第三章 嘘 -1-
「――ほら、これがうちの結城よ」
そう言って病室の白いベッドの上に広げられたアルバムを、幼き日の水凪六花は輝くような目で眺めていた。
七年ほど前のことだったと思う。まだ六花が生きていた頃、彼女が生活の九分九厘を過ごしたこの病室に訪れる医者以外の人間は、両親を除いてもなお二人いた。
それが、上崎のおじさんとおばさんだった。
「でもこんなのが見たいなんて六花ちゃんは変わってるわね。せっかくならイケメンに産んであげたかったけど、面白みのない顔でしょ?」
「そんなことないです。結城くんはその、かっこいい子だったんですね」
六花が素直にそう言うと、おばさんは「あら、そう?」と少し上機嫌になる。
「ほら、この写真なんか、すごくヒーローみたいです」
そう言いながら六花はアルバムの一ページを指さす。
これは節分の日だろうか。丸めた新聞紙を右手に、おそらく鬼の面を被っただけのおじさんを相手に、わんわん泣きながら立ち向かおうとしている様子が写し出されていた。
「あぁ、それね。それはたしかに格好よかったなぁ」
どこか遠い目をして、おばさんは呟く。
「節分のごっこ遊びみたいな鬼に本気でびびって泣いちゃってるのにね。『お母さんは守るから』って、私を庇うみたいに立ってるの。腕を広げて背いっぱい小さい身体を盾にして、でも指先は怖くて震えてて。――なのに、私の方を振り返るときはがんばって笑ってて」
母を少しでも不安にさせまいとするそんな結城の振る舞いは、とても立派なものだったのだろう。その小さくも勇ましい、優しい英雄の姿を思い出して、おばさんはさっと目を伏せた。
「やだなぁ。年々涙もろくなっちゃって。子供のヒーローごっこなんか思い出しただけで泣いちゃうんだから」
「……ううん。ごっこなんかじゃないです。結城くんは、本当にヒーローですから」
その六花の言葉に、おばさんは「……そうね」と呟いて、六花の手を両手で握った。
片手はその手を包み込むように、もう片方の手は、そっと手首にあてがうように。そこから伝わる温もりと拍動を、改めて確かめるために。
――さらに二年前の冬のことだった。
家族で行ったスキー場で、リフトが倒壊するという大きな事故が起きた。
そこで水凪六花は腹部に大きな衝撃を受け、多くの臓器が機能不全に陥った。彼女の命を救うためには、もはや臓器移植しかなかった。
だが数多の臓器を緊急で移植できるようなストックなどあろうはずもない。だから彼女の身体には、同じ事故で死亡した少年の臓器が提供された。
それが、上崎結城だった。
いまの六花の命があるのは上崎結城のおかげだ。通常はドナーの情報などは秘匿されるが、倫理観を棚上げにした特殊な状況下の判断のおかげで、六花は結城の両親とも接点を持つことが出来た。だからこうして頻繁にお見舞いに来てくれる。
それは少なくとも、六花にとっては幸福なことだった。
この胸に宿った命の灯火に対してきちんとお礼を言えることは、何よりも得がたい奇跡だと思うから。
――けれど同時に、申し訳ないとも思ってしまう。
六花の命を繋ぐために結城の命を食い潰した。それは紛れもない事実で、そしてそれでもなお、彼女の命は長くない。
類を見ない緊急での多臓器移植だ。どれだけ回復したと言っても、こうして病室で過ごすので精一杯。よほど調子がよければほんの一、二時間は外出を許されるがそこが限度。いずれは次第に衰弱していき、あと三年も生きられはしないだろう。
せっかくもらった命も、もう刻々とリミットが近づいている。
「まーた暗い顔してる」
そう言って、手を握ったままのおばさんはぎゅっと力を増した。その力強さに、六花ははっと自分がうつむいていたことに気づかされた。
「すみません……」
六花が何を気に病んでいるのかを察したのか、おばさんは優しく笑う。その朗らかな笑みは、握った手よりもなお温かく六花を包み込む。
「六花ちゃんはね、六花ちゃんだから。そこに結城の欠片があることを親としては嬉しくは思うけれど、それだけなんだから。それを宝物にしてほしいわけじゃないの。私たちは結城の分なんて押しつけたくないのよ」
穏やかな声色で、おばさんは続ける。
「六花ちゃんは六花ちゃんの分だけでも、たくさん楽しいことをして、たくさん嬉しいことをしてもらって、たくさん愛して、たくさん愛されて。――それで幸せだったって、笑っていてくれたら、それだけで私たちの選択は間違いじゃなかったんだって、そう思えるから」
おばさんのその言葉に、六花は「……はい」と小さく、けれど強く頷く。
その言葉は、この胸の中にもらった心臓と同じだけ大切なものだと、そう思った。この命を分け与えてくれた痛くて苦しくて何よりも辛かったはずの決断を、間違いだったなんて言わせてはいけないと。
――その二年後。
彼女はその言葉のとおり、母親の優しい腕に抱かれながら、父親の大きな手に頭を撫でられながら、たくさんの愛に包まれたまま静かにその生涯を閉じた。
*
幸せな人生だったと思う。
幼い頃に事故に遭い、まともな生活も出来ないままに迎えた最期だ。他人から見ればそれは不幸であったのかもしれない。だが彼女にとって、多くの愛に包まれたその人生は、間違いなく幸福と呼べた。
だからこそ、彼女は恵まれすぎたとさえ思う。
生前は病室からほとんど外へ出ることの出来なかった彼女が、死後の世界では自由に動くことが出来た。立ち上がって気分が悪くなることもなければ、胸いっぱいに息を吸い込んでも咳き込まない。ただそれだけすら、奇跡のような幸福だった。
けれど、奇跡はそれだけでは終わらなかった。
――それは、水凪六花がはじめて魔獣に遭遇し、小さな子供を守ろうと身を盾にしたあの日。
彼女たちを守るためにその体を盾にして立ち塞がった一人の少年と、六花は出会った。
一目見ただけで、分かった。
その顔立ちは幼き日の面影をきちんと残していた。指先は震えているのにそれを押し殺して、少しでも安心させようと背中越しに笑う姿。それは病室の白いベッドの上にアルバムを広げて、何度も何度も眺め続けてきたものと瓜二つだった。
結局、その日は聴取や検査に連れ去られて、名前を確認することはおろかお礼の一つも言えずじまいだった。
だが、それでも六花にとっては十分だった。
この奇跡のような再会を、ここで終わらせる気など彼女にはなかった。
だって、自分の命を繋いでくれた英雄が、この世界で本当にヒーローのように自分を助けてくれたのだ。
その背中に憧れた。
その姿に少しでも近づきたいと思った。
――本当に、恵まれすぎているほどに恵まれていた。だから報いなければいけない。この幸せの終着が自分であっていいと、水凪六花は思わなかった。
彼に繋いでもらった四年という月日のお礼をしなければいけない。
彼のようになって、彼のように多くの人を救う存在になりたい。
そう決意して、その日から、彼女は魔術師となる道を選んだのだ。