第一章 臨死の鎖 -4-
上崎が這々の体で白浜の怒号から逃れ、一呼吸。
彼は六花と二人で、リノリウムの床をぺたぺたと鳴らしながら、のんびりと昇降口へ向かっていた。
――まさしく万夫不当の魔神、カテゴリー5:ディザスターを討伐してから二週間。
はじめのうちは耐えきれず遁走を図るほどには周囲の環境は騒がしいものだったが、半月という期間を経て話題の鮮度も落ち着いたか。思えば屋上から職員室へ向かうときも、いまこうして留学生の出迎えのために廊下を歩いていても、すれ違う生徒に呼び止められたりといった煩わしいイベントは発生していない。たまに遠巻きにシャッター音が聞こえる程度で、ほとんど今までの日常に戻りつつあった。
「俺たちが討伐して二週間ぽっちだし、視察のためだけに留学の手続きを全部済ませるなんて早すぎるだろ、なんて思ってたんだけど。これならむしろ遅いくらいなのか……?」
わざわざ人目を避けて早朝から登校して屋上に身を潜めていたのだが、そもそもそんな必要もなかったか、と杞憂に終わっていそうで安堵している上崎に対し、六花はどこか乾いた笑みの混じる曖昧な表情で首を横に振る。
「どうでしょうね。人の噂は七十五日、ということわざを考えると、やっぱりまだまだ短すぎるくらいな気もしますけれど」
そう言って、昇降口に辿り着いた六花は自身の下駄箱からローファーを出しながら入り口を――正確にいえば、さらにその奥を指さしていた。
その仕草に促されて、上崎の視線もその方角へ向く。
そこで、あまりにも異質なものが待ち構えていた。
普段であれば決して校門で見かけることはないスーツ姿でマイクを握った男女も明らかに浮いている。だがそれ以上に、それぞれを取り囲むようなTシャツデニム姿の男たちも明らかに学校という場には相応しくなかった。
肩にはロケットランチャーのようにカメラを担いでいたり、物干し竿みたいな集音マイクを必至に伸ばしていたり。その他にも遠目では何かも分からない様々なものを持った、役割不明の大人たちが総勢で数十名、ひとクラス分ほどはいそうだった。
疎い上崎にでも分かる。紛れもなくマスコミの集団であった。
「……こんなにギャラリーがいるなんて王族の来日みたいだよな」
「王族ではないですけれど、貴族みたいなものだと思いますよ。――知りませんか? リーゼフェルト家って、結構有名だと思いますけれど」
そう言って、六花はぽんぽんと白い紙束を叩いて示した。上崎がろくに目も通さずにそのまま押しつけた白浜からの資料だ。
「…………え、リーゼフェルト……?」
「やっぱり先輩も知ってましたか。有名ですもんね」
六花は納得したように呟くが、上崎はそれに同意しない。そんなことよりも遙かに重大なことがあった。
「…………ちなみにそれ、日本で言うところの佐藤さんとか鈴木さんだったり?」
「海外のファミリーネームの世帯数なんてさすがに私も知りませんよ。少なくとも私に聞きなじみはないですけれど」
予想はしていた回答だが、それでも嫌な汗がぶわっと噴き出すのを上崎は感じていた。まだ夏にはほど遠いというのに滝のようである。
「えっと、その留学生の名前は?」
「個人情報保護の観点なのか、ばたばたして職員室を出たのでそのページを落としてしまったのか、手元のいただいた資料に記載はないですね。今日のスケジュールと注意事項くらいしか載っていなくて。その注意の内容に『リーゼフェルト家のご子息・ご令嬢の応接には粗相のないよう』って書かれてるだけです」
「……所属する学年とかって分かる?」
「二年生に妹さん、三年生にお兄さんみたいですね」
「……ってことは妹さんとやらは俺と同い年か」
上崎自身は留年しての一年生だから、通常であれば二年生には同い年が揃っている。上崎の思い浮かべた相手であれば、妹の方が三年生に入るはずだ。最悪の未来ではなさそうだと、上崎がほっと胸をなで下ろした――が。
「いえ、もしかすると年齢は一個上かもしれませんよ? 留学のときって言語の壁があるので、学年を一つ下げたりすることが往々にしてありますから」
