第一章 桜舞うころ -2-
午後から始まる入学式に六花を送り出した上崎は、一時間ほど教室の窓辺で机に突っ伏しながら、春の陽気を浴びてうつらうつらとしていた。
式には既に入学済みの上崎は出席できないのだが、クラスの顔合わせも兼ねたそのあとのHRには出席する義務がある。式の開始より早くに登校してしまった上崎は、どうしても時間を持て余してしまう。
「……そろそろどっか行くか」
ちらりと時計を見やり、上崎は伸びと共にそう独りごちる。
式が終わるまであと三〇分もないだろうが、それでも教室でひとり新入生を待ち構えていたくはない。新入生が意気揚々と教室の扉を開けたら既に留年生が佇んでいるなど、絵面が最悪すぎるだろう。いったん外に出ておいて、式終わりの新入生が教室に入るタイミングに乗じて戻ってくる方がいい。
とはいえ、本日は在校生もいない半休校状態だ。校内にある食堂や喫茶店は残念ながら一つも営業していない。そういうこともあって、とくに当てもないままに上崎の足は無為に上を目指して動いていた。
やることもなく手持ち無沙汰な上崎の頭の中に、自然と式の前に六花が放った言葉が浮かぶ。
「カテゴリー5、ねぇ……」
それは最高位の魔獣のクラス、魔神級とも称される規格外の存在だ。今まで確認されたカテゴリー5は七体。そして長い人の歴史の中で、ただの一体たりとも討伐はできていない。
カテゴリー5とは、魔術師一般人問わず消滅と絶望の象徴だ。一度姿を現せば都市一つが地図から消し去られる。個人どころか国家レベルですら、対抗手段などないと言われているほどの存在だ。
そんな魔神を、六花は上崎なら討伐できると信じている。
可能性まで否定することはできないが、実際にそんな偉業を為せるかと言われれば否だ。それができるなら、そも留年なぞしていない。
「誤解、とは違うから厄介だよなぁ……」
六花には崇拝にも近い感情を抱かれている。だからなおさら、上崎の実力の話をしたところであまり気にも留めないだろう。
相手をどう思うかはその人の自由だ。好意であれ悪感情であれ、向けられる側に選べることは一つとしてない。それは理解していても、六花のそれは過剰だった。彼女と距離を取りたいわけではないにしろ、過分な信頼は毒になる。上崎にとっても、彼女にとっても。
そんなことを考えていた上崎がふいに足をとめた。階段は終わり、目の前には屋上へと続く扉があるだけだ。
ただその向こうから流れるように聞こえてくるのは、透き通った音――いや、声だった。
鈴の音のように涼としていて、穏やかな旋律の中から風雨にも似た感情がかすかに垣間見える。耳心地はいいのにどこか悲しげなそのソプラノの声を、上崎はどこかで聞いた気がした。
まるでいざなわれるかのように、気づけば上崎はその扉を開け放っていた。
紡がれる歌声が、霞のような雲の漂う透き通る空を昇っていく。
――そこに、先客がいた。
長身で抜群のプロポーションを誇る女生徒が、屋上のフェンスにもたれかかって空を見上げていた。楚々としていて、けれど弱々しさなど微塵もない。整った顔立ちは黄金比で作られているのではと思ってしまいそうなほど。
そんな彼女が栗色の髪をなびかせながら、空を見上げて祈るように歌っていた。その姿を見て何も気づかないような人間は、少なくともこの学校には一人もいないだろう。全国にまで範囲を広げても、過半数が彼女の名前を知っているはずだ。
北条愛歌。
MaNAという芸名で活動する稀代の歌姫にして、東霞高校在学中にプロの資格を取得しカテゴリー4にさえ単騎で臨める魔術師としても類い稀な才媛だ。
やがて歌声は途切れる。予期せぬ来客に気づいたらしく、ハーフアップに編み込んだ栗色の髪をたなびかせながら彼女はアメジストのような瞳を上崎へ向けていた。
「何か用かな?」
雲の上の存在だったはずの相手に呼びかけられて、一瞬、訊かれた内容すら忘れて心を奪われそうになっていた。慌てて首を振って、上崎は赤くなりかけていた頬を冷ます。
「ただの暇つぶしですよ。お邪魔だったら帰ります」
「別にわたしも似たようなものだからいいよ。――でもその上履きの色、新入生だよね?」
「あぁ……。学年カラーだって進級したのに俺ときたら……」
改めて突きつけられる現実に、上崎は膝から崩れ落ちた。
学年ごとに上履きのラインなどが色分けされているのだが、それは三年間持ち上がっていくので変わらない。一年生のときに学年カラーが赤色であれば、二年生になっても三年生になってもずっと赤色だ。――上崎のように留年しない限りは。
「あ、ゴメンね、もしかして噂の留年生かな」
「先輩の間でも噂になるとか消えてしまいたい……」
六花に続いて北条にまで心の傷を抉られ、いよいよ上崎も泣きそうだった。その様子を見て、困ったような笑みを北条は向ける。
「そんな顔しないでよ、わたしがいじめたみたいでしょう? もっと口角を上げてさ。ほら、サインくらいなら書いてあげるよ?」
「色紙どころか紙もペンもないんでまたの機会にお願いします……。――それで、北条先輩はなにを?」
