第二章 絶望の災厄 -1-
カチカチと秒針の音が痛い。少しカビ臭いような本のにおいに満ちた部屋だった。じんじんと痺れた足はそろそろ感覚がなくなってきている。
上崎の隣には水凪六花がいた。同じく正座して、本当に申しわけなさそうに肩をすくめている。心なしか彼女のアッシュブロンドの髪もしんなりとしているように見えた。
生徒指導室だった。
彼らの前には、パイプ椅子に座って足を組み、眉根を寄せた女教師が一人。
座っていても分かる小柄さで、とても若々しい人だった。六花の制服を借りれば今すぐにでも生徒に紛れこめそうなものだが、これで三十路をとうに超えているというのだから、世の中分からないことだらけだ。
去年から続いて上崎の担任になった白浜優子だった。基本は教師も学年ごとに持ち上がるが、彼女の幼さすらある外見が入学したての一年生には向いていると判断されたのだろうか。
「……何度も言ったけれど、何度でも言わなければいけないから言うよ?」
そんな子供みたいな声で、二つ結びにした茶髪を払いながら彼女はもう一度口を開いた。その声に、上崎も六花もびくっと肩を震わせた。
「あなたたちはこの降魔大学付属第二高校の生徒、それも一年生なんだよ。北条愛歌さんのように在学中にプロの資格を得ているわけじゃなくて、あなたたちは無資格。校外でみだりにオルタアーツを使うことは法律に抵触します。もちろん、相応の処分が下るかと思います」
それは、上崎たちだって重々に承知している。たとえそれが人命の懸かる場面であろうと、それで実際に人が助かろうと、『それとこれとは話が別』なのだ。
プロでないということは、力量を認められていないということ。その基準に達していないということだ。立ち回り一つでも失敗すれば民間人をむざむざ傷つけることになるし、実際、六花はその機に乗じて吸血鬼と呼ばれる魔獣に襲われてしまっている始末だ。
一分一秒を惜しむような重傷者がいるからといって、F1レーサーが民間の車で病院へ向かうのに一般道を二百キロで走行していい、とは絶対にならない。
山羊頭の魔獣に傷つけられた一般人が出なかったのは、あくまで結果論でしかない。上崎たちのするべきことが他にあったかもしれないのも事実だ。
だからこうして、上崎も六花も朝から生徒指導室に呼び出されて説教を食らっていた。それに対して不平も不満もない。当然のものだと理解しているから、六花も怯えながらそれを黙って聞いている。
「ただ、人命優先は悪くない考えだよ。そこは間違えないでほしい。魔獣が出現した中で、臆することなく渦中に飛び込んでいったことを、私は無謀と呼びたくない。その正義感っていうのは当然魔術師として必要だしね」
「あ、ありがとうございます……」
「たださ。人命を優先するなら、魔獣を討伐する必要まではなかったよね」
「おっしゃるとおりで……」
「ましてや、それに気を取られるあまり吸血鬼事件にまで巻き込まれる、なんて目に遭っていれば、それはもう『よくがんばりました』って褒めていい話じゃないの」
白浜の指摘に、上崎はぐっと唇を噛むしかなかった。
横に座った六花の方は「て、てへ」などと言ってごまかしているが、その首筋に貼られた痕を隠すためだけの薄手の絆創膏を見て、なおさら上崎の胸がチクリと痛む。
オルタアーツは世界の外側に干渉するため何でもできそうに思うが、編纂結界の中でしか使用できないという制約がある。たとえばオルタアーツで呪いに対し逆探知をかけたくとも、編纂結界の外に対象がいては機能しない。つまり、現状では放置以外に対処のしようがないのだ。
幸い、今回の吸血行為もカテゴリー5のブラッドのように、眷属へと変えるためのものではないらしい。遠隔からエネルギーを奪うという目的は変わらずあるだろうが、現時点ではマーキングのみで簒奪も始まっていない。
身体に不調がないからか、六花はさして気にしていないのだろう。だがそれでも、上崎まで安心していられるか、というと別の話だ。
あの状況で山羊頭の魔獣の元へ行くという決定をし、指示をしたのは上崎だ。
留年するほどに力などないのに、分不相応に対処できると甘く見た。その結果が六花を危険に晒したのだ。
「……上崎くん」
「反省してますよ。これでも、六花も守れなかったことはかなり悔やんでます」
上崎が素直にそう言うと、白浜は「はぁ……」と深いため息をついた。
「確かに、上崎くんの方が年上だから責任を感じているのかも知れないけれど。書類上、あなたと水凪さんは同級生です。あなたに管理責任はないよ」
「でも……」
「水凪さんを大事にするのはいいけれど、もっと自分を省みなさいと、そう言っているの」
白浜がぴしゃりと言う。
「上崎くんのジェネレートは核にまで変化を及ぼすもの。ただ攻撃を受けるだけじゃない。その状態で編纂結界が破壊されたり、術者が意識消失になったりすれば反動が核にまで及んで、最悪、魂が消滅する可能性だってあるんだよ」
白浜の言葉は説教ではあるのに、どこまでも優しさだけがあった。
「怯えて動けなくなることは魔術師としては駄目だよ。でも、自分を軽んじてしまうのはもっと駄目。自分がここで消滅すれば、将来自分が助けられるはずだった命まで消滅するのだと、そういう自覚を持ってください」
はっとさせられた。
自分自身を軽視していることに、上崎は気づいていなかったのだ。それが一〇〇パーセント悪いこととは思わないし、上崎のオルタアーツでは自己愛など邪魔になるだけだ。
それでも、それは人として何かが欠けてしまう。どちらに転んでも駄目になる。だから線引きをきちんとしろと、そう言われている気がした。
「……はい」
上崎がうなずいたのを見て、白浜がパンと手を叩く。
「それと、もう一つ」
「はい?」
「そもそも、今回の魔獣騒動に乗じて吸血されたのは水凪さんだけじゃないでしょう? 今のところ呪いは発動していないものの、昨日のショッピングモールだけで百余名の新規の被害者が出てる。なのになんで、水凪さんだけの心配をしてるのかな?」
「………………、いや、そこに深い意味は何もなくてですね?」
一転して小悪魔な笑みを浮かべる白浜に、上崎はだらだらと冷や汗を流すしかなかった。横で六花が「先輩……っ」ときらきら潤んだ目を向けている気がしないでもないが、気のせいということにして上崎は目を逸らし続ける。
「あー、そう言えば肩が凝っちゃったなぁ?」
そんなある種の修羅場を演出しながら、わざとらしく肩を叩く女教師に対し、上崎は小さくため息をつく。
要するにちょっとした仕返しなのだろう。上崎たちの担任ということで、それなりの事後処理はあったはずだ。時間外労働に金銭が払われるわけでもないブラックな環境では、生徒をからかってのストレス発散とて必要なのかもしれない。
「でも、先生のそういう子供みたいなところ嫌いじゃないですけど、パワハラかつセクハラになるんでやめた方がいいですよ」
「……死んだ後だっていうのに世知辛い世の中だねぇ……。まぁでも、年頃の男の子が女性に触れるのをためらうのも分かるしね。うんうん、仕方ない」
「……先輩?」
「白浜先生の悪い冗談なんだから本気にすんじゃない」
じとっとした目を向ける六花の頭を叩いて、上崎はまた思わずため息をこぼした。ため息をついた回数で幸せが減るのならもうほとんど残っていないだろうな、と、上崎はそんなことを思ってまた一つため息が増えた。