そんな六花の豆知識を受けて、安寧をあっさりと打ち砕かれた上崎はがくがくとその身を震わせていた。今度はとうに過ぎた真冬のようなありさまだ。
「……あの、さっきからどうかしたんですか?」
「ナンデモナイヨ」
「その棒読みは何かあった人しかしないと思うんですけれど……」
六花の嫌疑の目に対し、上崎自身も適当と分かっていながら「そ、それなー」などという無意味な相づちくらいしか返せなかった。
そんな上崎の様子に全てを悟ったように、聡明な後輩は心底からため息をついた。
「……お知り合いなんですね? 留学生の海外の美人さんと」
「ねぇ待って。まだ美人だなんて言ってない」
「まだ?」
極寒の六花の視線に上崎は言葉を詰まらせた。しかし今さら迂闊な自分を呪ったところで口を噤むには遅すぎる。
「そもそも妹さんの年齢だけを気にしてましたし、そういうことなんですよね」
「……着眼点が名探偵か敏腕弁護士だと思うなぁ……」
ははは、と乾いた笑みで褒めてみるが冷ややかな六花の白眼視に変化はない。むしろその温度がどんどん低くなっていた。
「先輩はおモテになるんですね。知ってました」
「なんでそこで不機嫌になるんだよ……」
「分かってるのにそういうことを言うからです」
何も言い返せない上崎は、背中を叩く六花からの恨みがましい声をひたすらに黙殺し、目と一緒に話題を逸らす。
「……いや、でもほら、一応俺の知ってる相手だったら連絡先は知ってるはず。留学が決まった時点でメッセージくらい来るのが、ふつう――……」
リーゼフェルトというファミリーネームに性別、年齢まで一致する魔術師。そんな人物が複数いると考える方が難しいだろう。そう理解しながらも、そんな非情な現実から逃避しようとしていた上崎は、一縷の望みを託した自らの推察の途中で言葉を詰まらせた。
そう。
連絡の一つや二つ来るのが普通だ。なにも連絡先を交換していないわけではない。
ただし。
上崎があまねくパパラッチと野次馬から逃れるため、ありとあらゆる連絡手段を自らの手で葬り去っていなければ、の話である。
「あ。いま来た高級そうな外車がそれでしょうか」
マズイマズイとうわごとのように呟く上崎をよそに、事は進んでいく。
漆よりもなお黒く塗られた車両は、背の低い三ボックスの四ドア。一見すればセダンのようにも見えるが、ダックスフントのようにボディが長い。車に明るくなくとも誰だって分かるだろう。あれはどう見たってリムジンだ。
万人が知る高級車の代表格だ。その中にリーゼフェルト家のご子息、ご令嬢がいることは間違いない。そのドアが開いた瞬間が上崎の最期だ。
「……いや、違う。まだ確定してない。確率は常に五分五分なんだ。あのリムジンの扉が開けられるまで俺は諦めない。あれはシュレディンガーのリムジンだ」
「先輩、その方に何をしたんですか……? あと、この場合だとリムジンは箱なので、猫を置き換えるならシュレディンガーの留学生が正しいのでは」
六花の冷静なツッコミは彼女の鼻をつまんで黙らせた上崎だが、いつものそんなやりとりをしたところで心が安まることはない。
とはいえ、六花が懸念しているようにそのリーゼフェルトのご令嬢と上崎が険悪な関係であるというわけではない。むしろその逆だ。
しかしあれから何年も経っているし、精神的には互いに成長しているはずだし、何ならあの頃のことはただの思い出になっているだけで気にしているのは自分だけなのでは――などという言い訳を頭の中でぐるぐるぐるぐる繰り返す上崎を置き去りにするように、リムジンはマスコミが脇に退いたのを確認してからそのまま校内に入ってくる。
さすがに学校の施設内は撮影できないのか、恐ろしく統率が取れた動きでくるりとレポーターが位置を変え、カメラマンが揃って校舎を背にし始めた。うっかりでも映してしまうと、昨今のコンプライアンス事情では許されないのかもしれない。死後の世界とは言えやはりままならないものである。
