断章 オリヴェル・リーゼフェルトの場合 -2-
「――随分と嬉しそうですね、ノル」
「はい、ヒルダさん」
十歳になった頃だったか。
まだ冬の名残の消えない寒々とした空気の下、しかし私は舞い上がる気持ちを抑えきれずにいた。
目の前には、休日でもオフィスカジュアルに身を包み、金色の御髪を一つにくくったヒルダさんがいる。ただそれだけでも、私はどうしようもなく嬉しかったのだ。
アンティークな調度品に囲まれた、喫茶店の窓際の席だった。かちゃりと上品にソーサーからカップを持ち上げて紅茶を一口すするヒルダさんに見とれながら、私も見様見真似で同じように紅茶を口に運んでみる。
幸せな時間だった。
きっとこの瞬間よりも幸福なことなど起こり得ないと、そう思えるくらいに。
「お父様も来られればよかったのですけれどね」
「私はヒルダさんと二人でのお出かけでも、とっても楽しいです」
「あら、嬉しいことを言ってくれますね。でも、それをお父様に言っては駄目ですよ」
きっと涙目になってしばらく口を利いてくれなくなってしまいますから、なんてヒルダさんは笑ってくれる。
オルタアーツの使えない父に代わり、半ば政略的に一流の魔術師としてヒルダさんは結婚したのだが、父のことをきちんと愛しているのは子供の目からも明らかだった。なにより、ヒルダさんは私にも家族の一員として絶えることのない愛情を注ぎ続けてくれている。
とはいえ、では家族の時間が十分に取れているかと言えば答えは否だ。
ヒルダさんの魔術の腕前は、孤立無援の状況であってもカテゴリー3の上位固体の討伐すら可能なほど。当然、それほどの優秀な魔術師であれば日々の業務の多忙さは尋常ではない。
そもそもそれだけの責務を負うからこそのリーゼフェルトだ。
ヒルダさんがこうして朝からゆっくりと私と買い物に出かけられる日なんて、一年の間にもそうあるものではない。
「でもいいのですか? 背の伸びたノルに合わせて百貨店で礼服を仕立ててもらっただけです。もっとほかにやりたいことはありませんか?」
「では、帰ったら稽古をつけてもらえますか……?」
「構いませんよ。――でも、もっと子供らしいお願いの方が私としては安心なのですが……」
困ったようにヒルダさんは笑う。
実際、私が彼女にせがむものといえば、子供らしいおもちゃやお菓子の類いなどではなく、決まってオルタアーツの鍛錬にかかわるものばかりだ。そんな子供らしからぬ様子を、ヒルダさんはとても心配している。
「リーゼフェルト家としては間違っていませんが、子供としてはもう少し遊びに関心が向いてもらいたいところですね」
「だめ、でしょうか……」
「いいえ、駄目ではないですよ。だから、そんな泣きそうな顔をしないでください」
くすりと笑って、しゅんとしている私の頬をヒルダさんは優しくなでる。
幸せな、本当に幸せな時間だった。
いつまでもこんな時が続けばいいのにと、心の底からそう思う。
――だけど。
――どれほど生きたいと願っていても死が訪れたように。
――世界はいつだって酷薄に幸せをあざ笑う。
鼓膜に直接衝撃を叩きつけるような、そんな反射的に耳を覆ってしまうほどの音があった。
遅れて、それが何かの破砕音であったのだと気づく。
なにが起きたのか。それを私が理解するより先に、私はヒルダさんに抱え上げられていた。
一転して、視界は店の外の大通り。辺り数十メートルを取り囲むように、薄藍色の結界が張り巡らされている。――それは、飽きるほど見たヒルダさんの編纂結界だ。
「ノル、私の後ろに」
黒くざらついたアスファルトの上に綺麗に着地し、ヒルダさんはそっと私を自分の後ろに下がらせた。
彼女の背中越しに見えてしまったその姿に、私の喉奥で悲鳴にも似た音が漏れ出た。
体躯は八メートル前後か。シルエットは霊長類のようで、肥大した筋肉が不気味にうごめいている。頭髪なのか体毛なのかも判別できない白い毛の塊に鹿の角を突き刺した、異形の頭部。その奥にある目がぎょろりとヒルダさんを捕える、
途端、下肢の蹄を打ち鳴らす。――まるで、歓喜に打ち震えるかのように。
それは魔術師を前にした魔獣の反応としては、あまりに異質だった。
「……ブリシルタウラスですか……っ」
苦々しげにその名を呟くのが聞こえた。それがこの魔獣の固有名であることは、すぐに察しがつく。
だが、だからこそその事実はあまりにも重く、まだ幼い私の身すらすくませた。
魔獣の固有名は、魔術師が会敵したのち、初めてつけられるもの。つまりまだ現存している魔獣に固有名があるということは――その魔獣は魔術師と戦闘したにもかかわらず、討伐されることなく逃げおおせていることを意味する。
