第二章 縁 -1-
ゆらゆらとどんぶりから立ち上る湯気の下。安っぽい出汁に浮かぶのは、真っ白なうどんと、かけ放題にかこつけてこれでもかと大量投入した青いネギの山ばかり。ひとつ一四四円の華やかなエビ天はおろか、八〇円で二枚もつく甘いつゆの染みた油揚げすらない。完膚無きまでのかけうどんであった。
「いやぁ悪いな。おごってもらっちゃって」
微塵も悪いとは思っていなさそうにほくほくとした様子でそんなことを言うのは、秋原佑介。上崎結城の親友であった。
スポーツマンのような短い髪の毛先を弄りながら「どれから食うかなぁ」などと悩んでいるガタイのいい男子高校生を見ながら、上崎はその視線の先は見ないように努めて青ネギうどんをすすり続ける。――そこには千円を優に超えるダブルハンバーグ定食に、コロッケやら揚げ出し豆腐やら、果てはデザートのケーキまでと追加できるだけのものを追加した、食堂で費やせる贅の限りを尽くした食事が広げられているのだ。格差を直視したら目からこぼれる涙でかけつゆがまた一段としょっぱくなりそうだ。
「……カテゴリー5を討伐した世紀の大英雄からご飯をたかるとか、正気の沙汰じゃないわよね。ちょっとお兄ちゃんに幻滅した」
「待て佐奈。ガチで軽蔑の目を向けるんじゃない。お兄ちゃんうっかり舌噛み切っちゃうぞ」
本気で涙目になる十六歳の情けない姿に、さらに呆れた様子でため息をつくのは秋原佐奈。佑介の妹であり、上崎や六花の同級生だ。
うなじが隠れる程度のセミロングの髪を耳にかけながら、彼女も彼女でリッチにもクリームパスタをちゅるちゅるとすすっていた。かけうどん上崎からすればそれだけでも相当な贅沢である。羨望と嫉妬に取り殺されそうだった。
「だいたいこれはたかってるわけじゃない。正当な報酬だ。ゴールデンウィークの間ずっと帰省もしないでこいつの面倒を見てたんだからな。向こう一ヶ月の昼食は結城持ちだ」
「だからって一食に二千円もかけると思わないじゃん……っ」
この調子ではひと月も待たずに破産する上崎は、心の底から嘆きの声を漏らす。どんな偉業を為したところで、資本主義の社会は高校生の懐さえ救ってはくれないのである。
「……六花さん」
「なんですか、先輩」
定位置ですと言わんばかりにいつものように隣に座る六花に、上崎は手もみしながら声をかける。
「その白身魚のフライ、一口だけでいいから――……」
「ゴールデンウィーク中、先輩が私のお見舞いにも来ないで引きこもっていたツケを、お見舞いに来てもらえなかった私にも払わせよう、と? 本気で言ってますか、先輩?」
「…………すみません、なんでもないです」
にっこり笑顔で背後に虎を背負った後輩のすごみに負け、上崎はすごすごと引き下がった。どうやら地雷を踏み抜いてしまったらしく、相当に六花の機嫌が悪い。
「……ばかなの?」
「返す言葉もないな……」
上崎は斜め向かいで呆れ返っている佐奈からの白眼視にも晒され肩身の狭さを痛感しながら、伸び始めたうどんをちびちびとすする。
「だいたい、ゴールデンウィークに身動きが取れなくなるくらいの話題を作っておきながら、また変な話題の種をまいてるみたいだし」
「本当、英国貴族のお姫様なんてどこで知り合うんだろうな。――あ、また周囲が騒がしいって言うなら俺の部屋に避難してもいいぞ。今度は夕食のおごりで」
「後輩からお金を借りたくはないから却下だ」
「……借りる前提なのはどうかと思います」
呆れまじりの六花の忠言はさておくとして、上崎は「そもそもそんな話題なんて心当たりないしな」と素知らぬ顔でうどんをすすり続ける。
「けどいいのか?」
「いいって何が」
「英国貴族とのお忍び学校デート、なんてワードが俺の耳には入ってるんだが?」
