第二章 心乱れ -8-
「……言ってもいいですか?」
テーブル越しに上崎の説明を聞く間瞼を下ろしていた黒髪の女性――立里京香は、すっと目を開けて、淡々とした口調でそう言った。
「……どうぞ」
「それは一〇〇パーセント、結城くんが最低です」
あえて咎めるような声音すら作らず、ひたすらに平坦な声音で京香は上崎を糾弾する。その言葉やまとう空気を前に、上崎は叱られる子供のように身をすくめるばかりだった。
「喧嘩は悪いことではありませんよ。相手に直してほしいところがあるにしても、あるいは、ただ許せないことを正すにせよ、どうあれその声は相手を否定してしまう。人と人がかかわるのですから、その衝突は避けようがありません」
そう言って、京香は「むしろ一度もぶつかり合わない関係というのは不健全でしょう」と続ける。
「けれど、絶対にしてはいけない喧嘩があります。いつも言ってましたよね?」
「八つ当たり、です」
幼い頃から散々叱られた内容だ。だからこそ今さらそれを言わせるな、という彼女の放つプレッシャーに上崎はただただ縮み上がるしかない。
けれど、京香は優しい笑みを浮かべるだけだった。
「そこまで分かっているならもう大丈夫ですね。では、結城くんはこのあとどうしますか?」
「……謝りに行きます」
素直な上崎の回答に、京香は満足そうに頷いた。
「はい、結城くんはやっぱり立派になりましたね」
「……京香さんは相変わらず世話焼き過ぎなんだよ」
「手のかかる弟妹が多いもので」
子供扱いされていることに唇を尖らせる上崎だが、さりとて今ばかりは子供の癇癪のような醜態を晒したばかりだ。否定もできず、ただ羞恥で居心地が悪い。しかしその面はゆさもどこか郷愁に満ちていて、捨て去るのが惜しいと思えてしまうのだった。
ここまで来れば今さら恥の一つや二つ、と開き直ることにして、上崎はそのままお姉ちゃんに相談に乗ってもらうことにした。
「ところで、その……」
「手ぶらが気まずいのは分かりますが、相手は年下なんですし、菓子折りを持って行くより素直に謝るのが先ですよ」
「……おれまだなんもいってない」
「結城くんが分かりやすすぎるだけです」
ただ一言切り出しただけで全てを察した十年近い付き合いの京香は、コーヒーカップを持ち上げながらため息をこぼす。そう呆れながらも、結局彼女はいつだって上崎たち家族を見捨てたりしないで、親身に相談に乗ってくれるのだ。
「……ほんと、どこまでお節介なお姉ちゃんなんだ」
「おや、結城くんがことさらに手が焼けるだけですよね?」
あまりに見透かされるものだから文句の一つも言ってみるが、京香はそれもさらりと受け流す。ぐうの音も出ず、上崎はただバツが悪そうに甘いカフェオレを啜るしかない。
「ちゃんと謝れますね?」
「そこまでお姉ちゃんに手を引かれなきゃいけないほどガキじゃないよ」
「説得力、って知ってますか?」
「……ねぇ、笑顔でグサグサ俺の心抉るのやめてくれない?」
そう涙目で訴える上崎に、「つい楽しくなってしまって」と微笑と共に京香は舌を出しておどけてみせる。――そんないつもの仕草一つで、自己嫌悪で押し潰されそうになっていた上崎の心はふっと軽くなっていく。それすらも彼女の掌の上だとしたら、いよいよ彼女には一生かかっても敵う気がしない。
「……手が焼けるついでに、聞いてもいい?」
「えぇ、もちろん」
「謝った後にでもなんかお詫びの品を買いたいんだけど、何がいいかな……?」
そんな上崎の質問に、京香は可愛らしく吹き出していた。そのままくつくつと笑っていて、その姿に上崎は顔を紅くしながらそっぽを向く。
「……もう京香さんには何も聞かない」
「あぁ、すみません、結城くん。笑うつもりではなかったんですが。――ただ、改まってまた子供みたいなことを言うものだから」
なんのフォローにもなっていないのだが、京香はひとしきり笑ったあとで目尻に浮かんだ涙を眼鏡の間から拭いながら答えてくれた。
「大切な人へは大切にしてるものを贈りたくなるものでしょうけれど、この場合は基本的に消え物が無難ですね。――ただ今回に限っては、結城くんを慕ってくれている子ですしね。形の残るものでも、実用的なものならいいのでは。入学祝いに起動装具を贈る、というのもありますしちょうどいいかもしれません」
そう言いながら、彼女は上崎の胸元を指さす。そこには、銀のプレートを下げたネックレスがある。それは上崎が編纂結界を生み出すための起動装具であり――そして、彼女から入学祝いにと贈られたものでもある。
いつだって上崎がオルタアーツを扱うとき、そのネックレスは必ず傍にあった。オルタアーツを使えなくなってしまった彼女の代わりにと、心が折れそうになる度に、その銀の輝きが上崎の惰弱な心を叱咤してくれた。
上崎にとって起動装具は、ただの魔術の道具として以上の意味を持つ。――そして、それが六花にとってもそうなってくれればいいなと、そう思えた。
「……お姉ちゃん大好き」
「はいはい、手間のかかる弟くんですね、まったく」
現金な上崎の愛の言葉になびく様子もなく、京香はただため息で返すばかりだった。