第三章 嘘 -7-
世界が銀に塗り潰される。
辺りは全て白銀の氷壁に囲まれていた。辛うじて残っていた床や壁の残骸さえ、真っ白な氷雪に取り付かれ元の様相を失っている。まるで氷の城の中に迷い込んだかのような、そんな痛烈な違和感だけがあった。
そして、吐く息さえ白に飲まれる世界で、ただ一つ色彩を持つものがあった。
赤い、赤い、赤い色。
どろりとした液体が、水溜まりを作っていく。
それは九年前、死の間際に焼き付いた光景にもどこか似ていて――……
「……うそ、だ」
掠れた呟きだけが漏れる。
ひたひたと。
足下を漂う冷気と共に、絶望が上崎の身体を飲み込んでいく。
「俺に敵うなどと、思い上がりも甚だしい」
ぬちゃり、と。
その血だまりを踏みにじる音があった。同時、パキパキとその鮮血は凍り付いて真っ赤な花に成り果てる。
その花すら踏み砕き、コートをまとった魔獣は上崎へと一瞥を向けた。
「――不敬だな」
その声は、十メートル以上はあったはずの距離を超越し、上崎の耳元から聞こえた。
「――ッ!?」
驚愕に目を剥くが、それより早く。
頭蓋を掴まれ振り回された上崎の身体は、砲丸のように軽々と投げ捨てられた。そう気づいたときには、すでにその背は氷の壁と激突していた。
粉々に砕けた氷の破片が降り注ぐ中、上崎は全身を貫いた衝撃に悶え苦しむ。
六花か京香の悲鳴のような声が聞こえような気もするが、それすら遠い。
――鈍くなった思考が、その痛みの狭間でようやく己の間違いを理解した。
電撃をまとっていたからそれに類する能力を有しているのだと、だから篠原のエネルギー吸収さえあれば単騎でも互角に渡り合えるのだと、そう判断した。――その前提こそが誤りであったのに。
電撃などただの副次的な効果に過ぎなかった。実際は能力で直接電気を生み出すのではなく、能力で生み出した別の物の摩擦で生じた電荷を放出しているだけ。
周囲のこの白銀の世界こそが、この魔獣の本領だ。
「氷を、操る能力か……っ」
血を吐き出しながら、上崎は自身の結論を声に出した。それでどうにかなるとも思っていないくせに。しかし魔獣はそれにわずかな反応も見せなかった。
はじめから、このカテゴリー4は上崎たちに微塵の興味も見せていなかった。――ただ、得体の知れない憎悪だけが向けられているだけで。
「女王の寵愛は俺のものだ。――ただの道具の分際で追い求めようとするな」
意味の通らない言葉だった。だが、それに首を傾げる暇さえなかった。
生み出された氷柱が、頭上から降り注ぎ上崎の右腕を容赦なく刺し貫いたから。
「――あ、がァぁあああ――ッ!?」
絶叫が喉を引き裂く。だが床に縫い付けられた上崎には、その場で転げ回ることすら許されない。ただ標本にされた虫のように、ぴくぴくと痙攣するばかりだ。
「俺のシンコウの邪魔をするなよ、人間」
吐き捨てるような言葉だった。だが真意を問うことすらもはやままならない。
何より、もはや上崎はそんな言葉に耳を傾けてさえいなかった。
――動け。
――動け、動け。
――動け、動け、動け……ッ。
溶けた鉄をねじ込まれたような痛みを発する腕に、口からは血液なのか唾液なのかも分からないものをこぼしながら、それでも上崎は歯を食いしばり、必死に次の行動へ繋げようと抗い続ける。
もはやここに逃げ場はない。取り囲んでいた蟲の群れを排除したが、突如として現れた白銀の城に閉じ込められている以上、この世界を破壊しない限り遁走という選択肢は浮上し得ない。
最大戦力の篠原三善が敗れた。
水凪六花はまだ入学前の子供でしかなく、立里京香はオルタアーツを使えば消えてしまう。この場で彼女たちを守れるのは、上崎結城ただ一人。
落ちこぼれであることなど関係ない。ここで無様に這いつくばっている暇などありはしない。一秒でも早く立ち上がり、一秒でも長く彼女たちの盾となる。それだけがいまの上崎に出来る唯一の貢献だ。
なのに。
意思に反して身体は動いてくれない。ただ無様にもがくだけで、縫い付けられた腕を引き抜くことも敵わない。
「……目障りだな」
いっそ憐憫さえ込められた声が降る。
カテゴリー4の魔獣だ。本気を出せばまともなオルタアーツも使えない上崎など、ただの一撃ですり潰される。――いまこうして地べたで這いずり回ることが許されているのは、この魔獣の気まぐれに過ぎない。
いたぶっているのだ。
上崎結城をただ消滅させるのでは飽き足らず、痛めつけて、わずかでもその苦痛を引き延ばそうとしている。
