第四章 よすが -9-
――六花の繰り出す神速の剣閃を、意識もない貴族然とした魔獣は難なく躱す。
凍てついた地面を踏み締めさらに攻め立てる六花だが、そのことごとくをカテゴリー4:グレイスローヴは躱し、どころか彼の足下から生み出された氷の波濤が六花へと襲いかかる。
蓮の花のように幾重にも折り重なりながら迫る氷壁に、六花は大きく後退を強いられる。――剣の間合いから遠ざかってしまえば、また振り出しだ。
「……っ」
時間がないという焦りは確かにあった。だがそれを差し引いてもなお、実力差に開きがありすぎる。
元より核に損傷を負った身だ。放っておけば消滅するしかないような有り様の魔獣を、京香のオルタアーツで変異させられて永らえているだけ。先ほど六花が一刀で切り捨てたカテゴリー3もそうだが、京香が使役したことでそのランクはかなり下がっているとみていい。
せいぜいがカテゴリー3の中位ないし上位。その程度であれば、未だ成長を遂げる六花のフィジカルエンチャントで、競り負ける道理はない。
――しかし、だ。
実際には、六花が攻め手を欠いている。
それはひとえに、そのカテゴリー4の四肢も能力も全て、京香が支配しているからだ。
『……っ』
いま上崎たちが戦っている相手は、意識のない魔獣などではない。
かつて上崎が憧れた魔術師としての頭脳と、篠原を討ったカテゴリー4の魔獣の能力を併せ持つ、正真正銘の化け物だ。
敵うなんて考えるのは思い上がりだということは、上崎自身が一番痛感している。
だがそれでも、この場で引くことだけは出来ない。
『止めるぞ、六花……っ』
「はい……っ」
彼我の実力差など関係ない。ただ守るべきものを守るために、二人の少年少女は眼前の絶望を打ち払う。
その様子に、結晶の城を背に佇む京香は僅かに眉をひそめた。
「理解に苦しみますね。なぜ抵抗をするんでしょう」
迫り来る氷の波濤も降る氷柱の雨も、六花はその手に握った剣一本で斬り伏せる。――だが、どうしたってその物量に競り負ける。
捌ききれなかったそれらの残骸に、彼女の皮膚のあちこちが裂けて血の珠が舞う。
「――人の本能とは何か、考えたことはありますか?」
その問いかけはただ静かに、諦観を促すような声だった。
「いろいろと見解はあると思いますが、突き詰めれば『完全』を追い求める、ということこそが、人の本能だと私は思うんです」
そう語る彼女は、施設にいた頃、宿題を教えてくれたあの日々となんら変わった様子はなくて、それがどうしようもなく上崎には気持ちが悪かった。
「生存本能は、個あるいは種としての『完全性』を求める過程で生じるものでしょう。知的好奇心というものも、世界の理を『完全』に解き明かしたいという欲望の表れです」
そして狂気を宿した双眸は、虚無だけを映している。
ぞくり、と、背筋に凍てついた空気が走る。
「あの日、私は悟ったんですよ。――これこそが『完全』である、と」
――それは、突如現れたカテゴリー5:女王/クイーンと立里京香が対峙した日。
彼女のオルタアーツが歪められると同時、彼女はとうにクイーンへと心酔していたのだ。
「この天界で生まれ落ち、捕食も群れも必要とせず、ただそこにあり続ける完全な生命体。その強さも美しさも何もかもが完成され、余計なものの一つもない。まるで理論値の真球のような、そんなあり得ベからざる完全な存在です」
その姿が、彼女の脳に焼き付いて離れない。
彼の存在を目の当たりにしてしまったが最後、人の本能は理性を容易く圧砕し、その完全性の虜になる。それを求めることこそが人間の身体に宿る本質であるのなら、逃れようなどあるべくもない。
「それを追い求めることは人間のあるべき姿でしょう?」
そんな京香の宣言と同時だった。
荒れ狂う氷の津波はその勢いを増し、降り注ぐ氷柱の雨は嵐となって周囲を蹂躙する。
「――っぁ……ッ!」
六花が痛みに喘ぎ、その物量に押し流される。
ばきばきと氷を砕く耳障りな音は、その奔流の中で六花が抗っている証左であり――そして、その音すら掻き消す莫大な氷柱と津波の破砕音こそが、地獄が六花を飲んでいるという事実を告げていた。
『六花!』
上崎の呼びかけにも、彼女は答えない。ただ、そのいくつもの氷を墓標のように切り捨てた爆心地にいた六花は、息も絶え絶えの様子だった。
迫る氷の攻撃を凌いではいたが捌ききれず、その腕も足も顔も、ズタズタに引き裂かれて血に塗れている。もはや立つことも出来ず、片膝をついたまま地面に上崎の剣を突き刺し、それを杖のようにしてどうにか身体を支える始末だった。
そんな彼女へ、勝利を宣言するように京香は告げる。
「クイーンは完全な存在です。そこに疑う余地なんてない。その姿をもう一度拝みたい。その強さを肌で感じたい。その目に私の姿を止めてほしい。その完全性を追い求めることが、そんなにおかしなことですか?」
その穏やかな声音は、何一つとして上崎の知る頃から変わらない。
立里京香はそれ以外の何もかもが彼女らしいまま、ただ致命的なものが欠落してしまった。
歪んでいて、狂っていて、壊れていて――そしてそれ故に、きっと、何よりも正しい。
――だけど。
「……少しだけ、理解できる気はします」
痛みに喘ぎながら、六花は言う。
「その姿を見たい、少しでもそばに近づきたい。――許されるなら、私だけを見てほしい。そんな感情を私は知っています」
