第三章 もう一度 -1-
――雨音がする。
真っ暗な部屋の片隅で、上崎結城は無言のままに膝を抱えていた。
あれから何をどうしたのか、上崎は覚えていない。三日を超えた辺りで日付を数えるのもやめていた。
ただ自分はこうして助かった。
水凪六花を犠牲にして。
「――っ……」
自分という存在が、どうしようもなく気持ち悪い。
たった一人の大切な人も守れないどころか、彼女に救われて永らえた。このちっぽけな魂を彼女の代わりに捧げられたらと思ったところで、そんなことも許されはしない。
「――ぅぁぁ……っ」
見殺しにした上崎に彼女の消滅を悼む権利などなく、惰弱な彼はディザスターへ怨嗟を向ける気概さえ根から折られた。
嫌忌も悲哀も憎悪も、何もかもの感情が封殺された。
ただうずくまり、額を床にこすりつけて、狂ったみたいに、壊れたみたいに、泣き声とも雄叫びともつかない唸り声を漏らす以外になかった。
ゆっくりと、毒に浸されたみたいに心が死んでいくのが分かる。
螺旋を巡るように、同じ感情、思考を繰り返しているようで、しかし静かに、その果てに沈んでいくのを感じる。
どこかで上崎はそれを受け入れていた。あるいは、喜びさえあった。
心が死ねば、感情が消えれば、もうこんな苦痛を感じなくて済む。どれだけ息を吸っても肺腑が動かないこの泥のような暗闇の奥底で、上崎結城という人格が消え失せてしまうその瞬間だけが、今の彼の希望ですらあった。
頬を伝う涙が枯れるまで。
喉から漏れる嗚咽が嗄れるまで。
ただじっと、その時を待った。
――なのに。
「……上崎くん」
大人の女性の声がした。
暗く閉ざされていた部屋に、切り取ったみたいな四角い光が差した。
その奥に立っていたのは、一人の女性だ。
少女みたいに幼い顔つきの、しかしそれでも上崎や、そして水凪六花の担任であった白浜優子だ。
「……辛いとは思うけれど、きちんと話をしなきゃいけないの。――あなたは、あのディザスターを前にして生き残った人だから」
その言葉は必死に選んでくれたものなのだと思う。
だけどもう分かっているのだ。彼女が本当は何を言いたいのか。
――あなただけが、ディザスターを前にして唯一生き残った人だから。
それが正解だと分かっているから、心臓が潰されるみたいに痛んだ。あの場から逃げおおせたのが自分だけで、水凪六花は消え去ったのだと、そんな事実をナイフにして抉られているような気分だった。
「ディザスターは三日三晩暴れて消失しました。あのコンサートから一週間。その悪逆の限りを尽くした所業に人は深く傷ついています。けれど、あなたが見た情報があれば、次にディザスターを倒せる可能性があればみんな――」
「倒して、どうなるんだよ……っ!!」
かすれた声しか出なかった。もしかしたら、一週間もの間、本当に一言だって発していなかったかもしれない。
けれどそれでも、そう叫ばずにはいられなかった。ぐちゃぐちゃのその感情は、もう上崎のちっぽけな身体に収まるような量をとっくに超えていたから、
「みんながどうなるっていうんだ。何にも変わりはしねぇんだよ!! それとも、倒したら六花が返ってくるのかよ。あぁ、それならいいさ。いくらだって教えてやる。何時間でも何日でも、ぶっ通しで今すぐ教えてやるよ、さぁ何が聞きたい!? ディザスターを呼び出したあの馬鹿なアイドル気取りの話か!? それとも左腕を食われてぼたぼた血を流す六花の姿か!?」
吠えるしかなかった。怒っているのか悲しんでいるのかさえもう自分では判断できなくて、けれど頬を伝う涙だけは止まらなくて、上崎はすがりつくように白浜の胸倉を掴んだ。
それとも、と勝手に口が動いた。
「大事な人を囮にして逃げ出したどうしようもないクズのことか……っ?」
心が押し潰されていく。
ゆっくりと、確実に何かがひしゃげていく。
なのに、少しずつ死んでいけると思ったのに、暴れるように湧き上がる言葉が止まらない。消えかけた蝋燭が最後に燃え盛るように、その言葉もきっとそんな最後の感情の灯だった。
「返してくれよ……っ。六花をさ。返してくれって。それだけ、それだけでいいんだ……」
ずるずると力が抜けて、彼女の足元で懇願するようにひざまずいていた。
「何だってするよ。あぁ本当に、あいつが帰って来てくれるなら何だってするから……」
失うまで気づかなかった。
彼女がどれほど大切だったかなんて。
彼女の好意を適当にあしらってきた日々が、どうしようもなく愚かに思えた。もっと大事にしていれば、もっと素直になっていれば、きっと、今頃こんな後悔はなかったのかもしれない。そんな馬鹿みたいな妄想が、とめどなく続いていく。
だから、言ってはいけないと分かっているのに、そんな言葉が衝いて出る。
「――代わりに俺が消えればよかったんだ」
乾いた音があった。
痺れたように頬が痙攣している。酷く冷たくなっていた身体の中で、そこだけが燃えるような熱を帯びていた。
見れば。
白浜の後ろから、一人の少女が手を伸ばしていた。
目を真っ赤に腫らしていて、この短い間に随分やつれてしまっているように見えた。
秋原佐奈だった。
「ふざけんじゃ、ないわよ」
そこで初めて上崎は、彼女に頬をぶたれたのだと気づいた。
「六花が魂を賭けて守ったのがあんたなのよ。そのあんたが、なんでそんなふうに自分を否定しようとしてるの!?」