――だからこそ。
「それ以上は看過できませんね」
ひどく冷ややかな、けれど上崎にはあたたかな声が、鼓膜を震わせた。
見上げれば、上崎をかばうように一人の女性が立っていた。
赤い縁の眼鏡をかけた、誰よりも憧れた人だった。
「……何のつもりだ」
「結城くんを消させはしません」
彼女の手に、燃えるように紅い光が収束する。――そして、やがて一つの形を成す。
透き通るような、赤い赤い石榴石の刀身だった。
まるで巨大な宝石をそのまま切り出したかのように無骨で、けれど洗練されたその意匠。その輝き一つさえ剣閃となって切り裂かれてしまいそうなほど、研ぎ澄まされた鋭さを持つ。
それは、立里京香のオルタアーツだった。
「やめ、ろ……っ。京香さんがオルタアーツを使ったら――っ」
上崎の制止よりも早く、コートの魔獣はその周囲に無数の氷柱を生み出し、まるで矢のように水平に撃ち出した。
――しかし。
「甘いですね」
そんな一言と共に、立里京香は石榴石の剣の一閃でそれらを斬り伏せてみせる。
ばらばらと砕けた氷が彼女の足下に散らばる。――ただの一矢たりとも彼女の肌を傷つけることは敵わなかった。
「この程度の攻撃なら、フィジカルエンチャントを使うまでもありませんよ」
ため息をつく京香に対し、魔獣の眉がぴくりと動く。
「……貴様か」
「何のことでしょう?」
そんな意味のない会話を二人は交わす。
全身に剣山を突き刺すかのような、おぞましい殺気の応酬があった。――実際の攻防はそこにはない。一流の剣術家同士の立ち会いのように、打ち合う前の無限のやり取りが、その呼吸や視線の中で錯綜し合う。
そして、その膠着は長くは続かない。
合図などなく、その静寂は破られる。
氷の弾丸が嵐のように降り注ぎ、それを京香はガーネットの剣で切り伏せる。硝煙弾雨に飛び込んだかのような轟音が響く中、両者は互いに一歩も引くことなくその攻防は延々と続いていく。
「先輩……っ」
その隙を縫うように、六花が背後から上崎に駆け寄る。血まみれで右腕など原形もとどめていない有り様の上崎を見て、彼女が悲鳴を上げる代わりに息を呑む声が聞こえた。
「……今、しか……ッ」
みしり、と。
氷に貫かれた骨が軋む音が、身体の内側を伝って耳骨を震わせる。
もはや飽和しきって処理の追いつかない痛みに視界が明滅する中で、ぶちぶちと肉を引き千切りながら上崎は無理矢理に立ち上がろうとする。
「先輩、何をして――ッ」
「今だけ、なんだ……ッ。あの魔獣の気が京香さんに向いてる今しか、もう俺たちに勝ち目なんてない……ッ」
篠原が落とされた以上、まともにカテゴリー4と渡り合える手札など残っていない。フィジカルエンチャントの使えない京香がその技術と気迫で騙しているだけで、その張りぼてが打ち破られることなど時間の問題だ。
たとえ落ちこぼれだとしても、ジェネレートとフィジカルエンチャント、その双方を扱えるのは上崎だけ。その上崎さえどうにか肉薄さえ出来れば、核を穿つ可能性はまだ残されている。
「……分かり、ました」
何かを飲み込んだ六花は、その手にペーパーナイフのようなジェネレートを生み出す。そして上崎を縫い付けている氷を床から引き剥がすように斬り飛ばした。
「助かる……っ」
一言六花に礼を言って、上崎は震える身体を圧してどうにか起き上がる。霜で床と皮膚が張り付いていて、無理に引き剥がしたせいであちこちが裂けて血が吹き出る。
もはや使い物にならない右手を捨て、上崎は左手でほとんど剣の形を失った棒を握り締める。――しかしこの満身創痍の身体では、十メートル以上はあるカテゴリー4との距離を、気づかれずに詰めるなど不可能だ。
まして、周囲は既に氷柱の嵐に呑まれている。フィジカルエンチャントもなしにそれを捌いている京香が異常なだけで、上崎が飛び込もうものなら一歩も進めずに挽肉にされるだけだ。
「……っ先輩」
六花が腰を落としながら上を指す。――それだけで、上崎は彼女の言わんとしていることを察した。
彼女のフィジカルエンチャントで、上崎を投げ上げようというのだ。頭上は氷柱の弾幕に覆われていないし、何より生物が持つ共通にして絶対の死角。――そこにしか勝機はない。
頷き、上崎が軽く飛び上がる。
さながらチアダンスの要領で二段目のジャンプを六花の手に合わせ、そのまま自身の跳躍と六花からの投げ上げとを合わせて上崎は宙を舞った。
くるりと半回転し、結界の天井に両足を着く。
