第一章 臨死の鎖 -2-
ざぁ、とすっかり花の落ちた桜の葉を鳴らして、一陣の風が吹き抜ける。
屋上の少しざらついた手すりに寄りかかりながら、そんな春も過ぎゆくあたたなか日差しを一身に浴びているのは、上崎結城。この魔術師を育成するために設立された東霞高校の、二度目の一年生であった。
彼は特に何か用事があって、始業前のこの時間から人気のない場所へやってきた訳ではない。実際やることもないから、ただただ登校する生徒たちをフェンス越しに見下ろして眺めているばかりだ。強いて言うのであれば、人目がないからここを訪れていた、という方が正しい。
「……っていう、はずだったんだけどな」
少しばかり恨みがましく呟いて、ちらり、と上崎は目線だけを動かして自身の左隣を見やる。
「どうかしましたか、先輩」
しれっと、そこにいた。
普段なら人なんて来ないはずの朝の屋上で、一人の少女が上崎結城をきょとんとした顔で見つめている。彼女らしいセミロングの髪はアッシュブロンドに染められていて、白磁のようなその肌によく似合う。ヘーゼルとブラックのオッド・アイも今は旭光に照らされ、そのコントラストがはっきりと見て取れた。
水凪六花。
上崎と同じ東霞高校の新入生で――彼がたった一人と認めたかけがえのないパートナーだ。
「……なんでいるの?」
「その言い草はひどいと思います。断固抗議します」
むぅっと可愛らしく頬を膨らませる六花に対し、上崎は呆れとも照れともつかない曖昧なほほえみで「はいはい」とすげなく返す。
そんないつもと何も変わらない他愛のない会話に、しかし上崎はどこか郷愁にも似た感情を抱いていた。こんな何気ない語らいさえ、どれほどの奇跡の上に成り立っているのかということを痛感させられたからだ。
「先輩、冷たいです。結局お見舞いにだって一度も来てくれませんでしたし」
「……出歩けるような状態じゃなかったんだよ。お前だって分かってて言ってるだろ」
まだ授業すら始まっていないというのに疲労困憊の様子でため息をこぼす上崎に、六花は「意地悪な先輩への仕返しです」なんて言ってくすりと笑う。
いまの上崎と六花は、ほんの二週間前までとはまるっきり立場が変わってしまっていた。それは彼らが成し遂げた、ある偉業のせいだった。
――カテゴリー5:災厄/ディザスター。
全てで七体しか存在を確認されていない、魔神級の魔獣。未だかつてただの一体たりとも討ち滅ぼすことの叶わなかったその絶望の象徴を、彼らはたった二人で討伐せしめたのだ。
それこそ世界中が湧くような大ニュースだった。未成年でありまだ討伐時の状況も不確かであることから実名報道もなされていないというのに、彼らの周囲には多くの人が押しかけてくる始末だ。授業を受けるために学校に来たにもかかわらず、始業までこうして人目を避けて屋上なんかに隠れていなければならないくらいに。
だがそんな功績にも、何も代償がなかったわけではない。どれほどもてはやされても素直に歓喜することなく疲弊しているのは、それが理由でもあった。
「……いいのか」
何がと口に出すこともはばかられて、上崎は左に立つ六花の身体の一部へただ視線を送ってそう呟く。
ちょうど彼女自身に隠れて見えていなかった彼女の半身だが、六花が上崎と正対するように振り向いてしまったから、それが見えてしまう。
深窓の令嬢なんて言葉の似合いそうな、小柄で華奢な体つきは相変わらず。
けれど。
彼女の左の袖だけが、まるで旗みたいに、風を受けてはためいていた。
あるはずのものが、そこにない。ほんの少し前まで彼女には確かにあったはずの左腕が、肩口から消え失せてしまっているのだ。
「やっぱり、それを気にしてたんですね。見えないように左側に立って正解でした」
まったくもう、なんて呆れた様子の六花に、上崎は何も言えなかった。
その左腕は二週間前、ディザスターの顎に呑まれて失ったものだ。
そして、それは。
彼女が上崎を救うためだけに負った、本来なら払う必要のなかった代償だ。
「……なんで、怪我した方が気づかってるんだよ」
その目の眩む無償の優しさに、上崎はつい目を逸らすように春空へと視線を移す。
そんな風に思われる理由がないから、いつもそれを受け止めきれない。なのに六花はそんな上崎の態度にも見守るようにほほえむだけで、彼に向ける思いが変わることだけは決して変わることがない。
「まったく治る見込みがないのであれば、多少は動揺があったとは思いますけれど。でも、オルタアーツで腕を再生できるお医者さんもいますしね。仮にもディザスターを討伐した功績をたたえて、ということで、そういった高名なお医者さんに見てもらえるように日程を調整してもらえているみたいです」
「それは知ってるけど、後で治るからいいっていう問題でもないだろ。大怪我なのには変わりないし、今だって痛かったりとか辛かったりとか、無理してるんじゃないのかよ」
「まぁまったくないわけではないですけれど、一応退院の許可も出たわけですし。傷はきちんと塞いでもらって、痛み止めもきちんと飲んでますので。せいぜい少し着替えづらいなぁ、くらいですね」
あっけらかんと六花はそんなことを言う。治ると言われたって後遺症や傷跡が残るのではないかとか、あるいはほかにも上崎だって気づかないような不安も山積しているはずだ。それにもかかわらず当の本人がこんな様子では、上崎の方が反応に困ってしまう。
罪悪感はどうしたって拭えない。
