第四章 よすが -2-
静寂が夜の帳のように周囲を飲み込んでいた
雨粒が窓を叩く音さえ、薄藍色の結界に阻まれて届かない。
聞こえるのは、眼前に立った立里京香の浅い呼吸の音と――狂ったように暴れ回る、自分の鼓動の音だけ。
「……何を、言って――……」
「おかしいとは、思いませんでしたか?」
その蕩けるような声音で、彼女は言う。
「あんなにも優秀だった結城くんのオルタアーツが、自分の意思でコントロールできなくなっていたことを」
「――ッ!?」
その言葉は、駄目だと思った。
上崎には、その事実を認めることだけは出来ない。それだけは許してはいけない。
――だって。
「私のオルタアーツ、覚えていますか?」
上崎の胸に這わせていた指を離し、彼女はくるりと踊るように後退する。
その手には、いつの間にか紅い剣が握られていた。
まるで血のように紅い、柘榴石の剣だった。
ガーネットの原石を切り出したかのように、少しくすんだような真っ赤な石で切っ先から柄尻までが形取られた、両刃の直剣。
有する能力は『解析』と『形質変化』の二つ。
切りつけた魔獣の体表からその組成を解析し、まるでウィルスに対するワクチンのように、その構成を最も効率的に破壊できるよう刀身を変化させる。――二の太刀要らずとはいかないんです、なんて笑いながら、彼女のそれはふた太刀でいかなる魔獣も両断せしめる、そんな必殺の刃だった。
知っているとも。
忘れるはずがない。
美しさも強さも内包したその輝きに、上崎は魅了されたのだ。
彼女の剣こそ、上崎の抱いた憧れの象徴だ。京香のオルタアーツを誰よりも間近で見て、誰よりも深く研究した。彼の漆黒の剣は、彼女のその柘榴石を必死に真似て、作り上げたものなのだから。
「私のフィジカルエンチャントは、クイーンと出会うことの出来た代償に使用できなくなってしまいましたが、それ以外のオルタアーツについては今までどおり使用できます。――では、変わらず座学の優秀な結城くんに問題です」
かん、と、その紅い剣の切っ先で床を突き、彼女は空いた左手で指を三本立てる。
「一般に使用される魔術は二種類。自身の魂に継続的な変化を与え身体能力を強化する身体強化術式と、自身の魂の一部を切り離し武器とする武具生成術式。いずれも自身の魂に作用させる術式ですが、その他にもう一種類あるのです」
指を折りながら説明し、一つ残った人差し指。
それの指す意味を理解して、上崎は絶望と悲痛に顔を歪めた。
「空間変革術式。その他の物質や空間、あるいは他者の魂をも書き換える術式です」
否定のしようなんてなかった。
もうそこには、どうしようもない事実しか残されていない。
「他者の魂の形質さえ変化させる。それが私のオーバーライドです。――もう、理解は出来ましたよね?」
そうして彼女は両腕を広げ、大げさにに天を仰ぐ。
まるでその歓喜を全身で表現するように。
「結城くんのオルタアーツに私は五つの性質を与えました。『吸収』『貯蔵』『増幅』『性質反転』『放出』ですね。――あらゆる攻撃を吸収し、倍加し、性質を反転させた上で放出する。理論上はことごとくの魔獣を屠ることの出来る、まさしく神殺しの剣です」
もう聞きたくない。
耳を塞いでしまいたい。
なのに、そのために動く気力さえ、もはや上崎には残ってなどいなかった。
――だって。
「とはいえ、通常の魔術師で一種、優秀な人でも二種類ですから、五つもの能力を付与するなんて破格です。どうしても魂の一部などでは足りなくなる。――ですので、核まで含めて魂のほとんどをジェネレートする形にさせてもらいました」
あぁ、と。
どうしたってそれを否定する材料が見当たらなくて、上崎は目を落とした。ぼんやりと薄明かりを返すタイルだけが視界を埋める。
「通常の魔術師にとっては致命的な欠陥でしょうけれど、結城くんはクイーンへ献上する品ですからね。結城くん自身で振るう必要なんてありません」
ただそこに、魔神さえ討ち滅ぼせる剣があるという事実があればいい。それだけでも彼女の献上品には意味がある。
そのどこまでも冷え切った理屈に、上崎結城はかぶりを振る。
そうやって子供の駄々のように否定していたら、いつか彼女が「おや、笑うところだったんですが」なんていつものように言って、今までのことが全部嘘になってくれるんじゃないか、なんて。
そんなどうしようもなく壊れた期待だけがあった。
「……笑えないよ、その冗談はさ」
勇気を振り絞って面を上げて、上崎は乾いた笑みを浮かべながらそんな風に縋る。それを見て目を丸くしていた京香は、それからくすりと吹き出す。そんないつものような仕草が、今は、ただただ遠かった。
