第四章 よすが -1-
――今でもその衝撃を覚えている。
前衛だけでも五〇人、後衛も入れればその四倍以上の一線級の魔術師を投入した戦線が、その一瞬で崩壊したのだ。
砕けた瓦礫の山、あちこちで上がる火の手に囲まれた地獄の中。
それは、気怠そうな様子で立っていた。
漆黒のドレスに身を包んだ、幼い少女にも似た何か。
けれどそれは人ではない。――否、人であってはならない。
その姿と並び立つことを許される者が、この天界に存在していいはずがないのだから。
「あなた、は……っ」
頭が割れるように痛む。自分の手足さえ思うように動かない。
それでも、彼女――立里京香は手を伸ばそうともがいていた。自分の血で真っ赤に塗れた指先を、少しでも前へ前へと伸ばす。
その存在に、少しでも近づきたくて――……
*
雨が降っていた。
しとしとと、けれど止む様子もないまま、窓の外は鈍色の世界に呑まれている。
それを眺めながら、会食用の色とりどりの料理を前に、三角巾で右腕を吊るした上崎結城は重い息を吐いた。
――その日は、篠原三善の葬儀が執り行われていた。
天界は死後の世界だ。ここで魂の寿命を迎えるか、あるいは核を破壊された魂は消滅する。元より肉体がない以上、弔う身体さえ残らない。
天国も冥界もこの世界を指している。この彼岸で消滅した先などないのだから、現世のように宗教的に送り出すような式は一般的ではない。ただただ故人を偲んで、親しかった者が寄り集まって昔話と共に会食をして、その悲しみを癒やすための場だ。お別れ会、というくくりに近いだろうか。
けれど、その会に出席しても上崎は誰とも会話などしなかった。施設の子供たちがどれだけ篠原が優しく頼れる兄だったかと思い出にふけっている間も、上崎はどこか遠くからそれを眺めていただけだ。
――楽しい兄だったと思う。
面倒見がよくて、しょうもない駄洒落が好きで、施設にいた頃も出た後も、ことあるごとに帰ってきては絡んでうざがられて、けれど、そんな何気ないやりとりが何よりも楽しくて。
――強い兄だったと思う。
誰よりも魔術の才能に秀でていて、けれど傷つけることは嫌いで、もっぱら守る方が向いているからとオルタアーツは盾を選んだのに、京香が重傷を負ってからは、転属して最前線で魔獣を狩り続けるくらい情に厚くて。
思い返しても思い返しても、憧れた気持ちだけが溢れ続ける。
だけど。
だからこそ、上崎にはこの気持ちを他の誰かと共有できない。
嗚咽を漏らして涙を流す彼らに、思い出に浸り前を向こうとする彼らに、上崎が近づく資格なんてないのだ。
――だって。
――篠原三善が消滅したのは、上崎結城が落ちこぼれだったから。
「……っ、」
誰が糾弾したわけでもない。けれどその事実は、確かに自身の手で上崎の胸を穿った。
彼が神童と謳われた頃のままだったなら、篠原一人でカテゴリー4を相手取る必要なんかなかった。
せめて彼がまともなオルタアーツを使えたのなら、逃げる手立てだって残されていたかもしれない。
あらゆる選択肢を奪ったのは、上崎の弱さだ。
足を引っ張ることしか出来ない彼の弱さが、篠原の魂を消滅に追いやった。
「――俺の、せいだ」
誰にも聞こえない声で、それでも上崎は力なく呟く。声に出して認めれば楽になれるような気がして、けれど、浅ましくも楽になろうとしているのだと遅れて気づいて、自分の矮小さに嫌気が差す。
どうしようもない。
救いようがない。
「……っくそ」
噛みしめた歯が突き刺さり、唇から血の味が滲む。元よりほとんど手も付けていないが、左手で持っていた箸を置いて上崎は席を立った。
当てなんてない。――しかし、彼を奪った当事者の上崎が彼らと同じように篠原の消滅を悼むだなんて厚顔無恥な真似を、上崎自身が許せなかった。
ただ無為に、彷徨うように上崎は会場の中を歩く。
雨粒が窓を打つ音と自分の足音だけが静かに木霊して、視界の色彩は次第に薄くなる。
――どれほど歩いていただろうか。
大した広さもない会場だ。同じ通路を行ったり来たりしているうちに、気づけば、エントランスとはまるで反対の非常口にまで来ていた。
そこで、上崎は見かけてしまった。
誰も寄りつかないような非常灯の緑の灯りにだけ照らされた四角い空間に、一人の女性が佇んでいた。
黒い前髪の間に真っ赤な縁の眼鏡が見えた。それだけで、上崎には彼女が誰かなんて分かりきってしまう。――立里京香だ。
なんて声をかければいいかも分からない。だから上崎は、ただ呆然と立ち尽くす。
きっと誰よりも、彼女が最も篠原の消滅に心を痛めている。
幼なじみだった。本当に幼いときからずっと一緒に過ごしていた。上崎たちをはじめ誰に対しても優しい姉を演じてきた彼女が、唯一、年相応に意地悪な一面を見せられる、そんな羨ましいくらいに親しい間柄だった。
魔術師を目指していた頃だって、二人にしか感じられない絆があったはずだ。同世代の中でも群を抜いている才覚を互いに研磨し合い、その切磋琢磨が二人を高みに押し上げていた。在学中にプロの資格を二人共が取得して、新人の魔獣討伐数でレコードを揃って叩き出す、なんて偉業に上崎はただただ尽きることない憧憬を抱いていたくらいだ。
だからこそ、そんな彼女が篠原を喪った悲しみなんて、上崎には想像することすら出来ない。
声をかける気にもなれず、上崎は気づかれないうちにと踵を返そうとする。
けれど。
そうして目を逸らす、その寸前。
