第四章 よすが -7-
周囲は激しい戦闘の影響で瓦礫の山と化していた。壁も天井も砕け散り、もはや見る影もない。降りしきる雨が直接身体を冷たく打つ。
「――心配してたのに、そんな口が利けるなら大丈夫だな」
そんな灰色の世界で、血だらけの親友の姿を見ながら、上崎はいつものように軽口を言って「立てるか」と彼へ手を差し伸べた。
編纂結界の外に排出されたため、ハルバードのない右手でその手を取り、ふらふらとした足取りでどうにか佑介は立ち上がる。
「病院、一人で行けるか」
そんな上崎の心配も佑介は「ガキ扱いすんな」と笑い飛ばしていた。共に戦う、とは口にしない辺り、彼も自分の怪我の具合はよく理解しているのだろう。
踵を返し引きずるように歩き出そうとして、その直前に背中越しに佑介は問う。
「……結城、どうするんだ?」
「なんとかするよ」
「そうか」
そんな言葉だけで十分だった。もう力なんて残ってないくせに、佑介は上崎の背を叩いて送り出して、そのままひらひらと手を振ってこの場を後にする。
「ったく……」
そんな親友の激励に背中をさすりながらも、そこに伝わった熱を噛みしめるように、拳へ握り込んだ。
――そして。
「……ずるいです」
そんな二人のやりとりを間近で見ていた六花は、むぅと頬を膨らませていた。
「なにがだよ……」
「言葉なんてなくても十分みたいな信頼関係が、です」
「馬鹿なこと言ってる場合じゃないから」
六花の額を小突き、上崎はため息をこぼす。
結界の薄い壁の向こうには、いつもどおりの笑みをたたえた京香の姿がある。
何も変わらない。
家族のように愛していたはずの上崎の魂を歪め、あまつさえ、篠原三善まで消滅に追いやったというのに。
何一つとして変化しない。
その貼り付けたような笑みが、どうしようもなく不気味で、おぞましい。
気づけば、指先は凍えたように震え出していた。
「……大丈夫です」
そんな上崎の左手を、六花はそっと握る。人差し指にはめた銀の指輪型の起動装具が、きらりと光りを返したような気がした。
「……そうだな」
握られた手から伝わる温もりで、悴むような凍えは溶けて消えた。だから、感謝と共に笑顔を浮かべて上崎は前を見据える。
「行こう」
そんな上崎の言葉に「はい」と六花は応じる。
一歩を踏み出すと同時、結界を上書きする。上崎と六花の身体は、その薄藍色の壁に仕切られた空間へと躍り出た。
身を打つ雨は結界に遮断されたというのに、春先とは思えない凍えた空気に満ちていた。それがただの錯覚でしかないと知りながら、それでも、上崎はその肌を刺すような痛みに僅かに顔をしかめる。
「……おや。逃げるんじゃなかったんですね」
結界へと入った上崎を見た京香の顔は、どこか嬉々としているようにも映った。
いま彼が抱くあらゆる感情をこの女は理解していない。ただクイーンの献上品が舞い戻ってきたのだと、そう認識しているのだ。
脳裏によぎる、彼女と過ごした数多の記憶。
それがもう京香の中には失われてしまったのだと、そう突きつけられているかのようで、上崎は静かに唇を噛んだ。
けれど、もうそんなかつての幻影に縋ってはいられないから。
「……六花」
「大丈夫です」
何も言わずとも、彼女はたった一言で応じてくれる。
――その言葉に、上崎結城は救われた。
きっと彼女は理解していない。
あの子供のような理屈が、どれだけ彼の心を癒やしてくれたか。もう立ち直れないと思った上崎が、それでも前を向けるのは、彼女のその言葉があったからだ。
だから。
その言葉を嘘にしないためなら、上崎は自分の魂だって賭けられる。
「俺の魂、全部お前に預ける」
「任されました」
たったそれだけで十分だった。あるいは、そんな少女らしい笑顔に、上崎はとっくにほだされていたのかもしれない。
目を閉じ、ジェネレートを発動する。
もはや抗うこともなく、その体は光に包まれ解けていく。
上崎結城と世界の境界が薄れ、その全身はただの糸と化す。――やがてそれはまた撚り集まり、人の身体とは違う別の形を成していく。
現れたのは、黒い、黒い剣だった。
黒曜石のような、透き通る漆黒の刃があった。まるで一つの石を切り出して作ったかのような、ナックルガードも柄も変わらない、無骨で、けれどいっそ美しくもある闇色の剣。