佑介からのたれ込みに、上崎は思わずうどんを吹き出してしまうところだった。ごほごほと咳き込みながら、慌ててお冷やに手を伸ばす。
「へぇ、先輩。デートですか。へぇ」
「待て。お前あのとき現場にいたから状況は分かってるだろ。なんで蒸し返すみたいに怒ってんだよ」
視線が極寒に冷えていく六花に、上崎はどうにかなだめようとするがやり方が分からない。どうにも六花の機嫌が斜めなのだが、今まで全面的に好意だけを向けられてきた上崎にはどう取り扱っていいものか分からず困惑するばかりだった。
「……佑介。ちなみに、その情報源は……?」
「噂の貴族の留学生。オリヴェルさんは三年生、レーネさんは二年生に編入したんだぞ。そして俺は二年生だ。もう言いたいことは分かるな?」
「本人がクラスで言いふらしてんのかよ……」
兄という監視の目も上崎という歯止めもいないレーネが、あることないこと吹聴している姿が目に浮かぶようだった。年齢に対して学年を繰り下げているのでレーネは上崎の一つ年上のはずなのだが、精神構造は三つか四つくらい下なんじゃないかと上崎はたまに本気で思う。
あいつやっぱり馬鹿だった、と頭を抱える上崎の言葉を肯定する代わりに、佑介は楽しそうにからからと笑うばかりであった。
「また逃げるにしても、きちんとした情報を自分から発信するにしても、何かしら動いた方がいいんじゃねぇの?」
「もういいよ、別に」
少し前までであればこうしてまともに外で食事を取ることさえままならなかったが、今では多少の落ち着きは見せている。それだけでも上崎にとっては十分だった。これ以上の好転を望む気は微塵も持ち合わせていない。
そもそも、留年するとなった時点で悪い噂などごまんとあった。ひとつひとつを訂正しようとしても全ては徒労だったことは痛感している。むしろこうして様々な情報が錯綜してくれている方が、真実が隠れてくれて助かるくらいだ。
「まぁ外堀を埋められてなし崩し的に婚約、みたいになった方が結城としてはラッキーか。なんたって逆玉だしな」
「先輩、さいってーです」
「佑介の言葉を俺の言葉みたいに受け取るんじゃねぇよ……」
親友に背中を刺された上崎に対し、六花はふんす、と鼻息を荒くして白身魚のフライを頬張っていた。いつにも増してご機嫌斜めであった。
「…………、」
そんな彼女の対面で、佐奈は少しだけ無言になってじっと六花を見つめていた。心なしか。その眉根が寄っているようにも感じられる。
「佐奈、どうかしたか?」
「別に。大したことじゃないから」
そんな風にうそぶく佐奈に、上崎は頭に疑問符を浮かべるばかりだった。どうにも乙女心への理解は上崎には向いていないらしい。
「先輩、そろそろ」
「え、あぁ。もうそんな時間か」
六花に促されて、上崎は柱にかけられた時計を見て気づく。上崎は入れすぎたネギで青臭くなったつゆを一気に飲み干し、ごちそうさま、と手を合わせ立ち上がった。
「なんだ、補習か?」
「お前は俺をなんだと思ってんだ……。お手伝いクエストだよ」
「あぁ、なるほど」
俗称だけで理解した佑介は、おごられたコロッケを呑気に頬張る。
上崎と六花は、臨死多発事件の調査に関して簡単な打ち合わせを白浜と行うことになっている。そういった実習は捜査に関することで守秘義務にかかわる部分も多い。線引きが面倒だろうから深くは聞かない、という佑介なりの意思表示だろう。
「いってら。――また面白いゴシップが飛び出してくることを期待してる」
「……ジャガイモを喉に詰まらせて死ねばいいのに」
「残念ながらもう死んだ後だから窒息じゃ死ねないんだよなぁ」
そんな親友との軽口の応酬とともに、上崎は六花を連れて食堂を後にするのだった。




