第四章 よすが -8-
白く、白く、六花の吐いた息が霧散する。
実体のない上崎にはその冷たささえ鈍くしか感じ取れないが、それでも、一帯を覆い尽くした氷の城が、周囲の温度を奪い去っていることなど明白だった。
それこそが、彼の魔獣の能力に他ならない。
――カテゴリー4を使役できないと言った彼女の言葉は、正確ではない。知性があると抵抗されると彼女は言ったのだ。つまり、意識を失った魔獣であればその支配の対象と出来る。
篠原三善との戦闘で核に損傷を負い消滅寸前だったその魔獣は、彼女のオルタアーツによる支配を受けることとなった。
ただそれだけのこと。
それだけのこと、なのに。
『……ふざ、けんな……っ』
唸るような声が漏れる。
『シン兄を消滅させた魔獣を、あんたは……っ!!』
これが冒涜でないというのであれば、何だというのか。
何より、幼馴染みであった彼を消滅に追いやった魔獣を、なぜ平然と従えることが出来るのか。もはや上崎には理解できない。したくもない。
だが、京香はきょとんと首を傾げるだけだ。
「それが何か関係あるんですか?」
その言葉に、いよいよ上崎は絶句した。
いま目の前に立つ女性の姿が揺らいだような錯覚さえある。もはや彼女が正しく立里京香であるのかさえ疑わしい。
「カテゴリー4、固有名はグレイスローヴというらしいですが。この魔獣の能力は非常に便利でしたから」
『……何を、言って……』
「進貢ですよ」
ただ短くそう告げて、彼女は笑顔を取り戻す。
「何も私一人が貢ぎ物を作っていたわけではありません。カテゴリー4ともなれば他者の邪魔をしながら、自分だけの貢ぎ物を用意していました。私の貢ぎ物ほどではないですが、それが思いのほか有用だったので拝借しました」
その言葉と同時だった。
ぶわり、と。
吹雪が舞う。思わず六花が左腕で顔を庇っているほど、強い一陣の風だった。
――ごく狭い編纂結界の中では、風など生じるはずもないのに。
『なん、だ……』
その声は、しかし疑問にはならない。――それは意識せずとも、その答えを理解できてしまったから。
上崎が展開した周囲の結界との繋がりが、気づけば途切れていた。――それはすなわち、編纂結界を立里京香に上書きされたことを指す。
だが結界の界面がまるで見えない。上書きして権利を奪い返そうにも、どれほどの広さがあるのかさえ認識できなかった。
「無駄ですよ」
そんな上崎の焦りを理解して、立里京香はくすりと笑う。
「およそ一辺が五キロメートルほどの巨大な結界です。上書きは諦めた方がいいですよ」
『……っ』
それはつまりこの街一つを結界の中に飲み込んだことを意味する。焦点を起点に結界を展開する以上、おそらくは一人で展開できる結界としては限界にも近い大きさだ。――だが、それは虚言などではないだろう。壁面が見えないことも、風が吹くことも、それだけの広さがあれば説明がついてしまう。
――だが、何よりも恐ろしいのは。
それほどの広さの結界を必要としたという、その事実そのものだ。
上崎がそこに思い至ると同時、世界が裏返る。
そびえ立った氷の城が膨れ上がり、周囲の建物を飲み込みながらその摩天楼が急激に拡大していく。
――それは、まさしく氷の都市そのもの。
巨大な一つの城を戴き、その周囲一帯はすべからく氷の城壁に取り囲まれた、荘厳で、しかし酷く冷たい城塞都市。そこに立つだけでさえ、凍てつき取り込まれそうになる。
真っ白な冷気に包まれた世界は、異様なほどに静かだった。
「氷城祭壇、という術式だそうです」
その城を背に、立里京香は言う。その言葉に、その寒さからかあるいは怯えからか、震える指をごまかすように柄を硬く握り込んだ六花が問う。
「祭壇、ですか……?」
「そうです。祭壇、つまりは供物を捧げる場所ですよ」
ぞっとした。
わざわざ編纂結界を拡張し、なおも捧げる供物など一つしか考えられないのだから。
『結界の中の人間か……っ』
「さすがは結城くんですね。――とはいえ、流石にその魂を無条件で吸い上げられるような術式は組めません。この氷城祭壇では、個人からはあくまで微々たる量のエネルギーしか得られない。それでも、二〇万人近くの人間から集めれば十分です」
一人当たりはほんの僅かな量でも、数を積み上げればそれは膨大な量となる。それほどのエネルギーを集積して生み出すものに、ろくなものなどあるはずもない。
「何をする気なんですか、あなたは……っ」
怒りも滲んだ震え声の六花に対し、京香は空を指さす。
結界の天井すら見えないほどの高さ。その分厚い鉛の雲を裂くように、まるで星のように瞬く七つの光点があった。
それこそが――……
「クイーンの攻撃の再現ですよ」
京香の言葉に、上崎も六花も目を剥く。クイーン、カテゴリー5の一撃をこの場に召喚すると、彼女はそう宣言したのだから。
――ここ数年でのカテゴリー5の出現報告は二件。
一つは京香がその核に損傷を負った日のことだ。突如現れたクイーンから市民を守るため、選りすぐりの魔術師が百名以上出動し、その大半が消滅した。
二度目は別のカテゴリー5だ。もはやその暴挙を止める手立てもなく、魔獣が満足して消えるまでの三日三晩、魔術師たちは何も出来ず、地図から街が一つ消え失せた。
そんな災禍が再現されれば、いったいどうなるかなど考えるまでもない。
人も物も関係ない。ことごとくが跡形もなく消滅する。
『ふざけんな……っ』
ぎり、と、歯を食いしばって上崎が唸る。いま身体がないことをこれほど歯痒く思うこともなかった。もし手があれば、今すぐにでも京香へ掴みかかっていただろう。
『俺を手に入れるって話じゃなかったのかよ……っ』
「えぇ、そうですよ。――安心してください。結城くんのスペックであればクイーンを再現した攻撃であっても問題なく吸収できます。それを操る水凪さんは蒸発するでしょうけれど」
それは、狂気の末に彼女の手で上崎の剣が生み出されたが故に。
彼女は誰よりも、あるいは水凪六花よりも上崎のことを信頼している。彼の剣であれば必ず耐え抜くことを立里京香は確信している。
だからこそ、それ以外の全てを破壊し、唯一残る上崎を手中に収めようというのだ。
『狂ってるよ……っ』
「効率的と言ってほしいところですね。――まぁ水凪さんが消滅する前に、この街そのものが消えてしまうということもあり得ますけれど」
そんな些細なことはいいですよね、と、微笑みを浮かべる京香に、いよいよ上崎は目眩がするほどの恐怖と憤怒を覚えた。――自身の魂を歪められたときですら感じたことのないほどの、いっそ憎悪にも近い感情が滾っている。
「発動まではおよそ五分かかる、というのがこの術式の難点なんですけれど、問題はありませんね」
それは、破滅を告げるカウントダウンだ。
この五分の間に、この氷城祭壇を生み出したカテゴリー4――グレイスローヴを消滅させなければ、何もかもが消失する。
今からでは他の魔術師の応援など間に合うはずもない。術式が発動する前にグレイスローヴを討伐できるのは、上崎結城と水凪六花の二人だけだ。
『ふざけやがって……っ』
もはや言葉を交わす時間すら惜しく、漆黒の剣を握りしめた六花は地面を蹴った。