薄く、薄く、透き通るほどに鋭利な刃が煌めくと同時、宙を浮いていたその剣は、重々しい音を立てて地面へと突き刺さった。
その剣へ、六花は手を伸ばす。
ざり、と刃が突き刺さったコンクリートを削る音があった。
高々と掲げられた闇色の剣が、薄藍色の光を裂く。
「……驚きました」
その光景に、京香はただ目を丸くしていた。その声音は嘘偽りない感嘆に満ちている。
「結城くんの剣は魂のほとんどを変換していますから、それだけの重量があるはずなんですよ。意識や五感を切り離したり多少の減衰もありますが、それでも四〇キロ程度にはなる設計です。それをまさか、人の手で扱える子がいるなんて」
そもそもがクイーンに捧ぐ為のものだ。ただカテゴリー5を屠るだけの性能があるという事実さえあれば、実用性などどうだっていい。そんな思想の元に歪められたオルタアーツが上崎結城だ。
「先輩の命の重さに比べれば、これくらいは重い内にも入りませんよ」
そんな風に彼女は笑い、その切っ先を突きつけるように顔の高さで水平に構えた。
まるでその重さを感じさせない彼女の所作に、京香は満足そうな笑みを浮かべて頷く。
「なら、そのまま試し切りに付き合ってもらいましょうか」
京香が深紅の剣を指揮棒のように振ると同時だった。
灰色の毛皮をまとう人狼が、その分厚くも鋭い爪を振り上げながら、六花へめがけて一直線に疾駆する。
瞬間、甲高い金属音が響く。
肌もない上崎の幽体さえ、びりびりと痺れるような轟音があった。
「――すみません、先輩。痛くないですか?」
迫る人狼の爪牙を、六花は上崎の剣の腹で正面から受け止めていた。ダンプカーが衝突したと言われた方がまだしも現実味のある衝撃の中で、踏み締められた彼女の足は一ミリも下がっていない。
『俺の心配してる場合かよ』
「問題ありませんよ」
攻撃を防がれた人狼は、苛立ちを咆哮に変える。その獣らしい本能に突き動かされた行動を、六花はいっそ憐憫すら込めて見ていた。
「もう終わりますから」
とん、と。
軽く地面を蹴った彼女は、気づけば人狼の背後に立っていた。
「――ッ!?」
驚愕する京香の眼前で、狼の頭蓋から真っ黒な血液が噴き出した。
すれ違いざま、あの刹那で彼女は魔獣の核を刺し貫いていたのだ。――重量四〇キロはある剣を振り回して、だ。
並大抵のフィジカルで出来る芸当ではない。全盛期の上崎はもちろん、きっと京香にも出来やしないだろう。しかし六花にとっては、それは造作もないことだった。
彼女が魔術師を目指したのはたった一年前。それから体験会に応募したとしても、せいぜい五回も参加できるかどうか。その少ない経験の中で、彼女はカテゴリー3と素手で渡り合うだけの実力を手に入れているのだ。
彼女へ真に恐れるべきは、フィジカルエンチャントの才能などではない。
その類い希な成長速度こそ、水凪六花の真骨頂だ。
「次は、そのわんちゃんが相手でいいですか?」
核を砕かれ全身が真っ黒な灰となって崩れて消えゆく人狼の背で、六花はその切っ先を金色のたてがみに向けて構えていた。
「――では、趣向を替えましょうか」
カツン、と京香が深紅の剣で地面を鳴らす。
同時。
双頭の獅子が顎を開いた。その喉奥から、灼熱の業火が垣間見える。
「こういうのはいかがでしょう?」
京香が笑みを投げかけると共に、さながら火炎放射のように、二つの砲門から紅蓮の業火が撃ち放たれた。
周囲の音さえ燃やし尽くす熱量を前に、回避も防御も意味はないだろう。身体強化術式しか持たない六花では対処できない。
――だが。
『避けなくていい』
そう優しく告げられ、六花の顔からは迷いも不安も吹き飛んでいた。
その言葉に従うように、彼女は上崎の剣を正眼に構える。
迫る紅い魔の手が瞬く間に彼女の身体を飲み込もうとし――消えた。
いや、それは消滅ではなく――吸収だ。
『……こういうことか』
燃え盛る熱の奔流を身体のうちに感じながら、上崎は笑う。
その身を駆け巡る熱こそが、京香に植え付けられた、篠原と同じ能力の証。
『……吸収、貯蔵』
