人をよそに、上崎の思考を見透かした後輩の少女だけが、心底から呆れたようにただただ白い目を向けていた。




