第一章 岸は遠く -10-
――そして。
「いやぁ、怪我なくてよかったよ。いや毛はあるけども」
「…………本当につまんないんだよな」
しょうもない駄洒落で豪快に笑う篠原をよそに、上崎は安堵も混じるため息をこぼした。
既に魔獣は討伐され、編纂結界はない。周囲には警察と消防が駆けつけており、事後処理の段階だ。六花も無傷ではあるが一般市民ということで、念のため病院に搬送されている。魔術師候補と討伐者である上崎と篠原については、現場に残って報告や確認ごとが済むまでは待機せざるを得ない。
あらかたの報告は済ませており、いまは現場の隅で警察の簡易的な検証を待っている段階だ。上崎は適当な瓦礫に腰掛けて、篠原は立ったまま所在なさげに佇んでいる。
「どうした、浮かない顔して」
「……なんでもないよ」
そう言いながら、上崎は自身の右手に視線を落とす。
既に周囲に編纂結界はない。当然ながら、その手に握っていた剣のオルタアーツも解除されている。――それでも、そこにあった感触を上崎は忘れられない。
手に握っていた黒い剣が形を失い、それに抗えば、残されたのはただの光る棒きれ。もはやまともな魔術師とはとても呼べないだろう。その才覚はとうに枯れ果てた。
事実、あれほど苦戦した魔獣を相手に、篠原三善はただの一撃で討伐せしめたのだ。
プロと学生を比較したところで詮無きことだ。積んできた経験と時間が違う。そんな当たり前の言い訳を頭に並べても、心はそれに微塵も納得してくれない。
「……ったく。嘘吐けよ。気がかりなことがあるんだろ」
「まぁ、そうだけど」
言って、もう何も残っていない右手から視線を外す。今はそんなありきたりな挫折にかかずらっている場合ではないと言い聞かせて、うねる心を切り離す。
「あの魔獣。知性があった」
「……マジでか」
「あぁ。拙いし意味なんて分かってないかもしれないけど、でも言葉は発していたし、途中で明らかに六花を狙うような素振りを見せた。あれはカテゴリー3の下位の魔獣ならあり得ない。そもそも知性があったとしても、彼女を狙う理由は分かんないけど」
編纂結界に閉じ込められた魔獣が取る行動は、徹底した術者の排除だ。
一切の干渉を絶つ幽体化の意義を封じられる結界内。魔獣は何を捨て置いても、その結界を張った術者を真っ先に排除しようとする。それは知性が芽生えた魔獣であれば、なおのこと顕著に見られる。
あの場で狙われるべきは上崎だった。だからこそ彼は六花の参戦を許したし、彼女が狙われたあの一撃はあまりに不可解だった。
「……ちなみに、その言葉っていうのは」
「意味があるかは分からない。――けど『シンコウ』って言葉に聞こえた」
上崎の言葉に、篠原は一瞬目を剥いた。
「どうした、シン兄」
「……結城。その言葉はたぶん聞き間違いじゃない」
すっと、彼の目から温度が消える。つまらない駄洒落を言って笑ういつもの優しい兄としての顔はなく、ただ、魔術師として魔獣を狩る殺意に満ちた目をしていた。
「俺も前に討伐した魔獣からその言葉を聞いた。結局意味も何も聞き出せずじまい、他の魔術師も気にしてなくて、ただ報告書の隅にちらっと書いただけになっちまってるが」
その言葉に、今度は上崎の方が目を見開く。ただの一体の魔獣だけに事態はとどまらないのだと、篠原はそう言っていたから。
「待ってくれ。それはいったい……?」
「分かんねぇよ。ただ俺は言葉を聞いただけだしな。それが今度は彼女……六花ちゃんだっけか。その子を狙った。何か繋がりはあるのかもしれない」
その言葉に、ざわざわと、冷たい何かが体の内を足下から満たしていく。気を張っていなければ震えて歯の根が合わなかったかもしれない。それをごまかすみたく、きっときつく歯を食いしばった。
「だけど、うちも組織だ。確たる情報がない以上、判断保留で放置に決まってる。プロでもない高校生が『狙われていた気がする』っていうだけじゃ組織は動き出せない」
「でもそれじゃあ……っ」
掴みかかるような勢いの上崎に、その肩を押さえて篠原は言う。
「落ち着けよ。何も手を打たないでいろなんて言ってない。――何のために魔術師になろうとしてる、上崎結城。組織に縛られる俺と違って、お前なら自由に動けるだろ」
「……っ」
「出来る範囲でいい。お前が彼女を守れ。一〇〇パーセントじゃなくていいんだ。彼女のことを気に懸けて、少しでも傍にいる時間を増やす。それだけでも彼女の身に降りかかる危険度はぐっと下がるはずだろ」
その篠原の言葉に、上崎はすぐには頷けない。だけど、と、弱音を続けてしまいたくなる。
今の上崎には彼女を守れるだけの強さなんてない。それを今日だけでも嫌というほど思い知らされた。