それでも念のためなのか、リムジンは昇降口前のロータリーでくるりと転回し、その腹で出迎えの上崎たちを隠すようにぴたりと停車した。恐ろしい運転技術と気遣いに、上崎は迫り来る破滅のことを一瞬だが忘れて舌を巻いたほどだ。
運転席から燕尾服に白手袋をした白髪の紳士然としたドライバーが降りてきて、恭しい一礼と共に上崎たちの前でドアを開けた。
あぁどうか違いますように、という、そんな上崎の捧げた祈りでも届いたのか。
すっ、と。
その立ち姿だけでも世界が華やぐほどの美男子がそこにいた。
ワックスでさっと整えられた光のような金色の髪。瞳は澄んだ海のように蒼く、顔立ちはいっそ作り物に見紛うほど。飾緒の付いたダブルボタンの白いブレザーを着こなした長身痩躯の容姿は、その場がランウェイに変わったのかと錯覚しそうになる。
「はじめまして。私はオリヴェル・リーゼフェルト。これからしばらくの間、貴校で学ばせていただくんだ。学年は違うだろうけれど、ぜひ仲良くしてほしいな。――あぁ、そうだ。堅苦しいのは苦手だからね。君たちも普段クラスメートと接するようにしてくれると助かるよ」
君たちが嫌でなければ私もそうさせてもらうから、とよく通るテノールの声でにっこりと彼――オリヴェルは言った。
おそらくはザ庶民の上崎たちが緊張しないように、言語も態度をあえて合せてくれているのだろう。そういった心遣いこそ、彼が本当に高貴な身分であることの証左に思えた。
見た目も立ち居振る舞いも、やはり上崎の知る彼女と似ている箇所などどこにもない。上崎が再会を恐れていた相手は金髪でも碧眼でもなく、こんな礼儀正しさと気配りが出来るタイプでもなかったと記憶している。本当に兄妹ではないかもしれない。
そんな安堵を隠しつつ上崎たちも「こちらこそ」と簡単に挨拶を返して自己紹介する。だが可能性が下がったと言え、やはり気にはかかる。ちらちらと上崎はまだもう一人の留学生が出てくるはずのリムジンの方に視線を取られていた。しかし残念ながら、窓はスモークガラスになっていて中の様子をうかがい知ることは出来ない。
「気になるかい? 私の妹なら、車内で一眠りしてしまっていたからと、いまは慌てて身だしなみを整えているところだと思うけれど」
くすりと笑うオリヴェルに、上崎は首を横に振った。
「いえ。もしかしたら妹さんが俺の知る人なのかなとも思ったんですけど。でもオリヴェルさんに似てませんからね」
「うん? もしかして聞いていないのかな。――そもそも私と彼女は似ていないよ。義理の兄妹だからね」
え、と間抜けな声が上崎の喉から漏れ出た。急上昇するリスクを前に、思考が完全にフリーズしている。――そしてその遅延は致命的なほどに事態を悪化させた。
バン、と。
まるで蹴破るような勢いで、上崎たちとは反対側のドアが開け放たれた。
「やっぱり!」
はつらつとした声音と共に、長い車体を回り込むことさえ惜しんでほとんど飛び越えるようにして、上崎たちの前に一人の少女が現れた。
ウェーブがかったキャラメル色の髪に、瞳の色はココアブラウン。それらを上崎はよく知っていた。その髪型さえあの頃から変わっていない。ポニーテールではなくハーフアップだと何度訂正されただろう。
違うところがあるとすれば、その体型だろうか。育つべきところは豊満に育ち、きゅっと引き締まったくびれがさらにそれを引き立たせている。そこらのモデルが涙目で引退しそうなほど、そのプロポーションは完成されていた。
「カテゴリー5を討伐したのはあなたしかいないって思ってたよ!」
上崎の前に来ても、飛び出してきたその勢いは止まらない。そのまま六花には目もくれず、両手を広げて飛び込むように上崎の首へと抱きついた。
ふわりと、蜂蜜みたいな甘くいいにおいがした。
それに気を取られて、上崎は続く言葉を止めるのを忘れてしまった。
「会いたかったよ、ダーリン!」
懐かしい呼び名だったと思う。
ただ、それを聞いた隣の少女がこの世の終わりのような顔をしているのが、キャラメル色の頭越しにうっすらと見えた。