這々の体で敗走を遂げただけであればまだしも救いがある。だが、編纂結界の中に閉じ込められる以上、大抵の場合はそうではない。
それだけでも十分な脅威。
そして、その上で。
ヒルダさんがなんの資料を検索することもなく、その固有名を一目で言い当てられたと言うことは、それほど危険対象として周知されているということに他ならない。
既に周囲の一般市民は避難を始めている。――ならば、まずは足手まといにしかならない私もその避難に乗じるべきだ。
そう考えて踵を返そうとした、その瞬間。
僅かに体重を傾けた私の頬に、焼けるような痛みがあった。
紅の閃光が駆け抜けていたと気づいたのは、その後のこと。じぅ、と産毛の焼け焦げるいやなにおいが鼻腔をつく。
もしもそれ以上に私が動いていれば、今ごろは私の頭蓋に黒い穴が空いていた。そう理解させるには、今の一条の光は十分すぎた。
「……動かないで」
ヒルダさんは私の頬をそっと撫で、優しくそう言った。――けれどその瞳には、家族を傷つけられたことに対する怒りが滲んでいることが、子供の私にも見て取れた。
そのまま彼女は腰に手を回し、なにもない虚空から生み出したたった一つの武器を抜き払う。
刃渡りは一メートル弱、片手で振り回せるほどの両刃の直剣だ。そしてその刀身は雪よりもなお白く輝く、一切の汚れのない純白だ。
飽くほどに見慣れた、ヒルダさんのジェネレート。今まで数多の魔獣を屠ったその剣の輝きが、母の影で怯える私の中からも恐怖心を振り払ってくれるようであった。
「大丈夫。――あなたも、街の人々も、私が絶対に守り抜いてみせますから」
そこから、リーゼフェルト家の筆頭魔術師の蹂躙が始まる。
自らのエネルギーを紅蓮の業火と紺碧の波濤の二種類に変化させ、それを次々と魔獣へと叩きつけていく。もはや反撃の隙すら与えることなく、ヒルダさんのあまねく斬撃は白き魔獣の毛皮を無残に切り刻み続けている。
圧倒的だった。
頬に走る痛みすら忘れて、私はただただその光景を羨望と憧憬のまなざしで眺め続けていた。
紅と蒼の饗宴の中で金色の髪がたなびく。あまりにも幻想的なその光景に、魂を賭けた戦いの最中であることさえ忘れてしまいそうになる。
そして。
瞬く間に魔獣の手の内を暴き出し、ほんの刹那の隙を引き出したヒルダさんの刺突が、その首下へ深々と突き刺さった。
勝敗は決していた。
そのまま返す刀で切り上げれば、魔獣の核は両断される。
ぐっ、とヒルダさんの腕に力がこもる。
その瞬間だった。
ブリシルタウラスの山羊にも似た両の角の間に、真紅の光が収束していく。
それは高速で回転するモーターのように甲高い音を立てていた。思わず耳を塞ぎたくなる不快な音に、私の思考に一瞬、しかし確かな空白が生じていた。
それがいったい何の予兆であるかなど、少し考えれば分かったのに。
「ノル!」
ヒルダさんの叫ぶ声が聞こえる。けれどそれも、耳をつんざく不協和音にほとんど掻き消されていた。
そのまま魔獣の首を跳ね飛ばそうとするヒルダさんに対し、その純白の刃が動く様子がない。――刺された首の筋肉を締め上げ、その刃の動きを封じ込めたのだ。
フィジカルエンチャントの出力を上げれば、あるいは、業火や波濤の操作に変えれば、その核の破壊には届く。――だがそれよりも、臨界に達した角に集まった真紅の閃光の炸裂が先だ。
おぞましい血のように赤い光が、私の頭蓋へめがけて放たれる。
同時、その私に何かが覆い被さる。
その衝撃に思わず目を閉じ倒れ込む。だが、あの身を焼き焦がす光線の熱さはどこにもない。
ただ、代わりに。
どろりとした、粘つくような熱さがあった。
恐る恐る目を開けた私の視界は、何かに覆われたまま。
けれど、知っていた。
このぬくもりを、このにおいを、私はずっと。
「ひる、だ、さん……?」
もぞもぞと身を捩る。どうにかその抱擁から抜け出し視界を確保した私は、後悔を知る。
見えて、しまった。
私を庇うように覆い被さったまま、ヒルダさんはぴくりとも動かない。
ただそのこめかみから、鉄錆くさい真っ赤な液体をだくだくと垂れ流し続けている。
「ぁ、――……っ」
簡単だ。
ジェネレートは魔獣の首に埋まったまま。それを引き抜く余裕もなかったから、ヒルダさんは身一つで私を庇うために駆け出した。
そして、あの閃光をその身に受けたのだ。
核への直撃ではなかったのだろう。まだ息はある。だけど、もう戦えるような状態でないことなど一目瞭然だ。
「の、る……」
そんなありさまで。
誰のせいでこんなふうになったのかなんて分かり切っていて。
それでも、その人はただただ優しい笑みだけをたたえていた。
「無事ですね……。よかった……」
