第二章 心乱れ -7-
「――んん! とってもおいしいです!」
頬に手を当てうっとりとした表情で、水凪六花が賞嘆の声を上げる。それを対面で眺めながら、その表情だけで上崎まで幸せな気分を分けてもらったような気分だった。
「秋原先輩も来られればよかったんですけれど」
「用事があるって言ってたし仕方ないだろ」
帰り際に「馬に蹴られて死にたくはないしな」と、余計な一言を添えて帰っていったのだから佑介の用事が実在するかは怪しいが、それを追求したところで益体もない。――実際のところは、先ほどのファミレスで遭遇したカテゴリー2の魔獣討伐に関する報告書を作成するためではあるのだろうが。
上崎も親友の余計なお世話は聞こえなかったふりをした結果、六花と二人で出来たばかりの喫茶店のボックス席で、ケーキセットを囲むこととなっていた。
甘い物好きの上崎が素直に諸手を挙げて喜べないのは、この様子を知り合いに見られたら余計な憶測を生みそうだと、そんなことが気がかりになってしまうからだ。外の空気が気づけばどんよりと曇り空になっていたのは、そんな上崎の心を映したようであった。
「先輩も一口いかがですか?」
そんな上崎の内心など知る様子もなく、六花はそう言いながらに微笑みをたたえて、たくさんの苺を盛り付けたタルトを上崎へと差し出してくる。
「いいよ、全部自分で食べな」
「一口いかがですか?」
遠慮する上崎だが、六花は今回も引く気がないようだった。まぁ本人が気にしていないなら、と若干諦めながら、上崎は六花が口をつけていない部分にフォークを刺して切り取って口へ運んだ。
「ん。めちゃくちゃ苺が甘くて、逆にクリームの方がさっぱりしてて。これは美味いな」
「ですよね。新しくオープンしたばかりですけど、これは常連になっちゃいそうです」
タルト以上に甘い空気を感じながらも気のせいということにして、上崎はあえて砂糖を入れなかったコーヒーを口に含む。
それからややあって、六花がじっと上崎を見ていることに気づく。なんとなく、この短い付き合いでも何を求められているかは察してしまう。
「…………俺の方のミルクレープも食べる?」
「い、いいんですか……っ!?」
「まぁ貰ったお返しだし。――無理強いする気は」
「いただきます」
下げようとした上崎の気配を機敏に察知し、六花はさっとミルクレープを一口すくって「甘いですね」と少し頬を紅くしながら笑みを浮かべる。
本当に幸せそうな様子の六花に、ついていききれない上崎は少しだけ乾いた笑みを浮かべるのだった。
*
そうして、しばらくの間上崎と六花は二人で甘味を堪能していた。
傍から見ればもはやただのデートである。そしてその自覚があるからこそ、上崎はどうにもばつが悪そうに苦笑するしかない。昨日出会ったばかりの女の子とこんなに親しく過ごすなど普通はないだろう。
そもそも彼女の方からこれほど上崎に懐くのも不自然だ。何か理由はあるに違いない。
それを聞かないでいることは簡単だ。けれど上崎はそれを聞いておかなければいけないような気がした。――彼女が追い求める上崎の姿が、どうしても、自分の内に向いているようには思えなかったから。
「……やっぱり、どこかで会ってるよな?」
そんな上崎の問いかけに、タルトを口に運ぶ手を止め、六花は少しだけ痛そうに表情を歪めた後、いつものように澄ました笑みを浮かべた。
「思い出してくれた、というわけではありませんよね」
「……ごめん」
「いえ。先輩が覚えていらっしゃらないのも当然です。きちんとお話をしたわけではありませんから」
そう言って、彼女は銀色に光るフォークをことりと皿の縁に置いた。
「ちょうど一年前です。――私は先輩に助けられたんです」
「助けた……? 一年前って、俺まだ中学生じゃ――……」
そう否定しそうになって思い出す。まさに一度だけ、入学直前に街中に現れた魔獣から市民を守るために、上崎は一度そのオルタアーツを振るっている。