在校生は授業も何もない。明日が始業式であるから、まだ春休み中だ。オルタアーツを自主的に鍛錬する者もいるが式典の日はそれも禁止のはずなので、推察することもできなかった。
「式典の初めの余興に歌うように言われてね。終わったから見晴らしのいいところで休憩中。春はいいよね。日差しも風も気持ちよくて」
どこか遠くを見つめて彼女は言う。その言葉には上崎も同意だった。春の気候は穏やかで、秋とは違ってどこか温かさがある。陽だまりの優しさは上崎にとっても至福の時間だ。
「それは、残念ですね。俺も入学式に出ればよかった」
「いまここで聞いてたじゃない」
くすりと彼女は笑う。
「残念だけどもう歌ってはあげられないけどね。これでお金をもらっちゃってるんだから、安売りしたらマネージャーさんに怒られちゃうもの。――それにわたしの歌は、もともとはお姉ちゃんの為のものだから」
儚げな瞳が、上崎の胸にチクリと痛みを残す。
この世界は死者の国だ。死ぬという現象は、この世界の人間にとって平等に、しかし重くのしかかっている。
死してこの世界に放り出された以上は生前の知人に会うことは叶わず、再会を願うということは『その相手が死亡すること』を望むことに他ならない。寂しさや自己嫌悪が入り乱れるどうしようもない醜さを、誰もが抱えてこの天界で過ごしていく。――それは、上崎だって例外ではない。
北条愛歌は、歌は姉の為だと言った。それが現世に残して来た姉なのか、あるいは、天界で魔獣に食われて消えてしまったのか。それは分からない。分かってはいけないだろう。それは他人が踏み込んでいい領域では決してない。
「そうなんですね。なんて言うか、むしろ俺なんかが聞いてしまってすみません」
「何それ。変な感想だね」
北条は楽しそうに笑う。けれど上崎自身はそこまでおかしな感想だとも思っていなかった。歌は感情を載せるものだと聞いたことがある。まさしくその通りだと、彼女の歌声を聞いて思った。
街中を歩けばMaNAの歌を聞かない日はないし、だから勝手に知った気になっていた。しかしそれは、間違っていたのだと。
彼女の歌は、姉への想いを綴った大切な大切な手紙なのだ。だから人の心を揺さぶるし、だから決して他人に理解できない。
本当に彼女の歌声を聞くべき人は上崎でも、あるいは天界の誰でもないのだろう。
「うんうん、わたしを見ても平静なのは珍しい後輩だなぁ」
「これでも結構舞い上がってますよ。芸能人なんて初めてお会いするんで」
「廊下ですれ違いくらいしてると思うけど?」
くすくすと笑って、彼女はフェンスから背を離して小走りで校舎の入り口へ近づく。
「もう入学式は終わっちゃったみたいだし、わたしはもう帰るよ。またね」
北条はひらひらと手を振って、そのまま校舎の中へと消えた。
本物のトップアイドルが目の前で歌を披露してくれた。まるで夢のような出来事で、ふわりと漂う甘い香りだけが、彼女が本当にここにいたのだという証に思えた。
「――先輩」
そんなふうに感傷に浸っていた上崎の背を、どすの利いた声が叩いた。思わず「ひぇっ」と変な声が漏れた。
「り、六花か。どうしたんだよ」
「式が終わってすぐ先輩を探していたら、逢引の現場に遭遇しました」
「人聞きの悪いこと言うんじゃねぇよ……。たまたま屋上で鉢合わせただけだろ」
上崎だって身の程は弁えている。容姿の話もそうだし、既にプロの魔術師とアイドルという二足のわらじを履きこなしている彼女と、たった一つの夢である魔術師としての才もなく留年してしまった自分では、どうしたって住む世界が違う。目の前で生歌を聞けただけでも奇跡にも等しい幸福だろう。
「……先輩、見惚れてました?」
「まぁ、歌声はすげぇ綺麗だったよ。アカペラであそこまで歌えるんだって驚いた。帰りにCD買おうかな」
「やっぱり胸ですか……」
「ねぇ、俺の話聞いてた? 歌声って言ったでしょ?」
不名誉な言いがかりを撤回させたかった上崎だったが、自分の平均より平らな胸を見下ろして悲しげな顔をする六花には何を言っても届かないだろう。
「でも大丈夫です。まだきっと成長しますから」
「何が大丈夫なんですかね……」
まっすぐに向けられる好意に、上崎は気づかない振りをして目を逸らす。
上崎だって馬鹿ではない。六花が出会ったときから自分に好意を寄せてくれていることは気づいている。カテゴリー5を討伐できるという信頼も、そのあたりが寄与しているのだろう。
だが、上崎は彼女に何かをしてあげたわけではない。
好かれるような覚えが本当にない。今だって留年して美人に見惚れているような、そんな情けない姿を見せつけている。なのに、彼女の好感度は一向に下がらない。
上崎も彼女のことを憎からず思っているし、好意は素直に嬉しいと思う。けれど真正面から「俺の何が好きなんだ」なんて言葉をかけられるほど面の皮は厚くなかった。
結局、こうして曖昧な関係を曖昧なままに続けていくしかないのだろう。
それはこの春先の陽気のようだと、なんとなく、上崎はそんなことを思った。
温かくて、穏やかで、きっといつまでも続きはしない、と。
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