言いながら、彼女はちらりと横を見る。
幽体となって姿など見えるはずもないのに、彼女の双眸は確かに上崎の姿を映しているような気がした。
だけど、と彼女は言う。
「それでも、あなたは間違っている」
ふっと笑みを浮かべながら、彼女はその力を振り絞り、ゆっくりと立ち上がる。
「誰かを傷つけて求めるものに、正しさなんてないんですから」
その言葉に、僅かに京香の表情が揺れたような気がした。――そうあってほしいという、ただの上崎の願望かもしれなかったが。
「戯言ですね。あまりにも中身がなくて逆に驚いてしまいました」
『……あんたが、それを言うのかよ』
そんな彼女の反応に、上崎は呟く。実体がなくてよかったと、今だけは思う。――きっと、どうしようもなく泣きそうな顔をしてしまっていたから。
何のことでしょう? と首を傾げる京香に上崎は続けた。
『自分が求めるもののために、身勝手に他人へ犠牲を強いる。――それは、京香さんが叱ってくれた八つ当たりと何も違わないだろ』
「……なるほど」
上崎の言に、京香は静かに頷く。
「これは一本取られましたね。なるほど、確かにそのとおりです」
ですが、と彼女は言う。
「結城くんもまた、自分のために後輩の女の子に犠牲を強いている身ですよね。正しくないのはお互い様では?」
『……あぁ、そうだよ。京香さんと同じで、俺だって間違ってる。――だから、間違っているだとか正しいだとか、そんなどうだっていいことのために戦ってるわけじゃない』
彼女がどれだけの人を裏切っただとか、これから先どれだけの犠牲を払うのかだとか、そんなことさえどうだっていい。
上崎結城が立ち上がった理由は、いまここで水凪六花が戦ってくれる理由は、そんな上っ面のことではなく――……
『俺を信じてくれる人の言葉を、嘘にしないために戦うんだ』
その上崎の信頼を力に変えて、水凪六花は地面に突き刺さった剣を抜き払う。
とうに満身創痍だというのに、ただ溢れんばかりの笑みだけをたたえていた。地面を蹴り付け、一足で彼女はカテゴリー4との間合いを詰める。
「……っまったく、どこにそんな力が残っていたんですか?」
振り抜かれる数多の剣閃を、グレイスローヴは氷柱を握り防いでみせる。
耳をつんざくような金属音が響き続ける、激しい剣戟の嵐。その合間を縫うようにグレイスローヴの足下から氷の波が巻き起こり、六花は予備動作で察知し即座に離脱。波濤は彼女の影すら捉えられず虚空を飲んだ。
「せっかく結城くんの能力を封じるために、電撃を使わずに氷の操作だけに終始しているというのに、それでもここまでやりますか」
乱立する氷の城壁を蹴り付け、水凪六花は文字通りの縦横無尽に疾駆する。その速さは疲労で衰えるどころか、一歩を踏み出すごと、あるいは、その踏み込むまでの動作の間にすら、加速し続けていた。
――だが、六花が攻めあぐねていることに変わりはない。
『時間が……っ』
猶予の五分はもうほとんど残っていない。鉛の空の下で輝く青い光点は、もはや恒星のように眩い輝きを放っている。
しかし上崎の剣で戦いを強いられる彼女には、逆転の手などない。カテゴリー5すら討伐できる能力の基点は『吸収』であり、その元になった篠原と同様に、物理攻撃を相手には発動できないのだから。
今の上崎は、その重さで彼女を縛り付けるだけの枷でしかない。
「大丈夫です」
けれど、六花は笑みすら浮かべて断言する。
「だって、もう届きますから」
迫り来る無数の津波を回避しながら、彼女は大きく間合いを取り直す。上崎の剣を構えていては、その間合いを詰める時間はない。
――だから。
「すみません、先に謝りますね」
言って、十メートル以上離れた位置で、六花は構える。――それはまるで、弓を引き絞るかのようであった。
何かを言う間断さえなく、彼女はそのまま漆黒の剣を投擲した。
空気を割り、その刃は一直線にカテゴリー4の頭蓋へ迫る。――彼女自身が振るうより、その速度は確かに速い。
「けれど、悪手ですね」
その単調な攻撃では、意思のない魔獣ならともかく、京香に支配されているグレイスローヴを相手には通用しない。
軽々と、首を捻るだけでその刺突は回避され――……
「えぇ。あなたが、ですけどね」
その言葉は、魔獣の耳元で。
「――ッ!?」
京香が目を剥くが、もう遅い。
避けられた上崎の剣を空中で掴み、六花はそのまま振り抜いた。
一閃、であった。
漆黒の剣閃は、何に阻まれることもなく、魔獣の頭蓋を斬り飛ばしてみせた。
ぼろぼろと、その身体は黒い灰となって崩れていく。――核を完全に破壊された以上、その魔獣はもう存在できない。
上崎と六花の勝利だった。
『……そうか、俺の重さがネックだったから』
「はい。投げて先に魔獣に迫ってもらえれば、私一人なら氷の生成より早く動けますから肉薄できます。投擲も私が直接振るより速度を出せるので、そうなれば絶対に防御や打ち返されずに回避されると踏んでのことです」
それでも賭けではありましたが、と言いながらも、六花は照れたように笑みを浮かべていた。
五分の制限を受けながらも上崎と六花は魔獣を討伐した。もうじきに、周囲の氷城祭壇は解けカテゴリー5を再現したという術式も――……
『ま、て』
そこで気づく。気づいてしまう。
空に浮かぶ光点は、今なお煌々と輝いていることに。
何も、終わってなどいない。
この街を軽々と消し去るだけの一撃は、今もまだ――……