第一章 岸は遠く -8-
細長い廊下をいっぱいに使うように、上崎たちは魔獣とは一〇メートル以上の距離を取っていた。鈍重な体躯故か、上崎たちへ即座に襲いかかろうとはせず、その様子をうかがいながらゆっくりと近づいてくる。
六花からも先ほどまでの破顔した様子はもはや消え、静かで冷たい緊張感だけがその顔に残っていた。
「六花、ジェネレートは」
「すみません、使ったことがないです」
「それでよく助けるって言ったな……」
「鉄パイプと鍋の蓋しかなくても助けに行きますよ」
「今はそれすらないんだよなぁ」
気持ちはあります、と六花はふんすと鼻息を荒くしながらも、しかし変わらず岩の魔獣から目を逸らしていない。気張りすぎてはいないが、気を抜きすぎてもいない。コンディションとしては十全だ。
「なら防御は考えるな。とにかく全部避けろ。――ただし、魔獣の攻撃は必ず空振りさせること。壁や天井へは当てさせないように」
「わ、分かりました。けどなんでですか」
「外壁が襲撃の時点で半分以上ぶち抜かれてるんだ。たぶん、主要な柱とか梁もかなり持ってかれてる。――これ以上建物にダメージが行けば倒壊して生き埋めだ」
フィジカルエンチャントの恩恵があるため、押し潰された程度で彼らが消滅するようなことはないだろう。しかし、上崎たちが埋もれながら瓦礫を払いのけるまでのわずかな間に、ゴーレムの豪腕は天井の残骸ごと上から容易く押し潰せる。あの巨躯では上崎たちと違い瓦礫に埋もれることはないから、間違いなく魔獣の先手必勝になる。
「でも、この狭い廊下じゃ限界がありますよ。編纂結界で建物の内側を覆うようにして、崩れる天井とかを結界の外に追いやるとか、別の解決策を図った方が……」
「結界も万能じゃない。単純に界面をぶん殴れば、壊れてオルタアーツ諸共に強制解除だ。――だから結界は魔獣の手が届かない範囲で展開するのが基本なんだ。この狭い建物の中で小さく結界を張ったところで、すぐ魔獣に壊される」
もちろんそのルールから外れ、結界単体を檻のようして魔獣を閉じ込めることもあるにはあるが、それは術者がその魔獣の攻撃では絶対に結界を壊されないと確信しているるからだ。落第寸前の上崎に、そこまでの自負はまだ持てない。
「……あの、思っていたより難易度が跳ね上がっている気がするんですが」
「がんばれ後輩。期待してる」
少し弱音をこぼす六花に適当なエールを送りながら、上崎は自身の右手へ意識を向ける。先ほどは失敗したジェネレートも、こうしてある程度魔獣と距離がある状態で落ち着いて出来るのなら、失敗する要素はほとんどない。
どこからか湧き出た粒子が撚り合わさり、一つの形を為していく。
それは黒色の剣。刃渡り一メートルほどの片刃の直剣だ。――かつての透き通るような鋭さもシンプルながら凝った装飾もない。ただただ無骨な黒曜石の刃だけがそこにはあった。
その無様な装具を見て自嘲気味に笑いながら、それでも上崎はしっかりとその剣を握り込む。
「――来るぞ」
上崎の忠告とほとんど同時、魔獣が地鳴りのような音を響かせながら上崎たちへと突撃。振り下ろされる魔獣の拳を、先陣を切った六花は紙一重まで引きつけ、直前で回避してみせる。
鼻先を掠めるような極限で、しかしそれでも六花は上崎のオーダーどおり、魔獣の攻撃を空振りさせるよう立ち回ってのけた。
先ほども見たが、類い希なフィジカルエンチャントのセンスだ。特に緩急の差が尋常ではない。回避が遅れれば言わずもがなだが、仮にわずかでも早ければそれを追いかけて魔獣の攻撃は狙った箇所を向かない。壁や柱にぶつかってしまえば、その時点で上崎たちには致命的だ。
魔獣の攻撃が確実に空振る瞬間まで絶好の場所で止まり、直前でそこから姿を消す。そんな芸当を六花は幾度となく繰り返す。
――だが。
「もう後ろが……っ」
それからも二度、三度と魔獣の振り回す腕を回避する六花が、背後へ目を配りながら呟く。――もう数メートル後ろには上崎の作った結界の壁面が迫っていた。
