第三章 嘘 -2-
――三連休であることをこれほど疎ましく思うこともない。
そんなことを考えながら、目覚まし時計が鳴る前に目を開けた六花はため息をついた。
六花の通う中学は、家族を残して死んだ子供たちが暮らせるよう寮を併設している。普段なら一緒に過ごすルームメイトも、連休ということで卒業の挨拶に親族の元へ帰省してしまっている。ひとりぼっちの部屋に取り残された六花は、ただ真っ暗な部屋の天井を眺めるしかない。
重くのしかかるような空気に、六花は起き上がれないまま、目元を腕で覆う。
やってしまった、という後悔だけがあった。
水凪六花にとって、上崎結城は紛れもなく英雄であった。それはたとえ彼自身が否定したとしても覆ることのない事実だ。けれどそれは同時に、彼女の押しつけでしかないことも理解している。
「……やっちゃったな……」
昨日の発言はその押しつけの表れだ。去り際に彼の表情に後悔が浮かんでいたが、それは不要だと六花は思う。彼の糾弾は正しく、間違っていたのは自分の方だと。
彼に憧れて魔術師を目指した。少しでも出遅れていた経験をカバーするために、体験会には片っ端から応募して、その準備にも可能な限り参加した。そして偶然にも、上崎結城と出会ったのだ。
奇跡だと思った。名前を確認して、彼が本当に自分の命を繋いでくれた「結城くん」だったのだと確信を持ってからは、もう止まらなかった。
たくさんのものを彼からは貰っていた。命を繋いだ四年間には抱えきれないほどの愛をたくさんの人から貰ったし、天界に来てからも将来の夢だって彼に与えられたようなものだった。
少しでもその恩を返したい。そう思っていたのに、気づけば、彼の傍にいられることが楽しくて舞い上がっていた。
だから、六花は間違えた。
たった一人で、それも東霞高校に入学すらしていなかった時分に、カテゴリー3の魔獣を屠った彼だ。その才覚は自他共に認められていたはず。
それが衰えて落第寸前まで追い詰められる絶望など、他人が推し量れるようなものではない。ましてや、昨日今日出会ったばかりならなおさらだ。
彼には英雄でいてほしいと自分の理想を押しつけ、知ったような口を利いた。相談に乗るなどと言っておいて、彼の苦悩に寄り添う気など微塵もなかった。彼はそんなことを求めていないことなど少し考えれば分かることだったのに、それすら考えなかった。
その言葉が、彼を傷つけた。
挙げ句に彼は何も悪くなどないのに、余計な罪悪感まで抱かせてしまった始末だ。――本当に最悪な気分だった。合わせる顔もない。
「……どうしよう、じゃないよね」
閉じこもっていたくなる意気地のない心に鞭打って、六花は跳ね起きる。このまま彼と疎遠になる。そんな結末だけは絶対に認められないから。
言いたいことがあるのなら、すぐにでも言わなければいけない。照れたり怖がったりして伝えたいことを伝えずにいては、ただ後悔だけが募るだけだ。命はいつまでだって続くものではないと、嫌というほど思い知らされている。
――たくさん楽しいことをして、たくさん嬉しいことをしてもらって。
そうして幸せになると、他でもない彼の母親に誓ったのだ。だからそんな怯えで自分から幸せを遠ざけるなんてあってはいけない。
まずはきちんと謝ろう。
そう決意して、六花は身支度を整えるためにベッドから降りて洗面所へと向かうのだった。
*
「……あれ……?」
そうして彼に謝ろうと、朝のうちから彼の寮の前に来た六花は、門の前にある人影が立っていることに気づいた。
見知った顔だった。幼き日の写真は穴が空くほどに見た。――あの黒髪の年上の少年は、いままさに彼女が謝ろうとしていた上崎結城本人だ。
「せ、先輩……っ!?」
まさか先に彼がいるとは思いもよらず、六花は驚きから慌てて駆け寄った。六花の姿を見た上崎は、ほっと胸をなで下ろしたような顔をして、それから申し訳なさそうに目を逸らしていた。
「どうされたんですか、こんなところで」
「……その、恥ずかしい話なんだけどさ。ちゃんと六花に会って話をしなきゃなって思ったものの、よく考えたら住んでるところも連絡先も知らなかったから。六花の方から来てくれないかなって、ちょっと期待して……」
