第三章 嘘 -6-
斥候は、敵や戦場の情報を探り監視するために送られるもの。それは高度に知的な戦略の上で必要とされる存在だ。
上崎たちから離れて手を擦り合わせているだけの蠅の魔獣に、そんな知性は見当たらない。
だからこそ、そんな真似がされたのであれば、手を引く存在がいなければいけない。
そしてそれは、眼前に。
「――度し難いな」
低い声がする。
蟲の群れを割って姿を現したのは、一人の男の姿をした魔獣だった。
二メートル近い長身痩躯の男だった。どこかで奪ってきたのか仰々しい礼服の上に漆黒のコートをまとった姿は、一見すれば人のそれと相違ない。
だが、明らかな異常がある。
凍土のように青白い髪の隙間から、蠅と同じ真っ赤な瞳がぎょろりと蠢く。本来なら白目に当る部分は、ぞっとするほど深い闇の色をしていた。
そして、何より。
そのコートの周囲で爆ぜる青白い電光。まるで雷雲をその身に宿したかのようなそれは、紛れもなく魔獣の持つ固有の能力に他ならない。
それらは決して人間ではあり得ない。
「……冗談だろ」
上崎の手先はかたかたと震えていた。その声さえ、強がることも出来ず掠れていた。
カテゴリー3以下の魔獣を従える高度な知性を有した魔獣――カテゴリー4だ。その力は、たとえスランプを脱していたとしても、上崎一人の手に負えるような存在ではない。
プロの魔術師でさえ徒党を組まなければ討伐できない。前衛だけでも最低四人、後方支援にはその何倍もの人数を用意して、ようやく被害を最小限に抑えた討伐が出来る。――それ以下で挑めばどうなるかなど言わずもがな。
ぶぶ、と上崎の周囲で蟲が蠢く。だが、わずかでも動くことでカテゴリー4の気を引いてしまえば、それはそのまま自身の消滅を意味する。上崎は何も出来ず、ただ青白い棒状のジェネレートを縋るように握り締めるしかない。
――けれど。
「この程度で女王の寵愛を望むか」
次いで放たれたその言葉に、上崎は血液が沸騰したかのような錯覚を覚えた。
人間の言葉であれば、それはただの比喩で済んだかもしれない。
だがこと魔獣において、その名はある絶対の存在を意味する。
カテゴリー5:女王/クイーン。
七体しか確認されていない魔獣の頂点にして、未だかつてただの一体も討伐されていない絶望の象徴。その中でも、カテゴリー4以下の魔獣を生み出し従える、まさに女王蜂のごとき魔獣の王。それこそがクイーンだ。
「……つまり、女王派ってことか……っ」
自分でも驚くほど、凍えた声が喉から漏れた。
クイーンに敵う魔術師はこの世界に存在しない。その派閥に与するカテゴリー4であるのなら、目の前のコートに身を包んだ魔獣もまた上崎では足下にも及ばない戦力なのだろう。
それでも、彼我の実力差など上崎の頭から抜け落ちていた。
だって。
上崎が敬愛した立里京香からオルタアーツを奪った存在こそが、そのクイーンに他ならないのだから。
それは彼女の夢だった。
そして、上崎の憧れでもあった。
その簒奪者の一派を目の前にして、平静など保てるはずがない。
――そしてその怒りは、上崎だけが抱えているものでもない。
「下がってろ、結城」
唸るような声があった。
同時、黒い十字盾が浮かび上がり、その全身から青い障壁を展開し、周囲に蠢く無数の甲虫を真上から押し潰した。
エネルギーを放出し、床へと突き刺さる盾を掴み、崩れ落ちていたはずの篠原三善が、ゆらりと立ち上がる。
「女王の寵愛、ね。それが『シンコウ』ってやつと関係してんのか?」
乱れた髪を掻き上げながら、篠原は粘ついた唾液を吐き捨てた。
あの不意打ちの一撃に対して、彼は十字盾の能力である『エネルギー吸収』を発動していたのだろう。でなければその電撃は一撃で核まで破壊していたはず。その大半を盾に吸収させ、それを障壁として放出することで、周囲に飛び回る有象無象のカテゴリー2を打ち払った。