だと言うのに、篠原はふっと顔を和らげ、くしゃくしゃと上崎の頭を撫でた。
「頼むよ、結城。……それは俺に出来なかったことなんだから」
そう言って、彼はトラロープの向こうへ視線を向ける。――そこには赤い眼鏡をかけたミディアムヘアの女性が、心配そうにずっと二人を見つめていた。
立里京香が魔術師の道を諦めたのは、魔獣との戦闘で負った傷の後遺症が残ってしまったからだ。
魂を切り離す武具生成術式は使用できるが、常に魂へ変化を加え続ける身体強化術式は使えなくなってしまった。それは魔術師として致命的だ。
原因は、カテゴリー5の一角、女王/クイーンとの戦闘だった。
世界に七体しか確認されていない、魔神級とも称される魔獣。それはただの一度も討伐できておらず、人類はその災禍が過ぎ去るのを指をくわえて待つしかない。その中でもクイーンはその名の通り、カテゴリー4以下の魔獣を自在に生み出し使役する。その大軍が、彼女の気まぐれで大挙して街を襲ったのだ。
どうあっても敵うはずのない規格外の相手。それでも市民が避難する時間を稼ごうと奮闘し、京香は一生の消えない傷を負ったのだ。
そして、そのとき篠原は傍にいなかった。
今回のような通報からの出動要請を除けば、魔術師は基本的にその所属で対応する魔獣のカテゴリーを分ける。そして彼の所属は元々機動二課――カテゴリー3以下の魔獣専門だ。カテゴリー4以上の討伐は一課の仕事。だから、彼は京香が敗れるとき、それを知りながら傍にいることが出来なかった。
そのことを、彼は今でも悔いている。
彼が転属を願い出て一課に移ったのもそのためだ。――いつか必ず、京香の夢を奪ったカテゴリー5を討ち滅ぼすために、と。
「……話は終わりましたか?」
ふと。
気づけば、警官の目をかいくぐり、ロープを越えて京香が上崎たちのすぐ傍に立っていた。
「まったく大事な結城くんの怪我の確認も適当に済ませて拘束して、もし何かあったらどうするんですか」
ぎゅっと彼女はその胸を押しつけるように背中から上崎を抱き寄せ、篠原から遠ざける。座り込んでいたせいで丁度上崎の後頭部が彼女の胸の位置にあったから、抱きやすかったのかもしれない。
「何してんだよ、京香。立ち入り禁止なの見れば分かるだろ」
「そうなんですか? 誰にも止められませんでしたよ、三善」
「それはお前が絶妙なタイミングを見計らっただけだろ……。――あと三善って呼ぶな。下の名前で呼ばれるの嫌いなの知ってんだろ」
「えぇ、知っているから呼びました」
べ、と下まぶたを引き下げ舌を出す大人げない京香に、篠原は「このやろ……っ」と睨むばかりだ。そもそも元魔術師である京香なのだから、こうした討伐の後に現場が立ち入り禁止であることなど百も承知だろうに、しらばっくれる胆力には上崎も恐れ入る。
「それより、結城くんは本当に怪我とかしてませんね? 我慢したら後で痛い目を見ますよ。経験者は語る、です」
「してないし、ぺたぺた触らなくていいから。あとちょくちょく後遺症の件を織り交ぜないで、リアクションに困るんだよ」
京香の手から逃れようとする上崎だが、思いのほか姉の力は強く、座っていて力の入らない上崎をがっちりと抱え込んだまま離してくれない。「うーん。今のも笑うところのつもりだったんですけれど」などと言いながら、抱き枕でも抱くみたいに上崎を抱えている。
そうして変わらず上崎にその胸を押しつけたまま、普段は誰に対しても優しい彼女は、唯一優しくしなくてもいいと思っているらしい同い年へと冷たい視線を向けている。
「そもそも近くにいたんですから、もっと早く駆けつけてくれてもよかったんですよ? まったく、こんなのにプロ一年目の討伐数で並ばれたなんて恥ずかしいです」
「こんなのって、俺もお前も歴代最多記録だし、チクチク言葉やめてくんね? 駆けつけるのにも準備がいるし、結城を待機させてんのも仕事なの。私語とかばっかりだったけども」
「つまんないです」
「…………それお前が言う?」
ばっさりと切り捨てられた篠原が若干涙目になり、ついには八つ当たり気味に上崎を睨む。
「あと結城はいい加減その胸から離れろ、じゃないと絶交だかんな」
「俺じゃなくて京香さんに言ってくんないかな……」
もはや関節技か何かのようにがっちりホールドされて身動きの取れない上崎は、嫉妬の火を灯す篠原に乾いた笑みを向けるしかない。
それは、もうすっかり忘れていた、懐かしい光景だった。
まだ上崎たちがしらさぎ園で過ごしていた頃、ずっと、いつも、何度だって繰り返した他愛のないやりとり。
遙か遠くだと思っていたその暖かさに包まれて、今だけは、上崎は自身のオルタアーツのことをすっかり忘れて和やかな笑みを浮かべていた。