第三章 もう一度 -2-
魔術師は危険な職業だ。
魔獣と戦う以上、消滅の危険はいつだって身近に存在している。だから、魔術師を目指す東霞高校の生徒には遺書を残す慣習がある。強制されずとも多くがそうするのは、現世の人との別れに対して未練や後悔めいたものがあるからかもしれない。
その白い封筒は、水凪六花の残した最後の言葉だった。
ひったくるみたいに上崎は白浜からそれを受け取った。慌てて開封したせいで上包みは破れてしまったが、そんなことは気にも留めず、中にあった数枚の便箋を取り出した。
『上崎先輩へ』
そんな書き出しだった。
たったそれだけなのに、手紙を握った手が震えた。
『これが読まれてしまっているということは、先輩のいないところで私が勝手に消えてしまったか、もしくは、先輩を私がかばった結果だと思うんです。――できれば後者の方が嬉しいんですけど、それだと、先輩はひどく泣いちゃっているかもしれませんね』
この手紙を書いているときの光景が目に浮かんだ。きっといつもみたいに、困ったような、照れたような、そんな笑みを浮かべていたのだろう。
『でも、言わせてください。どうか、もう泣かないでください。私はきっと後悔していないでしょうから。――私が先輩を守れる日が来たのであれば、それは私の夢が叶った日なんです』
流麗な文字にしたためられた彼女の強い意志が、上崎の胸の奥へと流れ込んでくるようだった。ただそれだけで、何かが破裂しそうな、そんな痛みがあった。
『先輩のことですから、自分を責めているかもしれません。私が勝手に消えたにしても、先輩を庇ったにしても、先輩はとても優しいから、自分がどうにかできたんじゃないかって、そう責任を感じてしまうと思うんです』
その後には『そんなふうに私を想ってくれていたらとても嬉しいな、なんて思ってしまう私を許してくださいね』と書き加えられていた。
『ですが、これでいいんです。私は先輩からたくさんのものをもらいました。だから、これ以上、先輩に助けられたら困っちゃいます』
何を言っているんだ。
そう問い質したいのに、その少女はそこにいない。だから、ただ嗚咽だけが漏れた。
『先輩は、ずっと気にしていましたよね。私がどうして先輩をお慕いするのか。だから、最後にその答えだけはお伝えしようと思います』
雨が窓を叩く音と紙擦れの音が、上崎の懺悔にも似た嗚咽を包んでいた。
『私は六歳の頃、ある事故に遭いました。冬の雪山で、スキーのリフトが倒壊するという大きな事故でした』
全身の筋肉が硬直した。
上崎はそれを知っている。
だって。
七歳の頃、上崎はその事故に巻き込まれて命を落としたのだから。
『私はとても大きな怪我を負いました。頭や四肢はほとんど無事でしたが、お腹にひどい衝撃を受け、多くの内臓が機能を停止しました』
その先に書かれていたのは、彼女がどれだけの内臓を奪われたかということだった。一つ目にあった心臓というただそれだけで、彼女が生きていけなかったことなんて分かり切っている。
だが、そこで疑問があった。
上崎はこの天界に訪れたとき、雪山にいた。魂は死んだ場所と同じ場所に送られるのだから当然だが、そこに自分と同じ子供の姿はなかった。もしも六花がその事故で死んでいたなら、上崎と同じ場所にいなければおかしい。
その答えが、この先にあった。
『そこで私は、同じく事故に遭い、頭部の損傷で即死した少年の臓器移植を受けました』
その事実は言葉以上に、あまりに重いものだった。
子供に提供の意思表示はできない。
だからそれは、彼の両親がどれほどの葛藤の果てに出した結論だろう。
自分の息子の死を嘆く暇もなくバラバラにしてしまうという覚悟が。
自分の子供の死を前にして、同じように死にかけている子供を救えるという希望が。
一分一秒を争う中で入り乱れて、それでも、小さな少女を救うためにうなずいてくれた。
それだけではない。
多くの臓器を同時に移植するなどどれだけの奇跡があっただろう。大事故の中で、もう死にかけている少女を前に、綺麗にパックで提供された臓器でなくその場で繋ぎ合わせるような綱渡り。倫理観の全てを棚上げにした極限で、それでも医師は手を尽くしてくれた。
その果てが、これだ。
欠けている者同士だ。
半分と半分を足し合わせて、たった一つが生き長らえた。
『左目が榛色なのは、この事故でぶつけてしまったからです。――でも、もらった角膜のおかげで視力だけは取り戻せました』
――違う。
『心臓や肺をもらって、私は呼吸を取り戻しました。私がもう一度目を開けることができたのは、全部、その少年のおかげです』
――違う。
『私がもう一度陽の温かさに触れられたのも、海風の心地よさを感じられたのも、草木のにおいを胸一杯にかげたのも、何もかもがその少年のおかげなんです』
――違う。
『結局、大人になるまでは生きられませんでした。命を繋げたのは四年間。類を見ない緊急の多臓器移植で、五年生きることも絶望的でしたから妥当です。ですが、母の腕に抱かれながら、父の大きな手に頭を撫でられたまま、最期を迎えることができたことはとても幸せだったと思います』
――違う。違う違う違う。
『たった四年と思われるかもしれません。でもその間、私はたくさんの愛を知りました。それは、その四年をくれた少年のおかげなんです。その四年が、私にどれほど幸福だったか、きっと誰にも分からないと思います』
――違う違う違う違う違う違う違う!!