「――じゃあ、肯定しろって言うのかよ。こんな俺でも立派だったって。六花が救ってくれたからそんな価値があるんだって。――無理だよ。価値なんかない……っ!!」
駄目だ、と思った。
こんなこと言いたくなんてなかった。こんなどす黒い感情は絶対に表へ出していいものじゃない。そう分かっているのに、どうしたってもう止まってくれなかった。
「こんな剣になってしまって、俺は本当に魔術師の道を諦めようとしてたんだ。だけど、それでも、あいつだけは俺を認めてくれたから。『カテゴリー5だって討伐できる』っていうあいつの信頼に応えることだけの為に、俺は戦い続けるって誓った。――それが蓋を開けてみればこの様だ」
ふつふつと、何かが込み上げてくる。
それは、笑みだった。
口角が上がるのが抑えられない。痙攣したみたいに、嗚咽が笑いに変わっていく。
もうきっと、上崎は狂っていたのだろう。
「目の前にディザスターが現れて、俺は逃げることしか考えられなかった。六花の言葉に応えたいだなんて言っておきながら、いざ目の前にしたら恐怖で足がすくんだ。あいつはそんな俺を見限ることもせず助けてくれたんだ。自分を囮にしてな」
威勢ばかりよくて夢見がちでそのくせ臆病で――そして、ひどく卑劣だった。
「そのとき俺が何をしてたと思う? 笑えよ、逃げたんだ。あの絶望の前から俺は涙を振り撒いて、ガキみたいにがむしゃらに走って、ただただ逃げたんだよ!! あの場に六花を置き去りにしておいて、六花のことなんか少しも考えずに、無様に逃げ出したんだ!!」
そんな人間に、何を悲しむ権利がある。――そもそも上崎がいなければ、水凪六花は消えることさえなかったのに。
そんなことが分かっているのに、上崎は閉じこもった。
同情を誘っていたのだ。
あれは仕方がなかった。事故みたいなものだ。お前は悪くない。そんな言葉を期待して、上崎は傷ついた振りをして、哀れな被害者を気取っているだけだ。
醜悪だ。
醜くて醜くて、吐き気が止まらない。
「そんな俺の何に価値があるって言うんだよ。ねぇよ、何一つ! ――あぁ、だから、何度だって言ってやるよ。俺が、代わりに、消えればよかったんだ!!」
上崎の言葉に佐奈が触発されたみたいに右手を振り上げる。――だが、彼女は決してそれを振り抜かなかった。
目一杯力をためて、けれどそれを振るわずにだらりと降ろした。
「そんなこと、言わないでよ……」
ただ一言、そうこぼして佐奈は走り去っていく。そんな彼女の背が、いやに上崎の瞼の裏に張りついた。
「……ごめんなさい。私も無神経だった。仕事とは言え、やっぱりまだあなたの傷に触れるべきじゃなかった」
「……分かってるなら、放っておいてくれよ……」
膝立ちの状態でずるずると壁に背を預け、上崎は座り込む。また泥の底へと沈んでいくように、弾けた心が萎んでいく。
「――……だから、最後の仕事ね」
彼女はジャケットの内ポケットから何かを取り出した。
それは、真っ白い封筒だった。
*
上崎の部屋から飛び出したところで、佐奈はこぼれ出る涙が抑え切れなくなった。
本当は、あんなことを言いたかったわけじゃなかった。
ただ塞ぎ込んでしまった上崎を叱咤したかっただけなのに。もし六花が見ていたら泣いてしまうような醜態を晒してほしくなかっただけなのに。
なのに、いざ彼を前にしたら自分の感情が止められなかった。
「――嫌な役目だったな」
上崎の部屋のすぐ傍で、壁に背を預けた兄の姿があった。立ち尽くす佐奈の頭をぐいっと寄せて、彼は胸に抱きとめた。
「……あいつ、さ」
涙をぼろぼろとこぼしながら、もうこの一週間でとうに泣き疲れているのに、それでも振り絞るみたいに、佐奈は言った。
「ずっと、ずっとよ? ずっと自分を責めてるの。ディザスターから逃げ出したことで、あいつ、後悔と自責に押し潰されちゃってるの。――あんなの、見ていられないじゃない……」
ディザスター、カテゴリー5を前に、一介の学生にそれ以外の何が出来ると言うのか。
そもそもプロの魔術師だって戦いにすらならない。だから今回のディザスターは三日三晩暴れ続けていた。消えたのはただあの化け物が力尽きたからで、誰も討伐しようとしなかった。それが当たり前なのだ。
なのに、彼はそれを認めなかった。
「他人に責任を押しつけたってよかった。絶対にその方が楽なのに。そんな逃避くらいしたっていいのに。あいつはそれをしないの……っ」
「……あぁ。知ってるよ」
佑介は彼女を抱きしめたまま、そう優しく答えた。
――それは佐奈だって同じだろうと、そう思っているから。
彼女が熱を出さなければ、チケットを譲ったりしなければ、あの中で六花がディザスターに襲われることなどなかった。
そのことを彼女はずっと悔いている。毎日毎日枕も袖も濡らして、身体が枯れ果ててしまうのではないかというくらいに泣き喚いている姿を、佑介は知っている。
「……でも、ここじゃ終わらない。こんな絶望で終わるほど、あの子が恋い焦がれてたあいつは弱くない」
佑介は優しくほほえんで、そう断言した。
「あいつはいつだって、そうやって立ち上がってたんだから」
それはまるで願望のようで。
佑介の言葉は、雨音を掻き消すように冷えた廊下に木霊した。




