終章 決別
「――えぇ。久しぶりですね」
そんな穏やかなメゾソプラノの声に、上崎ははっと我に返る。
灰色の薄暗い、窓一つない空間だった。――その場所が拘置所の面会室であったことを、上崎はゆっくりと思い出す。走馬灯のように駆け巡った過去の記憶との乖離に、軽い酩酊感にも似た酔いを自覚して、かぶりを振った。
目の前には、アクリル板越しに一人の女性がいる。――つけネクタイだけが没収されているくらいで、トレードマークの赤縁の眼鏡だって普段どおりだった。
幼い頃に食堂で向かい合ってた頃と何も変わらない笑顔で、立里京香がそこに座っていた。
「どうかしましたか、結城くん」
ほんの一瞬のうちに長い長い記憶を垣間見た上崎は、胸にわだかまる思いを、唾と共に喉を鳴らして飲み下す。
「……なんでもないよ」
――今日ここへ訪れたのは、彼女へ罵詈を吐き捨てるためでも、泣いて憎悪をぶちまけるためでもない。
逮捕されて三ヶ月、彼女はじきに刑事裁判にかけられる。被害の規模を鑑みれば、無罪はもちろん執行猶予もつかないだろう。未決拘禁者と受刑者では扱いが異なる。彼女が収監されれば、他人である上崎に面会が認められることはないはずだ。
だからこれは、最初で最後の決別だ。
「……カテゴリー5のディザスター、討伐したよ」
はじめに言うことは決めていた。
その報告に、京香は穏やかな笑みを浮かべる。
「はい、新聞で読みましたよ。名前は載っていませんでしたが、結城くんのことだというのはすぐ分かりました。お姉ちゃんも鼻が高いです」
そんな穏やかな声に、上崎は鼻の奥がツンとするのを感じた。
幼い頃は、そんな風に褒められることが嬉しかった。
がんばったとを認めてもらって、よくやったねと頭を撫でてもらって、それで満足げにふんと鼻息を荒くして、また褒めてもらおうといっそうの努力を積んだ。
そんな日々は、もうきっと来ない。
彼女の今の言葉さえ、上崎の鼓膜を滑るだけで何も心に響かなかった。
そのことがどうしようもなく悲しくて、上崎は目を伏せる。もう彼女と自分が交わることはない。その事実を改めて認識するだけだったから。
――だから。
「…………あの日のこと、覚えてるか?」
そう話を切り出す。それを彼女と最後に交わす会話にすると心に決めていた。
「あの日というのは? ――なんて、少し意地悪でしたね。三ヶ月前の日ですよね」
少し惚けて見せた彼女は、しかし上崎の冷ややかな瞳に肩をすくめ、素直に上崎の言わんとしていることを当ててみせる。
「忘れるわけがないじゃないですか。――だって」
そう言って、彼女は恍惚の表情を浮かべて続けた。
「あの場にはクイーンがいたって言うのに」
あるいは歓喜に震えたその言葉に、上崎は静かに息を吐く。
今さら驚くことはない。それは上崎もまた理解していたことだから。
――三ヶ月前のあの日。
上崎と六花が、京香の氷城祭壇により作られた『七つの矢』を迎撃した、その最後。
突如として八本目の矢が現れたのだ。
しかし、氷城祭壇は追加で発動できるような術式ではない。祭壇を通して結界内の人間からエネルギーを簒奪し、その上で『増幅』によってカテゴリー5にも比肩する威力にまで昇華させなければならないのだ。五分かかるというその時間が、途端にゼロになるはずもない。
だからそれは、あの氷城祭壇とはまったく別のところで生み出されたもの。
カテゴリー5を再現した一撃と同質であるのなら、カテゴリー5そのものによって生み出されたと考えるのが当然の帰結だろう。
「……京香さんも、あれがクイーンの一撃だって認めるんだな」
「えぇもちろんです。――実際、私は直接その攻撃を受けていますからね。他の誰かならともかく、私がクイーンの攻撃を違えることだけはあり得ませんよ」
その断言に、上崎は満足そうに頷く。それに京香は少しだけ怪訝そうな目を向けていた。
「……それが、どうかしたんですか?」
「いいや。あれがクイーンの一撃で間違いないって言うんなら、俺も確信したよ」
そう言って上崎は笑みを浮かべた。
その不敵な笑みは、どこまでも少年らしいものだ。
「俺ならクイーンを殺すことが出来るって」
その結論に、京香の瞳から温度が消える。
凍えた空気が、アクリル越しに上崎たちの足下をひたひたと侵す。
「……たしかに、結城くんにはカテゴリー5を殺せるだけの性能を与えています。そうでなければ献上品にはなり得ないですから。――けれど、それはあくまで理論の話です」
透明な板に阻まれながら、それでも彼女の双眸は上崎を射貫く。けれど、上崎はそんな彼女を笑い飛ばした。
「京香さんにとって、クイーンは完璧な存在なんだろう。じゃなきゃそんなに執着することもなかったんだろうし」
「……誰にとっても、あれは完全で完璧な存在です。欠けているところなんてなにもない」
しかしその言葉は、どこか空々しい。
――あるいは。
クイーンは完璧でなければいけないと、心の奥底で自らを脅迫しているのか。
そうでなければ、彼女の犠牲にした数多の意味が消失するから。
「……別に、言い合う気でここに来たわけじゃないんだ」
そう言いながら、上崎は安っぽいパイプ椅子を引いて立ち上がる。傍でただ立っていた白浜が「もういいの?」と問いかけてくれるのに、上崎は首肯した。
そして背中越しに上崎は京香へ告げる。
「あんたからクイーンへの執着を剥ぎ取って、絶対にシン兄へ謝ってもらう」
その声は、決して語気は強くないのに、びりびりと辺りを震わせた。
「クイーンは必ず討つよ。――俺と、六花の二人で」
そうして、彼は部屋を出る。
京香の「……楽しみにしていますよ」という酷く冷ややかな言葉を最後に、上崎は後ろ手に扉を閉ざした。
これにて第3部「クイーン・トリビュート」編完結です!!
ストック投稿しているのですが、それが尽きてしまったのでまたしばらく休載させていただきます。
また第4部でお会いしましょう!