第二章 心乱れ -3-
寮のドアの前だった。
背の高い、しかし威圧感を感じさせない柔らかな雰囲気をまとう青年――秋原佑介は、ただその場で立ち尽くしていた。
上崎の部屋の前でインターホンを押そうと手を伸ばし、しかしどう声をかけるか思いあぐね、そのまま手を下ろす。そんなことをこの五分ずっと繰り返している。
「――ったく、図体だけでかくても中身がこれじゃあな……」
自虐気味に言って、刈り上げたように短い髪を乱暴に掻く。
上崎とは同級生で、入学当初から何かと二人で過ごす機会が多かった。親友、と面と向かって言うのは照れくさく公言はしないが、そう言っても差し支えないほど親しい間柄だ。
だからこそ、夏以降スランプに陥っている彼の様子に、佑介は誰よりも胸を痛めていた。今日も少しは気分転換にと遊びに誘っていたが、約束の時間になっても出てくる気配がないからわざわざ迎えに来たほどだ。
それでも意を決し、インターホンではなくノックに替えて、ドアを乱暴に叩く。
「おーい、寝てんのか? 遊びに行こうって言ってたろー」
努めて何も気にしていないという声音を装って、ドア越しに佑介は上崎へ呼びかける。東霞高校の寮は広くはないが相部屋ではなく個人部屋だ。こうして声をかけても他に迷惑がかかることはない。
しかし、しばらく待っても出てくる気配はない。そのことに怪訝そうに首を傾げつつ、試しにノブを回すとドアはあっさりと開いた。どうやら部屋にはいるようだった。
「入るぞー」
そう声をかけ、扉を引いた。
そして、佑介は目の前の光景を見て固まった。
薄藍色の透明のレンガがあった。
無数に敷き詰められたそれが、玄関さえびっちりと埋め尽くしていた。
「……なん、だよ」
この輝きを佑介は知っている。――いや、そもそも、この東霞高校に通う者が知らないなどあろうはずもない。
その透明な色の壁の名前は、編纂結界。魔術師がオルタアーツを行使するために必要な空間だ。
「――あ、悪い。もしかして呼んでたか? 遮音材みたいになってて聞こえなかった」
そんな声とともに、ぱたぱたと佑介の目の前のレンガ――結界が消えていく。ぽっかりと佑介が通る道の分だけ結界が解除されているのだ。
「……お前、何やってんだ?」
「ちょっとした基礎練習のつもりで小さい結界をいくつも並べてみてた。いや、約束すっぽかしてたのはゴメン」
ワンルームの部屋に足を踏み入れた佑介は、背中に冷たい汗が伝うのを感じた。その深刻さに上崎は遅れたことを怒ってるのかとあたふたしているが、そんなことを佑介は毛ほども気にしていない。
彼が抱いているものは、上崎の才覚への畏怖だ。
編纂結界の展開は目の焦点を起点にする。つまり感覚のみでしか展開できず、何らかの外部の補助を得ることは出来ない。それをレンガのように敷き詰めるなどあり得ない。本来なら、そんな緻密な操作が出来る代物ではないのだ。
編纂結界は同じ空間に複数を展開できない。常に体積の大きい方が優先される。それを駆使すれば、オルタアーツを維持したまま応援を中に引き入れることも出来るし、あるいは結界の中に取り残されていた一般人を外に出すために結界をずらして展開し直す、という使い道も。だからこそ、正確に結界の大きさと配置をコントロールする技術は、軽視されがちではあるが非常に有益なものだ。
「……これ、何個同時展開してたんだよ」
もとよりインテリアに興味のない上崎の部屋は殺風景だ。佑介が勧めて無理矢理買わせた本棚と漫画本、あとは勉強のための机と衣装ケースくらいのもの。その空いたスペースが、今なお無数の薄藍色の小さな結界で満たされている。