「冗談なんて言ってませんよ。本当のことですから」
「……うそだよ」
「おや。信じられませんか? 二度も魔獣に襲われたというのに」
その言葉に、上崎は目を剥いた。
必死に必死に見ないように逸らしていたのに、立里強化はその事実を突きつける。
ゴーレム型の魔獣が狙っていたのは、水凪六花ではない。
魔獣が狙っていたのは上崎結城の右方だった。そこにいたのが彼女だからと、上崎は勝手に六花が狙われていたのだと思い込んでしまった。
本当は。
彼の右手、そこに握られていた剣を破壊しようとしていただけなのに。
「まったく、自分たちにはクイーンへ貢げるような優れた献上品を作れないからと、人が作ろうとしているものを壊そうとするとは。獣の思考回路というものは、幼稚に過ぎますね」
呼吸が出来なくなる。
肺が動いているのか分からない。ただ気管の辺りが痙攣するように震えているだけ。
いっそこのまま息も出来ずに気を失って、目が覚めたら全部夢だった、なんて、そんなことがあればいいのに。
――だって。
「結城くんに五つも能力を与えるのは、なかなか苦労したんですよ。とくに『吸収』のメカニズムが難しくてですね。――えぇ、シノの盾である『エネルギー吸収』を間近で見ることが出来たのは、本当に僥倖でした。そういう意味では魔獣の襲撃はありがたくもありましたが。そのおかげでこんなにも早く、私の献上品は完成したんですから」
駄目だった。
その言葉は、あまりにも致命的だった。
どれほど目を逸らしていても、どれほど否定しても、もうその事実は揺らがない。
――だって。
――だって。
――それはつまり。
「ぁ――……」
水凪六花が襲われたのも。
篠原三善が消滅したのも。
何もかも全て、上崎が傍にいたからに他ならないのだから。
「あ、ぁ……っ」
上崎が弱いから篠原が消滅した? 違う。そもそも上崎結城がいなければ、そうなる必要さえなかった。
全ては、上崎結城が存在していたから。
上崎結城がここにいることこそが、全ての元凶だった。
「あぁぁぁああああああ――――…………ッ」
足下が砕けたかのようだった。
崩れ落ち、もはやただ立っていることさえままならない。
いまこうして自分が存在していることが、どうしようもなく気持ち悪い。
胸を掻きむしり、そのまま心臓を握りつぶしたいともがくのに、三角巾に吊るされたままの右手には力もろくに入らなくて、その指先はただシャツの上を滑る。
閉じこもるようにうずくまり、ただ嗚咽を漏らすだけの醜悪な存在になり果てて。
――なのに。
地獄はまだ終わらない。
「さて」
まるで今から夕ご飯の支度をするかのような、そんな気軽なかけ声と共に、京香はぱんと手を叩いた。
「シノのおかげで完成した術式の反映は終わっています。おそらく自覚症状はないと思いますけれど、もう結城くんの身体は献上品として完成しました。――ですので、試し切りをさせてもらいますね」
ぐちゃぐちゃに乱れた上崎の鼓膜に、そんな彼女の声が届く。
微かに顔を上げ、涙でぼやけた視界の端で、それを見た。
黄金色の毛皮をまとった、双頭の獅子がいた。額に戴いた羊のように巻いた角を輝かせ、黒色の翼がばさりと羽ばたく。
筋骨隆々の肉体をたたえた、灰色の人狼がいた。金の瞳がぎらりと光り、口の端からだらだらと唾液を垂れ流す。
それらの背後には、さらに無数の羽音を響かせる蟲の群れが。
大小無数の魔獣の中央に立ち、立里京香は深紅の剣を構えて笑みを浮かべる。
「他者への形質変化を流用すると、こんな風に魔獣を使役することも出来るんです。知性があると抵抗されてしまうので、基本的に人間やカテゴリー4には使えない、というのが難点なんですけれどね」
そうして、彼女は言う。
「さぁ、オルタアーツを発動してください。クイーンすら屠れるように調整したその力を、存分に試させてもらいますから」
瞬間。
「――何してんだ、あんたは!!」
突如響いたのは絶叫にも近い糾弾だった。
それは、上崎結城の唯一無二の親友――秋原佑介のものだった。
嵐のような旋風と共に振り回された槍斧が周囲に湧いた無数の蟲を、セレモニーホールの外壁ごと粉微塵に打ち砕く。
天井も壁も境なく崩壊し、もうもうと砂煙が立ちこめた。魔獣や京香はもちろん、助けに来てくれたのであろう佑介の姿さえ見えなくなる。
ただ、代わりに、座り込んだ上崎の腕を引き上げた人がいた。
「先輩、こっちに」
そう言って動けない上崎を抱え上げたのは、銀色の近いアッシュブロンドの髪をした少女――水凪六花だった。