まるで暴風にさらわれるかのように、灼熱の業火は黒き刃へと吸い込まれていく。双頭の金獅子は負けじと業火を吐き出し続けるが、その全ては闇に飲まれていくだけだ。
『増幅、性質反転』
ついぞ獅子の放つ炎は燃料が切れたかのように途切れる。その全てを身体の内に溜め込んだ上崎の中で、膨大な熱量はさらに膨れ上がりながら、その性質をプラスからマイナスへと変貌させていく。
――工程はクリアした。後は、最後に一つだけ。
上崎に植え付けられた魔神すら殺す力が、猛り狂うように、禍々しい輝きとなって現れる。
「終わりにしましょう」
六花がその場から動かず、横一文字に漆黒の剣を一閃する。
――放出。
瞬間、漆黒の刃の刃先から、群青の炎が解き放たれる。
それは軌道を描くように、三日月形の斬撃となって、双頭の魔獣を飲み込んだ。
静かなひと太刀。それだけで、元は魔獣の放った灼熱の業火は当の魔獣を襲っていた。
断末魔も上がらない。灰すら残さず、ただその頭蓋だけが消失していた。
首から血を流すことも出来ないまま、金色の毛皮がどしゃりと地面に沈み、ぼろぼろと崩れて空気へ溶けていく。
「……は、は」
その光景を目の当たりにした京香から声が漏れる。
それは、何かに堪えきれなくなった彼女の笑い声だった。
「はは、はははは! すごい、さすがですね! これは素晴らしいです!!」
たった一刀。それだけで、上崎と六花はそれぞれのカテゴリー3を討伐して見せた。その能力を作ったからこそ、京香は歓喜に打ち震えていた。
カテゴリー5を殺す武器として、クイーンへ献上する。そのために数多の犠牲を払って生み出したそれが完成していることに、彼女は狂喜しているのだ。
『……っ』
一撃で魔獣を屠った充足感など抱く間もなく、そのおぞましさに上崎の背筋が凍る。
自身が使役した魔獣が一撃で屠られていることなど、もはや彼女は気にも留めていない。その意識から、クイーン以外の一切が欠落している。
「――それでは」
そう言って。
彼女は狂ったように笑みを浮かべたまま、無造作に左手を差し出した。
「そろそろ返してもらえますか? その剣はクイーンのものです」
「違いますよ。先輩は私のものです」
『……いや、誰のものでもないけどね?』
そんな上崎の茶々にむっと頬を膨らませながら、六花はその剣を構え直す。
しかし。
その軽々しく放たれた戯言に、京香の表情から笑みが消える。ただただ温度の消え失せた双眸が、六花の瞳を射貫く。
「まったく。誰も彼も、それを自分のものだ何だとふざけるにしても限度があります。――あまり私を怒らせないように」
周囲に侍らせた魔獣はなく、自らはフィジカルエンチャントを使えないというハンデを抱えながら、しかし彼女の放つ圧力に、上崎は思わず足がすくんだ。
もしも傍に六花がいなければ膝を折っていたかもしれないと、そう思わせるほどの得体の知れない何かがそこにはあった。
その気味悪さを拭うように、上崎は宣告する。
『……京香さんが何を考えてるのかは知らない。だけど、もうあんたに駒はないだろ。大人しく投降してくれよ』
「おや。結城くんは優しいですね」
そう言いながら、しかし京香は深紅の剣を高く振りかざす。その切り裂くような輝きに、上崎はぞっと震えた。
「けれど、駒ならありますよ」
瞬間。
上崎たちの視界は、真っ白な世界に塗り潰された。
『――ッ!?』
現れたのは、全てが透明な結晶で形作られた城と城壁。
その光景に息を飲んだ。
一面の銀の城を、上崎たちはたった二日前にも目撃しているのだから。
――カツ、と。
凍えたコンクリートの床を革靴で打ち鳴らすような、そんな乾いた音が響く。
ゆらり、と立つ影があった。
長身痩躯の男の影。仰々しい礼服と漆黒のコートは、あちこちがすり切れてみすぼらしい。
鋭い牙をたたえた口には力がなく、だらだらとよだれをこぼしている。黒と赤の瞳は焦点を結ばず、ただごろごろと転がるように辺りを見ているだけ。
そして、何よりも。
凍土のように青白い髪の下、その頭蓋。
それが、三分の一は欠けたように落ちくぼんでいて、それをごまかすようにぼろぼろの包帯が乱暴にあてがわれていた。
それは。
かつて篠原三善を消滅に追いやった、魔獣の末路だった。