「一〇〇個越えたあたりからはもう数えてない。千とか二千とかじゃないかな。流石に一万個とかまではないと思うけど」
佑介が何を気にしているのか察していないらしく、上崎はきょとんと首を傾げたままだ。それがどれほど異質であるかを、当の本人は微塵も理解していない。
「結界って、数出せば出すほど脆くなるだろ」
「まぁそうだな。最初の一時間くらいはそこで苦労してたんだよな。どんだけ小さくても数十個も積めば素手で壊せちゃったし。でもコツ掴んだら、固さはキープできるようになった」
「……お前、一個の結界に絞ったらどれだけの強度に出来る?」
「今はカテゴリー3ならたぶん、上位でもずっと閉じ込めておけるとは思う。カテゴリー4以上は遭遇したこともないから分からないけど」
それがどうかしたか、と言う上崎に、いよいよ佑介は天を仰いだ。あっけらかんとしている彼の様子が本当に信じられない。
「……最近ずっとこれやってたのか?」
「いや、今日始めたところ。オルタアーツが駄目になってきたからまずは基礎の基礎からかなって。朝からだから、もう六時間くらいぶっ続けだったかな。とにかくすぐ支度するから」
もはや狂気の沙汰だ。
何の面白みもない基礎の基礎、オルタアーツですらない編纂結界の鍛錬だ。それを教科書にも載らないような無茶苦茶な方法で、時計も気にならないほど集中して六時間。おそらく佑介をはじめ並の魔術師なら三〇分と耐えられないだろう。
その上で、たったの半日でコツとやらを掴んで、数え切れないほどの編纂結界を同時展開、そのサイズも配置も精緻を極め、数を絞ればカテゴリー3を永久に閉じ込められると来た。もはや学生やプロという枠組みすら逸脱した、ただただ化け物じみた異常さがあった。
何がスランプだと馬鹿馬鹿しくもなる。これほどの才覚を有していて、なおも努力を怠らず、当の本人はそれが苦痛だとも偉業だとも思っていない。
「……、」
だがそれは、彼の生来の性格から来るものとはおそらく違う。
そんな眩いものではなくて、もっとずっと歪んだもの。――その原動力は、絶望だ。
自身が誇り、アイデンティティにすら掲げたオルタアーツが劣化していく。それはどれほどの恐怖か。佑介には推し量ることすら出来ない。
彼が編纂結界に執心したのは、おそらく本当は基礎に立ち返るためではない。それは彼の心が自衛のために見せた幻だ。
本当は、これ以上衰えたオルタアーツを直視できないから。
だから彼は、その手前の編纂結界を極めることで心を保とうとしているのだ。その先に一歩を踏み入れることさえ、もう彼は忌避し始めている。
「……そうだな。早く準備しろ」
ふっと緊張で強ばった表情を意図的にほぐして、教室で向けるような朗らかな笑みで佑介はそう言った。
そこまで察して、それでも、佑介にはオルタアーツについては何も言えなかった。ただ魔術から遠ざけ、僅かでもリフレッシュになるような、そんな時間を提案することしか出来ない。
「せっかく気分転換に昼飯でもって言ったのに。あんまり遅いとおやつの時間になるぞ」
「まだ十二時回ってすぐだろ……」
「約束したの十一時半だろ。遅刻した分奢らせるぞ」
「すぐ支度します」
そんな風に言い合って笑いながら、佑介はひとまず彼の自室を出て、身支度が終わるのを待つことにした。
後ろ手でぱたりとドアを閉めて、佑介は息を吐く。
泥沼の中で足掻く親友に、ただ傍で寄り添うことしか出来ない。救うことはおろか、一緒にもがくことも。その無力感に彼は唇を噛む。
――ただ。
結界の展開にすらあれほどの才能を発揮した彼のオルタアーツが、ただのスランプで使い物にならなくなってしまうなど、本当にあり得るのか。
鎌首をもたげたそんな疑問が、彼の中でわだかまっていた。