だから昨日六花がしてたように朝からずっと待ってみようかと、と上崎は伏し目がちに言った。それからそのまま彼は六花に対して頭を下げた。
「その、ごめんな。昨日は本当にひどい言い方をした。せっかく六花が優しさで言ってくれたのに、俺は八つ当たりで傷つけた。本当にごめん」
そんな真摯な彼の謝罪に、六花は慌ててかぶりを振る。彼に謝ってほしくてこんなところに来たのではない。むしろ謝るべきは自分の方だからと申し訳なくなってしまう。
「そんな、先輩は悪くないです。私が無神経だっただけなんです。先輩の気持ちも考えないで、勝手に自分の理想を押しつけようとしてただけで……。だから、本当にすみません」
そんな風に六花も慌てて頭を下げるが、すると今度は上崎が慌ててそれを制した。彼も彼で、悪いのは自分だからと六花の謝罪は頑として受け入れないつもりのようだった。
「いや、これは俺が悪くって」
「いいえ私が」
「いやいや俺が」
そんな風に何度か言い合っているとふと目が合って、ややあって思わず二人で同時に吹き出していた。昨日はあんな別れ方をしたのに、こんな会話一つで、わだかまりなんて呆気なく吹き飛んでしまった。
それから互いにひとしきり笑い合って、ふぅと一息ついた。
優しい人だ、と六花は素直にそう思う。
この胸に宿る心臓が彼のものであってよかったと、本当にそう思った。彼のような英雄に救われた自分は、やはり、恵まれすぎているほどに恵まれている。
だから、この奇跡だけは手放したくなどなかった。
「……先輩は、優しいです」
「いや、優しいやつは初めから八つ当たりなんてしないだろ」
「いいえ。先輩は優しいです。それは譲りません」
本当なら謝罪するべきは自分だと思う。だが彼がそう思っていないのなら、六花からのこれ以上の謝罪は自己満足でしかない。それは昨日の失態となんら変わらない、ただの感情の押しつけだ。
だからここは、きっと笑顔を向けるのが正解だ。
「私は気にしていません。ですから、先輩も気にしないでいてもらえますか」
「……いや、それは」
「先輩?」
ちょっと低い声を作ってみたら、叱られた子供みたいに上崎はビクッと肩をふるわせた。その様子に思わず吹き出してしまうが、彼の方は動揺するだけで六花の茶目っ気に気づいた様子もない。
「わ、分かった」
「はい。これでお互いに水に流しましょう」
せっかく彼がこんなに真摯に謝ってくれたのだ。このまま解散ではきっとギクシャクしてしまう。そんな関係は六花が望むものではない。
――素直になろう。
命を繋いだ四年間の恩を返したいというのは本当だ。
一年前に助けられたお礼をしたいというのだって嘘じゃない。
けれど、そんな風にただ与えられるだけのままで終わりたくないのだ。
彼と話しているだけで胸が躍った。彼の声で褒められるだけで心が満たされた。彼と一緒に遊んでいたら心の底から楽しかった。
だから、もっと彼と一緒にいたい。そこには、どんな大層な理由も今は要らない。ただそれだけを言える関係に、いつかなりたいと思えた。
そう思ってしまったのだから、もう六花は止まらない。ここで臆したら、伝えたいことも伝えられないままになってしまうかもしれない。そんな後悔だけはしたくなかったから。
「――ですので」
そう続けて、六花は小悪魔のような笑みを浮かべて、上崎に手を差し伸べる。
「昨日のデートの続き、しましょう?」
「……いや続きも何も、そもそもデートではないのでは」
「デートの続き、しましょう?」
上崎の抵抗は聞こえなかったふりをしてプレッシャーをかけてみると、彼は困ったようにため息をついてから頷いた。
「まぁそれでいいか……」
そう答えてもらえただけで嬉しくなって、思わず勝手に彼の手を取ってしまう。早鐘のような鼓動は聞こえていないにしても、きっと頬が紅くなっていることはばれてしまうだろう。けれど今さらごまかそうとも思わなかった。
「じゃあ早速行きましょう」
そう言って手を引っ張る六花に、上崎は嫌そうな顔もせず、仕方ないかと呟いてついてきてくれた。