上崎の視界は、確かにそれを映してしまっていた。
歯が、見えた。
白い、白い歯だった。
暗闇の中で月明かりを返す、獣の牙にも似た不気味で真っ白な輝き。
誰と話すでもなく一人で佇む彼女の歯が見える理由なんて、一つだけ。
それは。
彼女の口角がつり上がっていたからだ。
「――っ」
異様だった。
肌寒さに満ちた薄暗い空間の中で、一人で隠れるように佇む女が、堪えきれなくなった笑みを浮かべている。かけがえのない幼なじみを失ったはずの彼女と、その光景は整合が取れない。自分の目で見ていることなのにどうしたって現実味がなかった。
誰よりも親しい、家族のような相手を失って浮かべる笑みなど、微塵も理解が出来ない。したくもない。
いっそそれが何かの幻であってくれればよかったのに。
その薄気味悪い人影は、あろうことか、ほんの数メートル先で上崎が立っていることに気づいてしまった。
「……おや。結城くん、こんなところでどうしたんですか?」
いつも通りの優しい彼女の声音だった。それが、今はあまりにも不気味だった。
「京香、さん……」
名前を呼ぶ。その声すら上ずって震えていた。それは雄弁に、京香の狂気を目の当たりにしてしまったのだと告げていた。
だから彼女は、困ったような笑みを浮かべた。
「やっちゃいましたね。どうしても堪えきれなかったとは言え、まさか結城くんに見つかってしまうなんて」
照れたような笑みを浮かべるその姿が、あまりにおぞましくて、上崎はただ恐れを成して後ずさる。
けれど、たった数歩下がったところで、背中はどんと壁に突き当たってしまった。――ついさっきまでまっすぐ歩いていたはずの、何もない廊下だったのに。
「……っ」
薄暗さと、何より彼女のあまりに滑らかな挙動に、上崎は気づけなかった。――既に、この場は彼女の編纂結界に閉じられていたことに。
「どうして、逃げるんですか?」
きょとんと首を傾げながら言うそんな穏やかな言葉が、今はどうしようもなく恐ろしい。なのに、もはや下がることさえ許されない。
「もっと近くで見させてくださいよ。――せっかくシンコウするんです。その前に検めておきたいじゃないですか」
その、言葉に。
上崎はびくりと身体を震わせた。
「……京香さん。いま、なんて……」
「あぁ、シンコウですか? 結城くんにはあまり馴染みがありませんよね。進んで行くでも、進んで侵すでもないですよ。――進んで貢ぐ、という進貢のことです」
すらすらと立て板に流れる水のような彼女の言葉が、上崎の鼓膜を滑る。
理解なんてしたくない。
いっそ異国の言葉であればいい。
そう思うのに。
いつも何度だって聞いた彼女の声は、上崎の耳から染み入るように、彼の身体を冒していく。
「貢ぐって、誰に……」
「決まっているでしょう?」
何を今さらとでも言いたげに、彼女は続ける。
「この世で最も優れた存在、カテゴリー5のクイーンですよ」
うっとりと、いっそ恍惚の表情を浮かべて、京香は語る。
その今まで見たことのない彼女の艶やかな表情に、上崎の指先は小さく震えていた。
「初めてあの方と会ったとき、それはそれは衝撃的でした。この世界にあれほど美しく、あれほど強く、そしてあれほど完璧で欠けたところのない存在がいるのだと。えぇ、だから私は、あの方に近づくために手を尽くしました」
それはまるでのろけ話でもするみたいで。
吐き気を催すほど醜悪だった。
「フィジカルエンチャントが使えなくなってしまいましたが、それで私が戦えなくなったわけではありませんしね。女王派の魔獣を捕まえて尋問する程度は出来ます。――そこで私は進貢のことを知ったのです」
じり、と彼女がにじり寄る。もうとっくに逃げ場なんてないのに、それでも上崎は必死に背中を結界の壁面に押しつけて少しでも遠ざかろうとした。
「カテゴリー5が捕食を必要としないことは知っていますよね? だからあの方たちは人間には滅多なことでは干渉しませんし、ただただ永劫の時を生き続けています。ですがそれではあまりに退屈に過ぎる。だから、彼女は配下の魔獣を集めて貢ぎ物を要求したのです。自らの無聊を慰めるに足る玩具を用意できたものには、最大の寵愛を授けると彼女は約束しました。これが、進貢の正体です」
もう上崎の姿が見えているかさえ分からない。彼女は堪えきれなくなったのか、歓喜に震えながら、堰を切ったように話し続ける。
「私は考えました。派閥の魔獣どころか、人間である私が女王の目に留まるには、それだけの貢ぎ物を用意しなければいけませんからね。――そこで私は、思いついたのです」
そして。
「女王を殺せる武器を生み出すのはどうか、と」
ぞっとした。
もはや常人の思考ではなかった。何もかものたがが外れた、狂った思考の行き着く先。正常と異常の二元からさえ大きく逸脱した、支離滅裂な思考の帰結に、たただた怖気が走った。
いま目の前にいる女性が誰であるのかを、正しく認識できている自信がない。
あの誰にでも優しい姉のような人だった彼女と、いま向かい合った人が同一人物であるなど誰が思えるのだろうか。
「誰にも討伐できなかったカテゴリー5を確実に屠る武器。それを生み出しながら、ただ本人である女王へ捧ぐ。これ以上の忠義を示せる方法があるでしょうか」
「そんなの、どこに……」
「決まっているじゃないですか」
そして。
ついに上崎と京香との間にあった数メートルはなくなり、彼女の指先が上崎の胸に触れた。
「君ですよ、結城くん」