第一章 臨死の鎖 -7-
バラの香りが鼻先をかすかに撫でる。
吹き抜ける花の色の風に、キャラメルの髪がさらわれる。
その様子はいっそ絵画のようで、それに見とれてしまったことをごまかすように上崎はまばらに浮かぶ綿菓子のような雲を見上げていた。
――レーネ・リーゼフェルトが所望したのは、平凡な高校にもあるようなただの中庭だった。別段何かシンボルがあるわけではなく、見栄えのためにと数十種類の花が季節ごとに植えられている程度で、自慢できるほどでもない。
だがレーネはそれでも満足らしく、深呼吸と共に胸いっぱいに花の芳香をためていた。
「そんなに大層なものでもないだろ? 貴族様なら見飽きたものだと思うけど」
「まぁ確かに、ウィンザーの方が花とかは多いよ。あっちは春先とかに植物園として一般開放するくらいだし」
さらりと言ってしまうレーネに、上崎は首をかしげる。どうしてわざわざここを望んだのかと、そんな疑問が顔に出ていたのだろう。彼女はそれを見てくすりと笑った。
「それがどれくらいすごいか、とかは関係ないよ。誰と一緒に見るのか、っていうのが大事なんだよ、ダーリン?」
「……そうかよ」
「リアクション薄いなぁ。四年ぶりのハニーの甘い言葉なのに」
ぶーぶーと文句を垂れながらも、レーネは楽しそうに花壇の花を眺めて歩いていく。それに付き従うように上崎も一歩後ろから観賞する。
バラ以外にもツツジやアヤメ、ライラックやフジもある。色とりどりの花を味わうことは、確かに上崎としても新鮮ではあった。ただの中庭であるから普段から目に入るとは言え、こうしてゆっくりと見つめる機会は多くない。むしろ入学してから初めてではないだろうか。
「ダーリンも楽しんでるみたいでよかった」
「……俺、まだ何も言ってないと思うんだけど」
「ダーリン結構分かりやすいからねぇ」
くすくすと笑うレーネに、上崎は気恥ずかしくなってまた空へ視線を戻す。
そこで、上崎は思わず顔をしかめた。
陽光とはまるで違うチカチカとした不規則な光の点滅が、上崎の網膜を刺したからだ。
――見覚えがある。
そのアトランダムな光の点滅を、遙か昔に上崎はどこかで――……
「――ッ!」
自分の脳が理解するが早いか上崎は動き出していた。――レーネはまだ気づいていない。そもそも上崎のように空を見上げていなければ、察知できるはずもないだろう。
見覚えがあるとも。
忘れたくとも忘れられない。
それは九年前の鮮烈な――自らの死と紐づいた記憶だ。
「誰かが降ってくるぞ……ッ」
ただ一言そう忠告するだけの時間しかなかった。仔細な説明をしている余裕などあろうはずもない。
あの点滅は、現世から天界へと魂が移動するときに生じる現象だ。その光の明滅する地点に、魂は転移してくる。――つまり、いま訪れようとしているあの魂は、それだけの高さから落下するということだ。
死亡した現世の座標と同じ座標に死後の魂は出現する。本来はこんなふうに上空から降ってくるような奇っ怪なことは起こり得ないが、そこに拘泥している場合ではない。
既に光の点滅は終わり、人影が上空にあった。
核を破壊されない限り死なないこの世界でも、あの高さからの落下では頭部へのダメージは免れない。下手をすれば核が破壊されてそのまま魂の消滅を招きかねない。
ふわりと落ちてくるように見えるのは最初だけ。実際には、十五メートルほどの高さからでは落下まで二秒もない。
既に動き出していた上崎でも、まだ距離は数十メートル。とっさに編纂結界を張ってフィジカルエンチャントで脚力を増強したが、それでも間に合うかどうかの瀬戸際だ。オルタアーツの優秀なレーネでも、いま状況を把握して行動に移すまでを考えればもう間に合わない。
既に落下は始まっている。息をすることすら忘れて地面を蹴りつけた上崎が、最後には滑り込むようにして手を伸ばした。
間に合え、とそんな祈りが届いたかのように、どさりと鈍い衝撃と共に人影はその伸ばした腕に収まってくれた。その勢いのまま転がりそうになるのをどうにか堪えて、上崎は靴底をガリガリとすり減らしながら十秒近くかけてようやく止まった。
「ダーリン、大丈夫!?」
遅れて駆け寄ったレーネに、上崎は額の汗を拭いながら「なんとかな」と返す。
見れば、落ちてきたのは上崎たちよりさらに幼い、中学生程度の少女だった。地毛ではなさそうな少し傷んだ蜂蜜色のロングヘアが特徴的で、きっと三年も経てば六花やレーネのような美人になると、そう思わせるほどに整った顔立ちだ。
死んだ瞬間に気を失っていたのだろうかその少女に意識はないが、幸いにも擦り傷一つもなく無事に受け止められたらしい。天界に来る際に衣類までは道連れに出来ないため、一糸まとわぬ姿が普通だ。そのおかげで怪我の有無は分かりやすかった。
「……ダーリン、裸の女の子をそんな風にまじまじ見つめるのはどうかと思う」
「そういう目で見てねぇよ……」
ジト目で睨むレーネに辟易しながら、上崎は自身のシャツを脱いで落ちてきた少女の身体を隠すように覆った。
そうして少し息をついたときだった。
レーネは、彼女の姿を見て何かに気づいたようにはっとしていた。
「どうかしたのか?」
「……ううん。その、鎖のこと」
それは何かをごまかしているようにも聞こえたが、詮索するよりも先に上崎はその音に気づいた。
ちゃり、と金属の擦れるような音に。
「鎖……?」
羽織らせた服の隙間から、まだ膨らみもつつましい胸の中央で連なった金属環が見えた。
それは、確かに鎖としか形容のしようがなかった。
そんな明らかに異質な物体がまるで飲み込まれるかのように彼女の柔肌から現れて、そのまま地面へと向かいながらも途中で薄らいで消えている。
「それはたぶんシルバーコード。――臨死の鎖だよ」