押し殺した嗚咽と一緒に涙が溢れて、苦し紛れに握った手紙がぐしゃぐしゃに歪む。
『全部あなたのおかげです。上崎先輩』
「違う、違うんだよ!!」
気づけばそれは叫びになっていた。
必死に否定するのに、それはもう絶対に届かない。
『あなたに出会えたとき、その少年があなただと知ったとき、私はどれほど神様に感謝したでしょう。死後の世界という、私が自分の足で走り回れる夢みたいな世界をくれて、その上で私を先輩の傍にいさせてくれるなんて。私は、本当に恵まれ過ぎなくらい恵まれているんです』
もっと、憎悪をぶつけたってよかった。
何をどんなふうに感じたって、彼女の生前の『普通の幸せ』なんてものはほとんど奪われたままなのに。
それでも、彼女の文字にはただただ温かい気持ちだけしか込められていなかった。
『だから、私は決めたんです。私がもらった四年間の恩を、そこで感じ取った大切なものへの感謝を、いま与えられた奇跡のような幸福を、少しでもあなたに返したいって』
――だから。
彼女は上崎なんかを慕ってくれた。
どれほど上崎が無様な姿を晒しても、彼女だけは上崎を信頼してくれた。
「だから、あいつは俺なんかを最高の魔術師だって――……」
握った手紙がまたくしゃりと音を立てる。
彼女にとって上崎結城は自らを救ってくれた英雄だ。その前提があるから、彼女は上崎を疑わない。『最高の魔術師』なんて尊敬すら抱く。
――どれもこれも、全部まやかしだと言うのに。
『なのに、何かを返すどころか、思い出しても思い出しても、私の中は先輩にもらったものばかりなんです。初めて会ったときからそうでした。私はただ恩返しがしたかったのに、気づいたときにはもう、先輩に惹かれていたんです。――きっと私は、ただ先輩といるのが楽しくて楽しくて仕方なかったんです』
綴られた言葉が、胸を抉る。
『素直に好きだって伝えるのに、いつだって先輩ははぐらかしてしまって。でも照れて頬を紅くするのに、とても満たされて』
『先輩に触れられるのが嬉しくて、わざとからかってつねられたりして。少し怒ったみたいな先輩の顔は私にしか見せてくれない特別のような気がして、とても愛おしくて』
『会えない日は不安でいっぱいで、会える日は幸福に満ちていて。――まだ出会ってほんのひと月くらいなのに、毎日がきらきらと輝いて思えるんです。あれほどの返せないほどのものをもらっておきながら、私はいまだに、先輩からたくさんのものをもらっていたんです』
大きく空いた穴を満たすように。
そして同時に、その穴を蝕むように。
そこにあったたくさんの六花の言葉が、上崎の渇望を押し広げていく。
『だから、もし私が先輩をかばって消えてしまったのだとしても、先輩はどうかご自分を責めないでください。私はようやく、たくさんの返し切れない恩を返せたのだと、きっと喜んでいるはずですから』
「ふざけるなよ……っ。何もかも間違ってんだよ!!」
それ以上はもう駄目だった。上崎にはそれを認められなかった。
「お前の命を救ったのは俺じゃない! 俺の意志なんかなかったんだから!!」
上崎は雪山でこの天界に訪れた。だから、病院に運ばれた時にはすでに死体だったわけだ。上崎の両親がその姿に何を思ったかは知らないが、上崎の意志をその身体から汲み取ろうとした結果だったとしたら、少なくともそれは間違いだ。もう上崎の魂はそこになかった。
別に、自分の身体を使われたことを何とも思わない。それは今の上崎には何一つとして関係がないことだから。
ただ。
「俺はお前を救ってなんかいない。お前を救ったのはただの死体で、俺の両親で、その病院の医者だ。なのに、なんで、だよ……っ」
ずるずると、力が抜けていく。
