第一章 桜舞うころ -10-
空気を吸うこともできない不確かな身体で、それでも上崎は長い息を吐いた。
黒い剣を元の自らの姿へと戻し、それと同時に編纂結界を解除する。
「お疲れさまでした、先輩」
「本当、疲れたな……」
オルタアーツはそれだけで精神力を消費する。その上、自らをジェネレートした上崎は他人よりよほど消滅の危険性が高い状態だ。一歩間違えば、という恐怖はさらに精神を摩耗させる。
「肩、貸してあげましょうか?」
「遠慮する」
六花はすげなく返され頬を膨らませていたが、上崎は素知らぬ顔で彼女の横に並ぶ。
「とりあえず避難の続きだな。脅威が去ったとは言え、目の前で魔獣に襲われそうになったっていう恐怖でパニックが連鎖しかねないし」
そんなふうに事後処理の指示も出してはいるものの、上崎も安堵に包まれてはいる。できるなら今すぐ誰かに引き継いで横になりたいくらいだった。
それはきっと、六花の方も同じだろう。いつも通りの笑顔だが、幾分か気が抜けているようにも見える。
だから上崎も六花も、その音がするまで全く気づかなかった。
ぽたり、と滴が落ちる音だ。
二人が視線で追った先、それはちょうど六花の足下だった。真っ赤なインクのような液体。
――血だ。
「え、えぇ!?」
慌てて六花が上を見上げるが、当然、頭上には何もない。ただその動作のおかげで、上崎にはその出所がハッキリと見えてしまった。
「お前、首、それ……」
もはや文章にもできなかった。ただ上崎に言われるがままに六花は自分の首に手をやった。にちゃり、と音が聞こえてくるようだった。
地面に滴った血液は、そこから腕を伝って流れていた。
そこには小さな傷が二つ。――まるで、犬歯を突き立てられたみたいに。
疑う余地などなかった。
それは、件の吸血鬼に襲われたという証だった。
「い、いつの間に!?」
「…………たぶん、眷属か何かが一般人に紛れ込んでたんだろ」
ようやくのように理解が追いついて驚く六花に対し、努めて冷静を装って上崎はそう言った。
それ以外に考えられるタイミングはない。そうでなければ山羊頭との一騎打ちの際に噛みついたことになるが、六花を俯瞰で見ることのできた上崎がそんなシーンを見逃すはずがない。
「全然痛くないんですけど……」
「蛭とか蚊と一緒で、牙に麻酔でも入ってるんじゃないか? どっちにしろ、早く血を抜いて消毒した方がいい」
いくら核が破壊されない限り消滅の恐れのない天界といえども、傷口の雑菌を放置していれば破傷風にだってなりかねない。死なないだけで、かなり苦痛が襲うのは確かだ。
「……それは、その、先輩がこう、キスで傷口から吸い出してくれる的な……?」
「首筋にキスなんかできるか、アホ」
この期に及んでお花畑の思考回路に陥る六花の頭を叩いて、指で無理矢理絞るみたいに汚れた血液を出させる。「いた、ちょ、先輩! 優しさとか甘さとかが全体的に足りないと思います!」と六花が抗議するが、徹底的に黙殺することにした。
――彼の腹の奥底では、どろりとしたものが沸騰するみたいに泡立っている。
護るべき者に、気づかぬうちに傷をつけられたのだ。それも、自分たちが捜査していた対象に。それはまるであざ笑うかのようだった。
だからこそ、上崎はそれを許さない。
上崎の全ては彼女の為に捧ぐと、とうの昔に誓ったのだから。
「……吸血鬼なんかには奪わせねぇよ。本当にそれがカテゴリー5かだって関係ない。その魔獣は俺が討つ。何があっても、絶対に」
覚悟を言葉に変えて、上崎はただ虚空を睨む。
――と。
そこでふと気づけば、どうしてか水凪六花の顔が真っ赤になっていた。
「……どうした?」
「い、いえ。その、まさかそんなに想ってもらえているとは……」
その言葉で上崎は己の言動を振り返った。
回りくどい言回しをしているが、要約すれば堂々と『お前は俺が守る』と断言しただけだ。――お前は好きだと叫ぶ方が、よほど恥しくなかった気がする。
「………………忘れてくれませんか」
「絶対に嫌です」
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