その実力は紛れもなく一線級。――カテゴリー4を相手にしても引けを取らない。
「……人間風情が」
「知性があっても会話になんねぇな。獣相手に何を期待してたんだって話だが」
吐き捨てるように言う篠原の顔は至極冷静だ。――しかしその上辺だけの笑みの下からは、滾るような憤怒と憎悪がひしひしと感じられる。
「シノ、まさかこの状況で抗戦する気ですか……っ!?」
「逃げられるならそうしてる。――周囲をカテゴリー2の群れに囲まれちまってんだ。逃げようと結界を解いた途端に足止め食らうんじゃ意味がないだろ」
制止するような京香の言葉に、篠原は冷たく拒絶する。
そもそもオルタアーツは編纂結界の中でしか使えない。フィジカルエンチャントの恩恵を自ら捨て去って逃げおおせると判断を下せるほど、眼前のカテゴリー4は甘くない。
「安心しろよ。――このカテゴリー4は俺が討つ」
「……聞き間違いか?」
バチ、と空気が爆ぜる音がした。魔獣のまとう漆黒のコートの周囲で、無数の青白い電光が迸っている。
「よもや、俺を討つと言ったか? ――弁えろ、人間」
「弁えるのはお前だろ。獣が人間様みてぇな格好してんなよ。金持ちに飼われてる犬猫じゃあるまいし、似合わねぇって」
鼻で笑う篠原とカテゴリー4の間で、殺気と殺気が火花を散らす。その余波だけで、上崎は震え出してしまいそうになる。
瞬間、激突があった。
迸る雷光の嵐を盾一つで防ぎ、反射する。それを魔獣は回避しさらなる電撃の槍を浴びせる。もはや目で追うことさえ難しいほどの攻防が、刹那の内に幾度となく入れ替わりながら折り重なり続けていた。
そのあまりにも激しい戦闘に、上崎は置き去りにされていた。何の助力にもなりはしないのだと、隔絶した力の差に心がひしゃげそうになる。
「――っ、そうじゃないだろ」
それでも、上崎は床を踏み締めて前を見る。
――篠原は言ったのだ。カテゴリー4は俺が討つ、と。それは翻せば、カテゴリー3以下は任せたと、そう託してくれたことを意味する。
カテゴリー4の能力はおそらく電撃に類するもの。篠原のエネルギー吸収との相性は決して悪くない。彼の役目を不安視するよりも、自身の能力のなさを嘆くよりも、もっと先にやるべきことがある。
「……俺が、やるしかないんだ」
自らを鼓舞するように上崎は呟く。
篠原がカテゴリー4を確実に討伐する必要などない。ここで彼が撤退を選ばなかったのは、周囲のカテゴリー2の群れが邪魔であるからだ。それを使役するカテゴリー3の蠅さえ排除できるのなら、その前提を突き崩せる。
雄叫びを上げ、上崎結城は黒い羽虫の群れへ突撃した。
一心不乱に、ただただ周囲の蟲を斬り伏せる。
返り血のように体液が頬を濡らす。元より切れ味なんてほとんどないただの棒きれだ。斬り飛ばされた外殻や羽の破片が辺りを舞い、肌に張り付いて気持ちが悪い。――けれど、数は一向に減る気配がない。
「くそ、何なんだよ……っ」
斬っても斬っても状況は変わらない。どころか、次第に周囲は蟲に覆い尽くされはじめていた。退路を確保することはおろか追い詰められているような、そんな感覚だ。そのことに上崎は心底から舌打ちする。
「結城くん、あれを――っ」
叱責するような京香の言葉に、上崎ははっと視野狭窄に陥っていたのだと気づかされる。引きずり上げられるように俯瞰で周囲を見渡せば、一目瞭然であった。
数が減らないのは比喩でも何でもない。
文字通り、斬った傍から同じかそれ以上の甲虫が新たに発生しているからだ。
「ふざけんな……っ」
使役している、などと勘違いもはなはだしい。
上崎がカテゴリー2に手をこまねいている間、蠅の王が彼へ襲いかからないことこそが、その本質。
――女王派とはよく言ったものだ。
まさか君主とよく似た能力に開花していようとは。
「あいつがカテゴリー2を生み出してるって言うのかよ……っ!?」
