第一章 岸は遠く -9-
いつの間にか、上崎の感覚から編纂結界と繋がる線が消えていた。それはつまり、彼の編纂結界は既に別の誰かに上書きされたことを指している。
編纂結界は同じ空間に複数展開することは出来ず、必ずどちらか体積の大きい方だけが残る。――この場で上崎の編纂結界が上書きされたのであれば、それは、救援に来た魔術師がその結界を覆うことで隔絶した空間への介入を果たしたということ。
そしてそれは推論にするまでもなく、事実、目の前に。
頭上を覆うのは、二メートルはあろうかという大型の十字盾。
白銀の下地を覆う黒色の金属盾。守られた側の上崎には見えないが、防護面の中央には装飾で小さな赤十字が埋められていることを彼は克明に記憶していた。
それは幼き上崎が飽くほどに見た、オルタアーツの一つだったから。
「……遅すぎるよ、シン兄」
「駆けつけたばかりの魔術師に辛辣すぎん?」
そう言って背中越しに笑うのは、壁のような大男――篠原三善であった。
筋骨隆々二メートルの大台に届きそうなほどの巨躯。くたびれたスーツを着ているが、柔道着でも着ていた方がよほどに合うような出で立ちだ。無精ひげを撫でながら片手で盾を支え、難なくゴーレム型の魔獣の一撃を受け止めているというのに、意外どころかさもありなんと感じてしまうほど。
そんな彼が、やや浅黒い顔の落ちくぼんだような目を細め、どこかしたり顔で上崎に笑みを向けている。
「だいたいヒーローは遅れてやってくるもんだろ。惨状に参上ってな」
あっはっは、と一人だけ楽しそうに大きく笑う篠原に、上崎は冷ややかな目を向ける。
「……京香さんとは別ベクトルでつまんないんだよなぁ」
そんな軽口を叩く上崎の横で、六花はまだ状況が飲み込めていないらしく、頭上の盾と目の前の篠原、そしてすっかり弛緩した上崎の三点で視線を右往左往させていた。
「あぁ、悪い悪い。見知った顔だったからつい。――俺は篠原三善。機動一課所属の魔術師だ。市民を守るために勇気を振り絞ってくれたこと、感謝するよ」
そう言って「後は任せな」と豪快なウィンクをして笑う篠原に、六花は「えっと、こちらこそ……?」といまだに状況が飲み込み切れていない様子でぺこりと頭を下げる。
その間にも、篠原は巨大な十字盾を握った左腕一本を掲げ、今なお押し潰さんと力が込められる瓦礫の鞭を受け止めたままぴくりとも動かない。
「さぁて。挨拶も済んだところで、寸断してた状況を再開しましょうかね」
「つまんないこと言ってないでさっさとしろよ……」
「お前はもう少し俺を敬え。お兄ちゃんだぞ」
湿度の高い目で睨みながら、篠原はまるでコートでも羽織るような気軽さで盾を握ったまま振り返る。それだけのなんてことはない動作で、上から押さえつけていた瓦礫の鞭は呆気なく吹き飛ばされた。
「なんですか、今の。もしかして、これがオルタアーツの能力……?」
「残念、違うんだなぁ。俺の能力は『エネルギー吸収』と『障壁展開』の二つだけ。炎みたいな実態のない攻撃を吸収して、そのエネルギーを障壁に変換するっていう能力だ。――だから、今のはそんな高尚なものじゃないよ」
背中越しに篠原はにやりと笑い、まるで腕にはめた盾を剣と見なすかのように腰を低く落として構える。
「理屈も種も仕掛けもなんもない。物理攻撃にはほとんど意味がない能力だから、いまシン兄があの瓦礫を吹き飛ばしたのは、単純にこの人の身体能力だけだ」
そんなほとんど呆れている上崎の解説に、六花は言葉を咀嚼するようにしばし目をぱちくりとさせ「――……え?」と間の抜けた声を漏らす。
そんな六花に対し、篠原は補足するように上崎の言葉を次いだ。
「まぁ見てな。物理攻撃は相性が悪いってのは確かだけど、これくらいなら踏み倒せる」
瞬間。
轟音と共に、篠原の姿が視界から消失する。彼の立っていた場所でまるで爆発が起きたかのように、放射状に砕けた床の残骸だけが残っている。
そして、彼は既にゴーレムの魔獣の目の前に。
十字の盾を構えた右腕を矢を射るように引き絞っていた。
遅れて、岩石の魔獣はその顎を開き吠えようとする。
「遅すぎるのはお前もだったな」
言って。
正拳突きにも似た刺突で、ゴーレムの頭蓋は正面から刺し貫かれた。
頭蓋――すなわち、核だ。この天界で生きる全てのものが持つ、記憶や遺伝情報のような、自身を構成するのに必要な情報を持つ器官。それを破壊されることは、消滅を意味する。
それは、魔獣であっても同じこと。
岩石で作られていた身体は音を立てて崩れ、やがて光の粒子となって消えていった。
ただの一撃。
それだけで、あれほど上崎たちが苦戦を強いられたカテゴリー3の魔獣は、その一片も形を残すことなく、霧のように消滅した。