どうしようもない重さがあった。
鉛の滝に打たれたみたいにずしりと上崎の全身にのしかかり、嗚咽すら漏らさぬように押し潰していく。
「なのになんで、お前が助けたのは俺なんだ……っ」
勘定が合わない。
六花はこれを恩返しだと言った。だけど、そもそもそんな恩はどこにもない。
勝手に返されたその途方もない重さに、上崎の心がひしゃげていく。
そして、その残された手紙はどこまでも残酷に最後を締めくくる。
『ありがとうございました。私を救ってくれて。返し切れない恩と伝え切れない感謝を残して消えてしまったことを、心の底から申しわけなく思っています』
「違う、違うんだよ……っ。謝る必要なんかどこにもないんだよ……っ」
どれだけ叫んだって、どれだけ吠えたって、上崎の言葉が六花に届くことはもうない。
手紙には最後にたった一行だけの便箋があった。
すがるように、上崎はそれをめくる。
そして、息を呑んだ。
『願わくは、この手紙を私の手で捨てなければいけない日が来ませんように』
最後の最後まで、彼女は上崎結城のことを想っていた。
自分のことなんか二の次で、何よりもまず上崎が優先で、上崎の為なら何だってして、彼女は上崎の傍にずっといる。
何があっても、彼女だけは上崎を見捨てない。
いい歳して、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、誰もいない虚空に希うように地面に額を擦りつけるこの哀れな様を見たって、きっと彼女は笑って認めてくれるのだろう。
「あ、ぁ…………っ」
願って、しまった。
もう一度会いたいと。
その声を聞きたいと。
その優しさに触れたいと。
そんなことは、もう叶わないと知っているのに。
「――ぁぁぁぁあああああああああああああああ!!」
絶叫した。
拳を握り、ぐしゃぐしゃになった六花からの手紙さえ放り捨てて、上崎結城は飛び出した。
廊下を抜けて、玄関を破るみたいに蹴飛ばして、ただ地面を蹴った。雨が全身を叩く。靴の中にまで雨水がぐっしょりと染み込んで、それでも上崎は走り続けた。
目指す場所なんてなかった。ただ、あの場にいては呑み込まれると思った。
上崎はまた逃げたのだ。
ディザスターから逃げ出しておいて、その上で、水凪六花の魂が消えたという事実からさえ。ただ駄々をこねるみたいに、逃げて逃げて逃げ切ろうとした。
肺が痛かった。喉が裂けそうだった。
足は何度も絡まって転んだ。車に撥ねられそうにだってなっただろうし、人と何度ぶつかったかも分からない。
それでも、足を止めることはできなかった。
そうすれば追いつかれてしまうから。
だからがむしゃらに走った。
どこまでも、どこまでも遠くに行きたかった。
だが。
気づけば、上崎は足を止めていた。
「あ、ぁ……」
眼前の光景に、今度の今度こそ、絶望した。
瓦礫の山があった。
人気なんかなかった。ただ、手向けのように置かれた無数の花束が、そこで起きた出来事の凄惨さを物語っていた。
「なんで、だよ……」
それはコンサートホールだったもの。
水凪六花がディザスターに呑まれた、その場所だ。
「なんでだよ!!」
逃げ切れると思った。心の中から悲しみを追いやって逃げ惑っていれば、いつか忘れられるんじゃないかと、そう思った。
なのに、最後の最後で追いつかれた。
水凪六花は消滅した。
その事実が、上崎結城の胸を穿つ。
「なんで、あいつが消えなきゃいけなかった……っ」
すがりつくみたいに、瓦礫の山を前にひざまずいた。降りしきる雨の冷たさに全身を打たれ、氷のように固まっていく。
欠けてしまっている。
元々欠けていた二人だ。それが合わさって、どうにか一人前になったように見せていただけ。片方が消えた時点で、もう片方だって崩れていく。