その消えた腕は、上崎の弱さの象徴だから。
ディザスターの討伐は本来なら成し遂げられるはずのなかったものだ。その絶望を前に上崎は一度、水凪六花を見捨てて逃亡したのだ。自らその選択をしたにもかかわらず、その失意からも逃れるために、過去へ遡ってやり直した。それが全ての顛末だ。
たとえ誰が称賛しようとも、水凪六花自身が上崎結城を許そうとも、その罪は決して消えることがない。贖う術すら白紙化された未来へと置き去りにした。彼女の失われた左腕は、まさしくその罪過の証明だ。
「……先輩」
「なんだよ」
「そんなに心配してくださるなら、そもそもお見舞いにくらい来てくれてもよかったと思うんですよね。最初の一週間は治療と事情聴取に追われてたみたいですけど、終わった後の一週間はゴールデンウィークでお休みだったんですから」
「……悪かったとは思ってるから、その話蒸し返すのやめない?」
上崎の胸の奥にわだかまるものを察しているからか、六花はそんな風に茶化してくる。彼女からすれば、自分がとうに気にしていないことをいつまでも引きずって、今までのように明るく接してもらえない方が不当に感じるのかもしれない。
だから、長いため息と共にその罪悪感に厳重に蓋をして、上崎は自分の胸の奥へとそれを追いやった。これから先何度だって浮かび上がってくるだろうが、それでも、彼女の笑顔を曇らせるのであれば、上崎が過去へ戻り命を賭けてディザスターに立ち向かった意味がない。
「だいたい、さっきも言ったけど、見舞いに行けるような状況じゃないって。これじゃフルーツ盛りの一つも買えないぞ」
上崎の視線は十数メートル下の地上に向けられていた。――校門のすぐ傍に、見慣れない白のワゴン車が幾台も停められている。そしておそらくは、あれら全てが報道関係車の車だ。
なにせ、カテゴリー5は未だかつてただの一度も討伐されていなかった。撤退にまで追い込めたことすらなく、魔神による蹂躙の波が落ち着くのをただただ指を咥えて眺めているだけだったのだ。
そのカテゴリー5が初めて観測されてから誰も叶えることの出来なかった奇跡を成し遂げてしまった。そうなれば、たとえどれだけ情報を統制しようとも、こんなふうにマスコミとパパラッチが押しかけるのは自明の理だ。
上崎結城という名前は出ていないにもかかわらず、彼の寮の前にまでそれらは連日連夜隊列を組んでいたほどだ。さながら立てこもり犯を取り囲む警察官のようであった。
自室に引きこもってカーテンを閉め切っていても、窓の外からは無数のシャッター音が聞こえてくるし、部屋のドアののぞき穴から様子をうかがえば、同じ学校の生徒たちがプライバシーを無視して群がっている始末。結局そんな生活は最初の一週間でギブアップし、残りのゴールデンウィークの間はずっと、友人である秋原佑介の部屋に転がり込んで過ごしていた。
「お見舞いの品なんていりませんよ。先輩が来てくださることが大事なんです」
「……次はそうするよ」
「そこは『俺が守るから見舞いなんかもうないよ』くらいは言って欲しいところですけれど」
ぽっと頬を染めて六花は言うが、臆面もなくそんなことをのたまえるような図太さを上崎が持ち合わせていたなら、そもはじめから見舞いに行っている。
「……そもそものことなんだけど、聞いてもいいか?」
「なんでしょう」
「お前、核がぶっ壊れた俺をオルタアーツで治してくれただろ。自分の腕も、それで治せるんじゃないのか?」
魔術師は全て一切の例外なく、編纂結界と呼ばれる空間を生み出し、その中で自らの魂を書き換える術式――魔術/オルタアーツを駆使する。そのオルタアーツを発動した状態で編纂結界を破壊されてしまうと、変化した魂は急激に元に戻ろうとする反動で損傷を負う。
そして上崎の特殊な魔術は、本来なら手を加えるはずのない『核』にまでその手を伸ばして発動している。ディザスター討伐時の上崎はオルタアーツを使用した状態で編纂結界を破壊されてしまい、『記憶やDNAのような魂を構成する情報』を損壊し、二度と元に戻れなくなったはずだった。
だが、実際に上崎はこうして人の姿を保っていて、それどころか入院すらせず日常生活を送っている。それは、六花が自らのオルタアーツを駆使して上崎の壊れた核を修復してくれたおかげだ。
「あれは二度と出来るものじゃありませんよ。そもそもある程度自己治癒はできますけれど、本来は欠損を治せるようなレベルじゃないですし。――だからあれは、愛が生んだ奇跡です」
「ふっ」
「ちょっと待ってください。そこは少し照れるべきであって、間違っても鼻で笑うところじゃないです」
本気で傷ついた目を向ける六花のリアクションはさておくことにして、上崎はふと時計を見やる。
「それはともかく」
「ともかくじゃないです。いまは先輩とは言えお説教をしなければいけない大事なタイミングですからね」
「たまたま屋上に来たってわけでもないんだろ。まだ始業まで時間はあるけど、なにか俺に用事でもあって探してたんじゃないの?」
六花の猛抗議には素知らぬ顔でスルーを決め込んで上崎は尋ねる。
はじめこそ恨みがましく睨めつけていた六花ではあったが、小さなため息と共にお説教とやらは諦めたらしく、不承不承といった様子ではあるがその上崎の問いに答えてくれた。
「……まぁそのとおりですけど。ちょっと用事があったので」
「用事?」
「はい。――白浜先生から、先輩を探してきてほしいって」