同時にそれを蹴飛ばし、上崎は頭上からカテゴリー4へと目がけて流星の一閃を――……
バヂィ、と。
そんな音が聞こえた気がした。――瞬間、跳ねるように全身が強張り、そのまま穴の空いた風船みたいにあらゆる力が抜けていく。必死に形を保っていたジェネレートは煙のように消えていく。
きな臭いような嫌な臭いが鼻腔にへばりついている。ちかちかする視界が、ゆっくりと自分が落下しているのだと教えてくれる。
誰かの悲鳴ももはや遠く、上崎の身体はまた無様にも凍り付いた床の上に転がった。
「俺が貴様から目を逸らすはずがないだろう、出来損ない」
その声で、上崎は自身の失策を思い知らされた。
はじめからこのカテゴリー4は京香になど興味を示していなかった。彼女との相手は片手間に、ただ上崎の動向にだけ注視していた。
故に、上崎が死角に回り込むと同時に、氷雪から生み出した雷電によって迎撃したのだ。無数の氷柱による京香との攻防はただのブラフに過ぎない。
どうすれば正解だったのかは分からない。
だが少なくとも、間違っていたことだけは明白で。
「消えろ、女王の寵愛は俺のものだ」
その言葉と同時だった。
「あぁ、消えろ。――お前がだ、カテゴリー4」
倒れた上崎の眼前で、青白い肌の男が同じく叩き伏せられていた。薄緑色の分厚い何かに、頭上から押し潰されている。
「な、に……っ!?」
「あの程度で、俺を消滅させた気になってんなよ……っ」
息も絶え絶えな、しかし力強い笑みの混じった声があった。
その声を上崎が聞き間違えることなどない。
「シン、兄……っ!?」
「悪い、無理させた。――けどおかげで、十分に力は貯められた」
倒れたままの上崎には、彼がどんな様子でカテゴリー4と対峙しているのかなんて分からない。――だが、もはや死に体だったあの状態で、まともに戦えるはずなんてない。
なのに、その声はどこまでも優しくて。
「ぐ、ぬぅ……ッ」
べぎ、みき、と、何が軋んでいるのかさえ分からない不気味な音がする。――だが、結界と障壁に挟まれたカテゴリー4の頭蓋――その内にある核が無事であろうはずもない。
「終わりだ、カテゴリー4……っ」
そう篠原が叫ぶと同時。
べぎり、と。
砕け散ったのは、彼が生み出した編纂結界の方だった。――彼の集中が、最後の最後で耐え切れなかったのだ。
「……ぁ」
薄藍色の壁の残滓が、雪のように降り注ぐ。
上崎の剣も、京香の石榴石の剣も、篠原の黒い十字盾も、あらゆるオルタアーツが霧散し、消えていく。
「く、そ……っ」
毒づいたところでどうにもならなかった。押し潰されその核も半壊していた魔獣は、すぅと姿を消した。――消滅ではない。それは遁走のための幽体化だ。
この深手を負った状態で戦闘を長引かせれば、応援に駆けつけた魔術師に討伐されると忌避したのだろう。至極冷静な判断に、取り逃した篠原はただ歯噛みするしかない。
だが、それでも僥倖だ。
たった四人、それもまともに戦える者もほとんどいない中でカテゴリー4を撃退したのだ。その戦果は十分に誇っていいものだった。
――けれど。
「やった、シン兄……っ」
這いずりながら、それでも快哉を叫びながら上崎は彼に近寄ろうとする。
しかし、それはあまりにも遅すぎた。
どさり、と。
篠原はその場で膝を折った。
「――え……?」
理解が出来ない。したくない。
けれど、それは事実だった。
ずりずりと必死に自分の身体を引きずって、彼の傍によって、そして、上崎は息を呑んだ。
こめかみだった。
そこに透明な氷の刃が、深々と突き刺さっていた。
――それが彼の魂を構成する核にすら届いていることなど、否定の余地もないほど明白で。
うつ伏せでろくに身動きも取れない上崎には、彼を抱き上げることさえ出来なくて。
「……悪い、結城」
そんな謝罪と共に、力なく篠原三善は笑う。
「今度こそ守れたと、思ったんだけどなぁ……」
そんな言葉を残して、彼の瞼が降りる。
ぱきん、と。
そんなあまりにも呆気ない音と共に、彼の身体が砕ける。
「あ、ぁ……ッ」
光の破片となって、風に浚われるように空へと上っていく。今さらどうにもならないことなんて分かっているのに、彼の身体が消えていくことが認められなくて、それを集めればどうにか元に戻せるんじゃないなんて思って必死に手を伸ばす。――けれど、全てするりとすり抜けて、後には何も残らない。
「あ、あ、あぁぁあ――――……っ」
掠れたような絶叫だけが、砕けたビルの中に空しく残っていた。