第三章 嘘 -5-
無数の羽音が響く。
おびただしい数の黒い影に覆われた視界に、本能的な嫌悪感が骨髄の奥から全身を震わせた。
その甲虫の群れは魔蟲級――すなわちカテゴリー2の魔獣だ。
「呆けてる場合じゃねぇよ」
冷静で平坦な篠原の言葉と同時、周囲に薄藍色の半透明の結界が展開される。元プロの京香はもちろん、現役生の上崎も既に臨戦体勢に入っている。――そしてそれは六花も同じだ。
「カテゴリー2の群れなら私でも十分ですね」
「アホか。予備魔術師の登録もしないで引退した一般人は、六花ちゃんと一緒に下がってろ」
すぐさま戦おうとする京香の頭を叩き、篠原は後ろへ行けと親指で指し示す。その扱いに不服そうな様子の京香ではあったが、六花を守れと暗に言われている手前反抗も出来ず、すごすごと引き下がっていた。
「ってなわけで、俺とお前で潰すぞ」
「……俺がポンコツになってるの知ってるよね?」
そんな上崎の言葉も黙殺し、篠原はその手に巨大な十字の盾を生み出す。
盾という属性を無視して鈍器のように振り回し、そのひと薙ぎで五十近い数の甲虫を押し潰してみせる。
「まぁ俺の二十分の一の成果で許してやろう」
「……さすがに一割はもぎ取れるわ」
篠原の安い挑発に乗り、上崎も光る棒状の不出来なオルタアーツを生み出す。その不格好なオルタアーツでも、カテゴリー2程度が相手であるなら不足はない。
元より戦闘経験だけなら同学年では多い部類だった。身体に染みついた動きもその動体視力も、どれほどのスランプを抱えようと劣化するものではない。切れや鋭さが全盛期とは比べものにならないとしても、その動きのずれを頭で修正できればいいだけ。
振り抜いた横一文字の剣閃は、軽々と数十の蟲の頭蓋を斬り飛ばしてみせた。――ほぼ先ほどの篠原が屠った数と変わらない。
「あれ、シン兄俺の二十倍なんて息巻いてなかったっけ」
「……生意気な弟分だな」
そんな軽口を言い合いながら魔蟲の群れを狩る。
互いの実力を考えれば、カテゴリー2の魔獣に今さら手を焼くことはない。だが、だからこそ、胸の内に湧く違和感をどうしても強く意識させられる。
カテゴリー2の魔獣は、本能的に魔術師を避ける。それが彼らの持つ当然の生存本能だ。しかし、ここには魔術師が四人もいる。数百、数千の魔蟲の群れと言えども、数で押し通す前に討伐されるのは目に見えているだろう。
そんな中でわざわざ姿を現したと言うことは――……
「出たな」
そう呟く篠原の視線の先だった。
数えることすら億劫になる蟲の群れの、さらにその奥。
ぎょろり、と真っ赤な複眼が垣間見えた。
「こいつが俺たちにカテゴリー2をけしかけてた親玉か。気持ち悪い見た目だな」
ぶぶ、と羽音をさせながら手足を擦るその黒い魔獣はまさしく蠅そのものだった。ただし、その大きさは優に一メートルを超える。もはやおぞましいの一言で済ませることもはばかられるほどの、背筋を這い回るような不快感だけがあった。
それこそがこのカテゴリー2の群れの主なのだろう。知性のかけらも感じられない、カテゴリー3の下位だろう。それでもカテゴリー2を使役できる存在であれば、魔蟲が群れを成して魔術師に対して攻撃を仕掛けることにも筋は通る。
「どうあれ、あのデカイ羽虫をぶっ飛ばせばここは解決だ」
二メートル近い巨大な十字の盾を大剣のように構え、篠原は不敵な笑みを浮かべる。――だが、上崎の胸にわだかまる違和感はまだ消えない。
何か重大なことを見落としているのではないかという、そんな直感にも似た気配。
――もしくは、斥候か。
そんな自分の言葉を思い出し、上崎は叫ぶ。
「――ッ違う、シン兄! それは――ッ」
制止の言葉は、しかし間に合わない。
羽虫の王へと盾を振りかぶった篠原の真横だった。
バヂィ、と。
青白い閃光が駆け抜け、刹那遅れてそんな音が轟いた。
盾を振りかぶっていた篠原はその場で硬直し、そのまま崩れ落ちる。
肉が焼け焦げるような嫌なにおいが鼻の奥を衝いた。