第四章 よすが -4-
「……ひとまず、ここならすぐには見つからないと思います」
ほとんど一人で抱えるようにして六花に連れられて、上崎はホールの傍の倉庫に匿われる。どさりと座り込んだ上崎は、そのまま膝を抱えてうずくまった。
逃げる間に雨に打たれた身体は冷え切って、もはや温度を失っている。なのに、指先は震えもしない。
濡れて張り付いた服の冷たさも、コンクリートの床の堅さもあまりにリアルで、夢だと思い込もうとする惰弱な上崎に現実を突きつけてくる。
「事情は分かりませんが、立里さんが何かを企んでいるんですよね……? 街のあちこちに魔獣が出現していたようですし、ここもずっと安全とはいかないかもしれません」
どうしましょうか、と問いかける六花の言葉さえ無視して、上崎はただうつむいたまま、雨粒が垂れて変色したコンクリートを呆然と見つめる。
気づけば、凍えた指先は胸に下げたネックレスへと伸びていた。
今まで何度となく、そうして縋ってきたように。
――それが、京香から贈られたものだということも忘れて。
「……嘘だって、言ってくれよ」
まさか、と思った。
とっくに上崎の心の柱なんて砕けているのに、それでも、上崎はまだそれを事実だと認められなかった。
爪が割れることも気にしないで、上崎は力ずくでその小さな板状のネックレストップをこじ開ける。
中には編纂結界を展開するのに必要な術式が幾重にも刻印された、どこか時計の歯車にも似た宝石があって。
そして。
その周りには、明らかに後から手を加えたような、見慣れない紅い魔法陣が乱暴に貼り付けられていた。
「……そう、か」
何かを仰ぐように、上崎は倉庫の壁に背を預ける。
身体強化術式や武具生成術式とは異なり、他者の魂にすら干渉する空間変革術式を使用するには、魔法陣や詠唱での術式の拡張が必要になる。
そしてこの起動装具は彼女に贈られてから、片時も離さず身につけていたもの。
だから。
この刻印を施すことが出来た者は、立里京香の他にいない。
何もかもを夢だと思いたかった。なのに、周りのあらゆるものが無情にも、事実だけを突きつけてくる。
「……俺は、もう……」
魔術師の才能を失っただけではなかった。
その魂は形すら忘れ、もはや人間のそれではなく、ただの剣に成り果てた。
「先輩……?」
茫然自失の上崎の顔を、六花はうかがうようにそっと覗く。
「……悪い、六花」
その顔から目を逸らし上崎は言う。
「俺の、せいなんだ」
こぼすようなその独白に、意味なんてない。それは彼女に向けての謝罪などではなく、ただ己の無知と惰弱を糾弾するものだったから。
「先輩、何を言って――……」
「お前がゴーレム型の魔獣に襲われたのも。シン兄が消されたのも。全部、俺が傍にいたからだった……っ。俺がいなければ、みんな傷つかずに済んだんだよ……っ」
「先輩、落ち着いてください。――たとえそれが誰かに仕組まれたものだとしても、それが先輩のせいになんてならないです」
「じゃあ、誰のせいだって言うんだ……っ」
立里がどんな計画を企てていようとも、上崎だけはそれを破綻させることが出来たはずだった。彼女の無謀なあらゆる計画は、すべからく上崎の才能に依存していたのだから。
もしも上崎がもっと無能であったのなら、献上品にすらならず、彼女の計画は始まることもなかった。
もしも上崎がもっと優秀であったのなら、たとえ献上品になろうとも、六花や篠原を傷つけさせずに済ませることが出来たはずだ。
だから、上崎のせいだ。
たとえ他の誰がどんな言葉で慰められようと、上崎自身が自分の無力を悪だとした。それは数ある側面の一つでしかないとしても、しかし否定だけは出来ない事実でもあるのだから。
「俺はもう、戦えないよ……」
そんな資格がない。
そもそも、そんな力もない。
あるのはただ、魔獣に捧げるために形作られた綺麗で歪な身体だけ。
中身なんて何もない、空っぽで、空虚な伽藍の堂だ。
「――なぁ、どうしたらいい……?」
六花からの問いすら忘れて、上崎はそんな声を漏らす。涙なのか雨粒なのかさえ分からない雫で滲む視界の中で、その声だけを震わせないように必死で強がった。
「オルタアーツが使えなくなるだけなら、まだよかった。なのになんで、俺は足掻いてたんだろうな。……もう俺の魂全部、とっくに人間じゃなくなってたのに」
「……なん、ですか……?」
「京香さんがクイーンに献上するために、俺の魂を全部作り替えてたんだ。カテゴリー5を討伐できるなんて適当な言葉を並べて、そんな能力を植え付けられて、俺の魂はもう人の形も保てない……っ」
ぶち、と細い鎖を引きちぎり、上崎はネックレスを放り投げた。からからとその壊れたトップが転がり、中の石は付け足された刻印諸共に砕け散る。
この起動装具に刻まれた刻印が彼女のオーバーライドの基点だった。上崎がオルタアーツの不調を感じ、必死に練習をしようと編纂結界を張れば張った分だけ、彼女の施した術式が遠隔で発動し、上崎の魂を歪めていった訳だ。
そうして彼の魂は、魔神に捧げる供物となった。
ただの剣だ。
頭の先から爪の先まで一片も残さず、上崎の魂は全て神殺しの献上品。
夢を抱いた理由も。
叶えるための努力も。
新たに前を向くための身体さえ。
そこにはもう、何一つとして残ってはいない。
「なぁ、教えてくれよ……」
ついぞ声が震える。
支えになるものも、愛した家族も、何もかもを失って。
目をどれだけ瞬かせても、泥の中にいるみたいに、光の一つも見えやしない。
「俺は、どうしたらいい……っ?」
灰色の世界でただ上崎は、彼を慕ってくれた少女の足に嗚咽を噛み殺して縋りついた。