そのとき、幼い子供を庇った女の子がいたはずだ。
「……そうか。それが、六花だったんだな」
「はい。私はその先輩の姿に憧れて、魔術師になろうって決めたんです。一方的に私がお慕いしていたので、どうしても先輩と接すると距離が近くなってしまうのかもしれませんね」
もし私が行き過ぎてたら注意してください、なんて言って彼女は曖昧に笑う。だが、上崎はその笑みの先を見れず、そのまま視線を落とした。
自分の感情に言葉がつけられない。
けれど、きっと一番近いものは、落胆だ。
「……じゃあ、その憧れは捨てた方がいいよ」
どこか嘲るような声音に、自分自身でも嫌気が差す。それでも上崎は、へらへらとした声を作らなければその先を口に出せなかった。
「……なんで、ですか」
「落ちこぼれなんだよ、俺は」
ただ一言、自分でそう認めることさえ、上崎にとっては容易なことでなかった。だから自分を傷つけないように、気にしていないという体を装って、上っ面の気色の悪い笑みを混ぜなければいけなかった。
「一年前と昨日の両方を見たなら気づいてたろ。あの頃みたいなオルタアーツはもう使えない。落第寸前で、お前に憧れてもらえるような魔術師とはほど遠いんだ」
口の中に広がっていたケーキの甘さはいつの間にか消え去って、ただただ苦いコーヒーの香りだけが燻るように残っている。
「そんな、ことは」
「自虐的な話はリアクションしづらいよな、悪かった。忘れてくれ」
そんな上崎の前で、六花はつっかえながら、どうにか否定の言葉を紡ごうとする。けれどそれすら上崎にはこれ以上なく耳障りだった。
うつむきながら話を切り上げようとする上崎の視界に、銀色の髪が横に振れるのが微かに映った。
「いえ。――あの、こんなにも先輩によくしてもらったので。もし私に何か相談に乗れることとかがあるなら……」
「……、」
そのあまりにも無神経な彼女の言葉に。
上崎は犬歯が刺さり血が出るほど、強く唇を噛んだ。
「…………やめろよ」
そう絞り出す。それ以上の言葉はいけないと、理性が必死に叫ぶ。――けれどこの一年、ずっと押さえ込み続けた苦痛と絶望は、そんな些細な亀裂からさえ弾けて溢れそうになる。
「でも……」
そして。
最後に放たれたその逆接が、どうにか保っていた上崎の堰を切った。
「やめろって、言っただろ」
言ってはいけない。それは彼女を傷つけるだけだ。
そう分かっていても、止められない。
――だって。
彼女だけは、神童なんてもてはやされた頃の上崎を知らないまま慕ってくれていると思ったのに。
「優秀で才能に溢れたお前から見たら、俺は手を差し伸べたくなるくらい哀れだったかよ。そんなに惨めに見えたのかよ」
その言葉に、息を呑む音が聞こえた。
はっと冷静になって、うつむいていた顔を上げる。
――あ、と。
今さらその表情を見て後悔するくらいなら、初めから目を見ているだけでも、きっと何かが違ったはずなのに。
そんなどうしようもなく愚かな懺悔は、言葉にもならなくて。
「そんな、つもりじゃ……っ」
そう言って、目にいっぱい涙を溜めた彼女はそれでもそれが零れる姿だけは見せたくないとでも言うように、鞄を掴んで席を立ってしまう。
「ごめんなさい、先輩」
そう言い残して去って行く彼女に、上崎はもう声をかけることすら出来なかった。
ただボックス席に座り込んだまま、乾いた眼底を刺すようにちかちかする照明を仰ぐ。
そうして見上げて、どれくらい経ったか。
その上崎の視界に、ふと、影が差し込む。
窓際の席。屋外からも見えてしまうこの場所で、わざわざ上崎の様子をのぞき込む女性の姿があった。
見ず知らずの人であったなら、まだしも救いがあったのに。
その紅い縁の眼鏡も、ガーネットのつけネクタイも、今さら見間違いようがない。
「京香さん……」
窓越しの彼女の姿に、上崎は縋るように歪めた表情を向けるしかなかった。