第四章 よすが -5-
――正直なことを言えば、六花は彼の言葉を全て正しく理解できたとは思えなかった。
そもそも断片的な情報だけだ。魂を作り替えられただとか、カテゴリー5を討伐できるだとか、献上品だとか、何がなんだか分からないことだらけだ。
けれど、それでも分かることはある。
たとえば、いま彼がどれほど打ちのめされているか、とか。
「……、」
今すぐにでも抱きしめて慰めてあげられれば、どれだけいいか。それでもその衝動を抑えて、六花は自分の腕を抱く。
家族同然に愛していた篠原三善が消滅し、同じく、本物の姉のように慕っていた立里京香に裏切られた。その痛みなどもはや彼にしか分かるまい。分かります、なんて訳知り顔で共感しようとするなど、そんな厚顔無恥な真似は六花には出来ない。
きっとそれだけでも、六花が上崎の立場であったなら立ち直れなかっただろう。
それなのに、彼は唯一抱いた夢さえ奪われた。
魔術師にとってそのオルタアーツはアイデンティティにも等しいものだ。それを他者に歪められ、どころか市民を守るためにと磨いた技術が魔獣の贄にされるなど、どれほどの非道な仕打ちか。
もうその心は傷だらけで、とても見ていられない。
これ以上、彼が傷つく姿なんて見たくない。
「……先輩」
優しく、甘い声が漏れる。
――六花は、今の彼を立ち直らせることのできる、魔法の言葉を知っている。
この鼓動はあなたが現世で残してくれたおかげで動いていたんです、と。
きっとその事実だけで十分だ。
上崎結城が現世に残してきた母親が認めたように、あなたは英雄だったのだと、そう告げれば、きっと彼はそれを支えに出来る。
裏切られた家族の代わりに、もうきっとおぼろげな記憶しか残っていない本物の家族の幻影を胸に抱き、その幻が見せる期待に答えようと彼は縋りつくだろう。
それだけで、きっと彼は立ち上がれる。
ぼろぼろになった心に付けられた百孔千瘡の傷を取り繕うように埋めて、また自分の――水凪六花の英雄になってくれる。
――だけど。
「大丈夫です」
――だけど。
「先輩なら大丈夫」
――だけど、それは嫌だった。
ずるい、と自分でも思う。
それでも嫌だったのだ。
水凪六花の憧れた上崎結城は、そんな風に、何かに縋り付かないと立ち上がることも出来ないような、そんな人ではなかったから。
「何が、大丈夫なんだよ……っ。もう俺にはまともな魔術なんて使えない、それどころか人ですらない、ただの剣だって言うのに……っ」
「いいえ、先輩」
いまにも泣き出しそうなぐしゃぐしゃな顔で吐かれる彼の弱音を、水凪六花は否定する。
「先輩が言ったんですよ。カテゴリー5を討伐できる力を植え付けられた、って。――なら、それだけは誇っていいはずなんです。だってそれだけの力を与えられたのなら、それは他のどんな魔術師よりも優れた、最高の魔術師だってことじゃないですか」
「そんなの、そんなのただのごまかしだ……。だって、核も含めて全身を剣にするんだぞ。それじゃもう戦えないじゃないか。どんな力を持ってたって関係ない。そんな強さに何の意味があるんだよ……っ」
そう言って、彼は膝を抱えてうずくまってしまう。自分の殻に閉じこもって、いま目の前の辛い現実から逃れようとしている。それはきっと人として正しくて、そうでもしなければ耐えられないのかもしれない。
けれどそれでも六花は一歩踏み込んで、彼の頬に触れ、その顔を無理に上げさせた。
「先輩がご自分を信じられないのは分かります。今まで信じたもの全部に裏切られたんです。その辛さは私なんかにはきっと分かってあげられない」
精一杯、いま胸に抱く自分の思いを伝えるために、涙に濡れた彼の瞳をまっすぐに見つめた。
「私は、先輩が強いことを知っています」
その言葉に、輝きを失っていた彼の瞳は微かに揺れた。
「去年、まだ東霞高校に入学もしていない先輩が、たった一人でカテゴリー3に立ち向かってくれたこと。自分も怖くて震えてたのに、それを押し殺して、後ろに守った私たちを安心させようと笑いかけてくれたこと。――私は絶対に忘れません」
「そ、れは……」
「土曜日のこともそうです。先輩は前みたいに魔術が使えなくなっていたのに、それでも一切躊躇わずに、私たちを守るために渦中に飛び込んでくれました」
六花の言葉に、彼は何か反論しようとする。だけど、口は空回りするばかりで、それは言葉にならない。
「先輩はいつだって、勝てるから戦っていたわけじゃないじゃないですか。――たとえどんな困難な相手でも、誰かを守るために自分の身の危険も厭わずに立ち向かう。そんな先輩の強さに、私は憧れているんです」
だから、と六花は続ける。
「私の憧れを、殺さないでください」
そのまっすぐで射貫くような言葉を受けて、上崎の顔が悲痛に歪んだ。
本当に残酷なことを言っていると、六花自身も理解している。
彼が抱いた憧憬が何もかも砕け散ったというのに、それでも、自分の抱いた憧れだけは守ってくれ、だなんて、あまりにも自分勝手だろう。
けれど、彼自身があらゆる憧れを奪われたいまだからこそ、それを否定することは、きっと彼には出来ない。
誰よりもその辛さを知っているから、ただただ苦しく痛ましく顔を歪めながら、わななく唇を引き結んで、言葉を飲み込んでくれている。
ひたむきな少年だと思う。
彼のその健気さが、優しさが、食い物にされて終えるだなんてことだけは間違っている。
だから、せめて。
「……これは私のわがままなんです」
――本当に、ずるいと自分でも思う。
何にも縋らず立っていてほしいと思いながら、自分だけは頼ってほしいと願うから。
本当にずるくて、わがままで――だけど、それでも。
「私を、信じてくれませんか」
六花の言葉に、彼の瞳がまた揺れる。しかしその眼の奥に、失われていた輝きが僅かに灯ったようにも見えた。
だから、いまはそれでも十分だ。
「もう誰かを信じることだって怖いと思います。けれど、どうか最後に一度だけ、その信頼を私に預けてはもらえませんか」
「なに、を……」
「その信頼さえもらえるのなら、私は他に何も要りません。先輩の大切な思いに、私は私の魂に懸けて必ず応えます。――私の手で、先輩が誰よりも強いっていうことを証明します」
そう言って、六花は温かな笑みをたたえて、うずくまる彼へ手を差し伸べる。
上崎はその手に、怯えるように震えながら、それでも応えようと手を上げてくれる。
「大丈夫です」
だって、とそう言いながら、六花は待ちきれず上崎が応えようとしていた手を先に取って、ぎゅっと握りしめた。
冷たくなった指先に、彼女の温度が伝播する。
「先輩は、カテゴリー5さえ討伐できる最高の魔術師なんですから」