第一章 臨死の鎖 -1-
天界。
死した者の御霊が『魂の寿命』を尽くすまで過ごすその世界だが、しかし現世と甚だしい懸隔があるかと言えば否だ。そこはあくまで現世の延長線上にある『世界の一つ』に過ぎず、禍々しい地獄の釜もなければ、天使の住まう雲上の楽園も広がってはいない。
肉体という枷が消失した天界であろうとも、万物はあらゆる原理と法則に支配される。どこまでも理詰めに構築された世界だ。
――だから、と言ってもいいのだろうか。
擦り切れたように均された広大なアスファルトの上を滑るように走り抜け、三〇〇トンオーバーの鉄塊が翼を広げて大空へと飛び上がっていく。そのどこまでも文明的で科学を象徴するような光景もまた、現世と変わらないものの一つだった。
*
タラップの上に一歩を踏み出した途端、けたたましく鳴り響くジェットエンジンの唸りが耳朶を打った。
その腹を奥から揺さぶるような轟音の中、自慢のキャラメル色の髪をなびかせて、彼女――レーネ・リーゼフェルトは昼の陽光に少しばかり目を眩ませた様子で手を庇にしていた。
母国の英国だと、この時期は霧や雨で日が照る方が珍しい。アジア特有の湿気があるため夢心地とまでは行かないが、それでも晴天に包まれた春の陽気は気持ちよく、無味乾燥とした機内の空調と比べてしまえばなおのこと雲泥の差であった。
「んー。帰ってきた、って感じがするね」
そんな雰囲気さえ噛みしめるように胸いっぱいに深く空気を吸ったレーネは、どこか名残惜しそうに息を吐きつつ朗らかに笑う。
日本に降り立つのはおよそ四年ぶりで、その頃でも三ヶ月いたかどうかという短い期間ではあった。しかし、それでもレーネの身体は帰郷の喜びにでも浸るように、この空気を受け入れていた。
「まぁ、普通は飛行機って大抵はブリッジと直結だからこんなふうに外の空気を浴びたりなんかは出来ないと思うんだけどね。――ねぇ、ノル。もしかしてお金ケチった?」
「タラップかどうかにお金は関係ないよ」
意地悪なことを口にする彼女の後ろでため息交じりにそう答えたのは、光のような金髪が麗しい、レーネの義兄のオリヴェル・リーゼフェルトだった。
まぁ分かってるけどさ、なんて言いながらダンスでもしているように半回転ずつくるくると回りながら起用にタラップを下りていくレーネに対し、オリヴェルはどこまでも性的に、背筋に芯が入っているかのような紳士然とした足取りで颯爽と鉄階段を降りていく。
「私たちは魔獣を狩る魔術師だからね。その責任というやつだよ」
数多の音の入り乱れる滑走路の上でもよく通るテノールの声で、諭すようにオリヴェルは言った。
魔獣とは魂を捕食する天界固有の存在だ。寿命が尽きるか、核と呼ばれる脳と同じ位置にある魂の中枢を破壊されない限り消えることのない天界において、その核を捕食する魔獣はまさしく人類の天敵だ。そして銃火器すらまともに通用しないその悪食の獣を相手に、魔術と呼ばれる特異な術式を駆使して討伐する者こそが、魔術師という職業であった。
「魔術師であれば、当然であるけれど多数の魔獣の恨みを買う。それはつまり標的とされてしまう可能性もあるということだよ。巻き込まれてしまう一般人の安全を考慮して、私たちが別のゲートを利用するのは当然のことだろう?」
魔術師としてオリヴェルは義妹へ教科書どおりの説明をしていた。たしかにそれは至極正論ではあるのだが、しかしそれを聞いているレーネはと言えば、駄々をこねる子供のように唇を尖らせている。
「……ねぇ。そもそも飛行機って上空何メートルを時速何キロで飛ぶの? たぶん魔術師を恨むくらいには知性のあるカテゴリー4の魔獣でも、魔術師の乗った飛行機をピンポイントで狙い撃つのって無理だと思うんだけど」
「確かに飛んでいる最中は不可能だとしても、離陸前と着陸後は別だろう?」
「飛行機ってこの空港だけでも一日に何本行き交ってると思うのさ。わざわざ空港で魔術師だけを狙い撃ちにするのだって出来ないと思う」
「現実的ではないことと、起こり得ないということは別だよ。それにどちらかと言えば、万が一にでも戦闘になってしまうことを考慮した対応を心がけている、と市民にアピールをしているという意味合いの方が強いかな」
きっぱりと言われて、レーネも「なるほどねぇ」と半ば諦め気味に頷いた。
魔獣のためでなくとも、政治家がブリッジ直結ではなくタラップを利用している姿はレーネもニュースで多々見かけいている。あれは報道用の演出ではなく、テロや暗殺の対策として同じ理由から来ているものなのかもしれない。
「貴族の責務、ってやつだ。ノルの好きな言葉の」
「別に好きではないよ。矜恃ではあるけれどね」
どこか満足そうに笑うオリヴェルの様子に、レーネも、それなら仕方ないか、とあっさりと答えて笑みをこぼす。
「随分と上機嫌だね。レーネはこういった扱いは好きではないと思っていたけれど」
「もちろん今でも好きではないよ? もともとわたしはノルと違って庶民だし」
そんなレーネの言葉に、オリヴェルは困ったような顔で肩をすくめた。
リーゼフェルト家は一流の魔術師を擁する名家の一つだ。オリヴェルの言う貴族の責務のような振る舞いを求められることは少なくなからず存在する。一方で、やはりそれに見合うだけのきらびやかな生活があるのも事実だ。
そのどちらも、レーネ・リーゼフェルトの肌に合っているとは言いがたい。特別扱いで持ち上げられることは今でもむず痒く感じてしまうし、責任として不便を強いられるのは純粋に好きになれない。
いつものように英国にいたのなら、それは仕方がないことだと理解しつつも、やはり不平と不満を妹の特権とばかりに口にしていたことだろう。レーネ自身もそんな光景が目に浮かぶようであった、
「だけどさ」
否定の言葉と共にカンカンと靴底で鉄板を鳴らしながら、変わらず踊るようにレーネはタラップを降りていく。浮ついた心に引きずられて身体も軽くなっているようですらあった。
少しの不自由など微塵も気にならないほど、レーネはこの日を待ち望んでいた。あのひと夏のきらめくような月日からの四年間、一度だって、一瞬だって、この地を忘れたことなどなかったから。
「四年間も想い続ける初恋だよ? ちょっとくらいの嫌なことなんてどうだっていいよ。むしろスパイスだとしたら弱いくらいかもね」
臆面もなくそう楽しげに答えて、レーネは屈託のない笑みを浮かべていた。
ふとした拍子で胸に抱え続けた思い出がよみがえって、それだけで笑みがこぼれてしまう。それほどにあの日々はきらきらと輝いていた。
「別に彼を想うことを止めはしないよ。けれど、まだ彼と決まったわけじゃないだろう?」
「分かるよ。絶対にそうなんだって」
もちろん根拠なんてどこにもない。けれど、レーネの乙女の勘がそうであると断定するのだ。そこにはあらゆる理屈などはじめから必要ないだろう。
「待っててね」
すぐ傍にいるオリヴェルに向けたものではなく、遙か地平線の向こうへ向けて、レーネ・リーゼフェルトはそう小さく呟いた。
本当の方角など知るよしもない。だがそれでも、きっとこの向こうに自身の恋い焦がれたその彼がいると、そんな気がしたから。
「いま行くからね、ダーリン」