本当に、心の底から安堵したように彼女はそう言った。
なにもいいことなんてない。
魔術の才能も乏しい、こんな非力な子供一人を守るために、ヒルダさんが倒れることなんてあっていいはずがない。誰がどう考えたって天秤が釣り合っていない。
そう思うのに、現実は今さら変えようがなくて。
自分を守るために支払われた代償のあまりの大きさに、押し潰されそうになる。
そんな中だった。
「っゲ」
そんな、ひきつけを起こしたような声を聞いた。
「ゲ、ヘヘ、げげげ」
あまりにも異質な声に、私はヒルダさんの下から這い出て、その声のした方を見る。
それは、白い毛皮の魔獣から。
まるで壊れた猿のおもちゃみたいに、腹を抱えてその口を吊り上げて、その魔獣は泣き声とはとても思えない声を上げている。
――笑って、いた。
あまりにも不気味で、あまりにも不愉快で、それを笑みと表現することすらはばかられるようなありさまであっても、それは紛れもなく愉悦に歪んだ笑い声であった。
「――……ぁ」
笑い。感情の発露。――それはすなわち、知性を獲得する兆しだ。
思えば、この魔獣ははじめから私を狙っていた。それが魔術師であるヒルダ・リーゼフェルトの最大の弱点であると気づいていたからだ。
それは理知的な行動だ。カテゴリー3の領域からは明らかに逸脱している。
この魔獣はじきにカテゴリー4へ至る。そうなれば、いったいどれほどの市民が犠牲になるのか。
「…………っ」
ヒルダさんの意識は途切れる寸前だ。いずれ編纂結界は砕け、魔獣は自由になる。
ブリシルタウラスもここまでのヒルダさんの攻撃で相当なダメージを受けている。回復のために二、三の魂を喰らえば支援の魔術師が来る前に即座に離脱するだろう。――そして、やがてカテゴリー4へと進化を果たす。
だが、そうしなければ?
この場で編纂結界を維持し、頑なに魔獣を外に出さなければ、支援の魔術師が確実にブリシルタウラスを屠ってくれる。そうなれば将来犠牲になるかも知れなかった数多の人間を救うことが出来る。
――ただし。
それが出来るのは、この場にいるオリヴェル・リーゼフェルトただ一人。
「……っは」
乾いた笑みだけが漏れ出る。
どうしようもない。
自分にはこんな魔獣と戦う術はないから、ただひたすらに結界を張って逃げ惑うだけ。小さな結界では砕かれてしまうから、ヒルダさんが展開したものよりよほど大きな結界にしなければならない。――それはつまり、周囲の人々を避難させることなど出来ないということだ。
その道を選べば、核を喰らわれないで済むとしても、その攻撃に身を引き裂かれる市民は確実に生じる。
犠牲を強いる。
未来の数え切れない市民か、現在の一握りの市民か。
子供の私にだって出来る算数の問題。
簡単だ。
いつだって、私が目指してきたものはそれだけだ。
何よりも正しくあらねばならない。
何よりも合理的でなければならない。
それがリーゼフェルトの魔術師だったはずだ。
だから。
だから、だから、だから――……
*
――そして、カテゴリー3:ブリシルタウラスは討伐せしめられた。
私自身を囮にしながら幾度となく編纂結界を張り直し続け、二〇分程度で駆けつけた支援の魔術師がとどめを刺した。
その間に負傷した市民は十数名。核を捕食された者はもちろん破壊された者も一人もいない。数多の魔術師を退け続け、進化の直前にまでいたカテゴリー3の討伐としては、犠牲はあまりにも少ないと言えただろう。
あのヒルダさんでさえ負傷し核に損傷を負っている。日常生活に支障はないが、魂に負担を掛けるオルタアーツの使用が出来ないという大きな後遺症を背負うほどだ。
それほどの魔獣を幼い子供の機転で逃亡を許さずに討伐までこぎ着けた。それは紛れもなく成果だった。
周囲の誰もが、私を責めたりなんてしなかった。ヒルダさんでさえ「心配をさせないでください」と、そんな小言を言うだけだった。その選択は勇敢で正しいものであったと、誰もが認めて賞賛した。
――けれど。
あの日の出来事を、そんな武勇伝になんてしてはならない。
ヒルダさんが自身を犠牲に私を救い、私は少数の市民に苦痛を強いて魔獣を討伐した。それが全ての顛末で、それだけが真実だ。
だから、ヒルダさんがこれから先救ったであろう数よりも多くの市民を救い、切り捨てられる少数にもそれが必要な犠牲であったのだと示し続けなければならない。
自身の才能を言い訳に弱きを甘んじることは、ヒルダさんの選択を貶める行為だ。
情にほだされ天秤の傾きに目を背けることは、かつて切り捨てた少数への裏切りだ。
だから。
だから、私は正しく、強くあり続けなければならない。
正しくあり続けなければ――……