その事実は、上崎の心に重くのしかかる。
魔蟲級の魔獣であれば、どうにか今の上崎でも手に負える。だから退路を切り開かんと奮闘していたのだ。
しかし、あの蠅の魔獣が周囲の蟲を生み出しているのであれば、それはただの徒労に成り下がる。上崎一人ではカテゴリー3を討伐できず、討伐できない限りは無限にカテゴリー2が湧き続けてしまう。
「……このままじゃ……っ」
カテゴリー4を討つと篠原は息巻いていたが、それはあまりにも現実的でない。今は一刻も早くこの場を脱し、形勢を整えることが最優先だ。にもかかわらず、上崎はその為に打てる手立てが何もない。ただただ時間ばかりが過ぎていくだけだ。
「――づ……ッ!?」
瞬間、左手に走った痛みに上崎は顔をしかめた。視線を向ければ、拳程度の甲虫が掌の小指側に噛みつき、その肉をぶちぶちと食いちぎっていた。
くそ、と悪態をつきながら右手に握った棒きれの柄尻で虫の頭蓋を砕く。硬い羽が崩れるようにカテゴリー2は消滅するが、代わりにぼたぼたと真っ赤な血が滴り落ちた。
いよいよ上崎の処理能力は飽和しつつあった。魔蟲の群れさえ満足に打ち払えず――その奥にいる蠅の王を屠る算段すら付けられない。
状況はあまりに劣勢だった。しかし、上崎はただ歯噛みするだけで――……
「先輩っ」
そんな声に背を叩かれた。
同時、上崎の真横に迫っていた蟲の集団が弾けて消えた。――いや、それは正確ではない。正しくは、上崎の隣に飛び出した水凪六花の手によって、その集団の一角が消滅させられていたのだ。
「お前、何やって――っ!」
「お説教なら後で受けます! でも先輩一人じゃ……っ」
六花の言葉に、上崎はぐっと言葉を飲み込んだ。彼女の言動は、この状況において紛れもなく正解だ。このままでは上崎まで押し込まれ、退路を確保するどころかそのまま防戦も維持できず崩壊する。
己の無力に責任を感じている余裕などもはやない。矮小なプライドや体裁など捨て去り、今はこの場を切り抜けることだけが最優先だ。
「……っ、任せていいか?」
「それで先輩を守れるのなら」
打てば響くような応えがあった。
ペーパーナイフ程度のちっぽけなジェネレートを手に、フィジカルエンチャントの才覚だけで六花は周囲の蟲を屠り続ける。それはさながら舞いのようで、いっそ美しささえ感じさせた。
無限に湧き続けるカテゴリー2の群れの中で、確かに、彼女の周囲に穴が生じる。――それはほんの数秒だけの空隙。けれど、それでも十分だった。
「邪魔だ、カテゴリー3」
その穴を突き破り、上崎は一息に蠅の王へと肉薄する。
ランクとしてはカテゴリー3、だがその性能の全てを女王を真似てカテゴリー2の生産と支配に費やした以上、それはもはやただの工場だ。
身を守る術すらなく、蠅の王は無様に羽音を撒き散らすだけ。
矢弓のように引き絞り、上崎は右手に握った棒きれを突き出した。
血のように赤い複眼の隙間を縫い、その鈍い切っ先は魔獣の核を容易く刺し穿つ。
ばらり、と紙束が解けるように巨大な蠅の身体が崩れていく。王を失った蟲の群れは、自らの形を保つことすら出来ず、諸共に黒い塵となって消滅しはじめる。
「シン兄っ!」
退路は確保したと、そう上崎が叫ぶと同時だった。
キン、と。
金属を指先で弾くような澄んだ音と共に、上崎たちの視界は真っ白に覆い尽くされた。
「――は……?」
理解が追いつかず、ただ間の抜けた声が漏れる。――その吐いた息すら、取り残されたように白く漂っていた。
周囲に蟲の群れはない。まるでその代わりとでも言うかのに、真っ白な氷の壁に四方を囲まれていた。
それを理解するのと同時だった。
ずしゃ、と、砂袋を投げたみたいな音と共に、上崎の目の前に何かが落ちる。
赤黒く変色した、二メートル近い大きさの何か。
――それは。
全身をずたずたに引き裂かれた、篠原三善の姿であった。