――仕方ないだろ。みんなそうやって乗り越えるんだ。死んでも、消えても、それでも大切な人の記憶には残るんだよ。
知ったかぶって吐いた自分の言葉を思い返して、それがあまりに腐臭に満ちていて、どうしようもないくらい吐き気がした。
残ったから何なんだ。
何にもならない。
何にもならないけれど、それには価値があることだったと言い聞かせて、心にかさぶたを張って、二度と触れないようにしているだけだ。そうしないと人は生きていけないから。どこかで折り合いをつけない限り、心が死んでしまうから。
それをまるで美談のように、さも正義のように語るなんて、どうしようもなく間違っている。
上崎に北条を糾弾する権利などなかったのだ。
本当に大切な者を失った絶望を知らない上崎の言葉は、何の意味もなかったのだ。
だから。
あのときの北条愛歌の言葉が、ようやくのように上崎に響く。
――救う手段はあるけれど、それを捨てて墓石の前にでもひざまずけって? そんなの偽善だ。救えるのにそれをしないだなんて、絶対に間違ってる。
その通りだと、上崎は思った。
何をしてでも救いたい。
なんだって構わない。
ただ彼女を救うことさえできるのなら。
――そんな上崎の胸の中心で、何かがきらめいた。
「……これは……」
その胸にある力は、名前のない曖昧なものでは決してない。
あの日、上崎結城は北条愛歌の邪魔をした。北条が用意した『時間操作』の術式を、上崎は自身のオルタアーツの『吸収』という性質を持って体内に取り込んだ。
そしてそれは、未だに放出していない。新たなエネルギーも吸収していない今、それは純度を保ち、何の改変を受けることもなく上崎の中で眠っている。
この力があれば、過去を改竄することだってできるだろう。
「……馬鹿げてる」
よぎった思考を、自らを、上崎は嘲笑するようにそう言った。
――かつて上崎はそれを真っ向から否定した。過去を変えるなど間違っていると、上崎結城自身がそう断じた。
――過去へ飛んだところで待ち受けているのは魔神そのものだ。立ち向かう意思すら奪われ逃げた結果が今のこの様だというのに、上崎にできることなどあるはずがない。
だけど。
それでも。
「……助けたい……っ」
悲嘆を知った。
無力を知った。
絶望を知った。
けれど、あらゆる感情が死に絶えていく中で、まだ、そこには残っていた。
最後の最後で、その感情が真っ暗な闇を切り裂くように、鋭く噴き出してくる。
ちっぽけな道義を砕いてでも、ありきたりな挫折を踏み倒してでも、上崎はそれを欲した。
そんな些細なものと引き換えにできるほど、彼女の魂は決して安くなどないのだと。
「六花を助けたいんだよ、俺は!!」
鉛の空へ、上崎はそう叫ぶ。
結局、それが答えだった。
だから上崎結城は立ち上がるのだ。
善悪など初めから関係ない。可否など今さらどうだっていい。そんな不確かなものの為に上崎が戦ったことなど、一度だってありはしない。
上崎が戦うのは、いつだって決まっていて――水凪六花の信頼に応える為だ。
ならばもう、嘆く必要など何もない。
悩むことなど何一つとして残っていない。
「あぁ、だから――っ」
白藍色の結界が生じる。
頬を打つ雨が断たれ、きらきらと光だけが降り注ぐ。
上崎の身体をその光が包み、やがて漆黒の剣と為す。
意識だけとなった身体で真っ黒い剣と化した己に触れ、上崎結城は吠える。
『見せてやるよ。お前の言ったとおり、俺は、カテゴリー5だって討伐できる、最高の魔術師なんだってな!!』
いつも、何度だって、水凪六花が言ってくれたその言葉を繰り返し、
世界は暗転した。