もとより五〇メートルもない廊下だ。空振り前提で回避する以上、避ける方向は常に後退。十にも満たない回数でも、繰り返せばあっという間に進退窮まるのは自明だ。
そして、背後に一瞬気を取られてしまった六花が、はっと我に返る。
「し、ま……ッ」
六花が思わず唇を噛みながら、自身の頬を掠めるようにすり抜けていく魔獣の右腕を眺める。――わずかに回避が早すぎたせいで、魔獣の攻撃は六花が誘導しようとしていた何もない廊下ではなく壁へと逸れてしまっていた。
「十分すぎるよ。――柔よく剛を制す、ってな」
とん、と軽く床を小突くような感覚で、六花の後方から彼女の隣へと一足で飛ぶ。風を切る岩石の腕に対し、上崎はその移動のエネルギーを殺さないよう、腰をねじりながら上へと向きを変えて剣閃を振り抜いた。
黒剣が真下から魔獣の腕をかち上げ、振り抜かれんとしていた拳は頭上で空を切る。
そのコンマ数秒の空隙に上崎は黒い剣を引き絞るように頭の横で水平に構え、一瞬、それでも肺が最大まで膨らむほど深く息を吸う。
「――シっ」
矢を射るような刺突と共に、黒い刀身から暴風雨のようなエネルギーが解き放たれる。わずかのズレもなく、切っ先が触れると同時にその莫大な力の塊が魔獣の胸部に打ちつけられる。
純粋な突撃に折り重ねるように、オルタアーツとしてのエネルギー放出を加えた一撃だ。一トンは優に超えるであろう魔獣の巨躯も、紙くずのように呆気なく吹き飛ばし、岩石の肉体は遙か後方の結界の界面付近に転がった。
「これで仕切り直しだな」
「さすが先輩です」
「いいや、お前の方が一〇〇倍よくやってくれてるよ」
きらきらと輝くような尊敬の眼差しを向ける後輩の背中を叩きながら、上崎は息を吐く。
実際、上崎には六花のように魔獣の攻撃を誘導して避ける術はない。少なくとも落第寸前の彼には、そこまでの落差でチェンジアップするような真似は不可能だし、こうして後方へ吹き飛ばすにも、それなりの溜めがいる。水凪六花の助力がなければ、上崎の立てた筋書は初手で破綻していた。
「……ところであの、柔よくっていうお話は……?」
「あんな岩の塊に柔なんかないんだから、制される心配もなく真正面から剛で押し潰せ、っていう意味だけど」
どこか呆れている様子の六花を少し茶化す上崎だが、背中には冷たい汗が伝っていた。
びりびりと右腕の痺れるような感触が消えない。骨の髄が未だに震えているような錯覚がある。下手をすればヒビくらいは入っているか。
かち上げの一瞬、あの攻撃を受け止めただけでもこの有様。おまけに吹き飛ばす際の刺突だけでも、黒い剣の切っ先は欠けてしまっている。
ただ一度の応酬。それをどうにか凌いだだけで、これほどの損耗を上崎は強いられた。その事実はどれほど強がったところで、心臓を掴むようにギリギリと胸の内から神経を圧迫する。
今の攻防でも稼いだのは一、二分。救援が来るまで一〇分か一五分程度と見込めば、期待値的にはあと十度、この無茶苦茶を繰り返さなければならない。
がらがらと床の残骸を砕きながら、二〇メートルほど遠くで魔獣が起き上がる。
今の一撃でも魔獣には微塵もダメージは感じられない。穿つほどでないにしても割れやひびでも入っていればと期待していたが、その黄土色の五体には傷一つなかった。
その光景を見ながら、身を寄せるように上崎の右隣に立つ六花が、不安げな声を漏らす。
「……繰り返している間に対応される、なんてことは……」
「ないとは言わない。けど六花の動きは明らかに建物を守ろうとしてた。それに気づかずにまっすぐこっちに突っ込んできたってことは、知性なんか微塵もないってことだ」
知性を獲得した魔獣はカテゴリー4に分類される。感情の発露などはその進化の片鱗だが、岩の魔獣の窪みが集まったような顔には、先ほどから変化が見られない。カテゴリー3の中でもまだ中位か下位だと、上崎は判断していた。
――それがただの楽観視でしかないということに、彼自身は気づいていなかった。
「ゥ……ッ」
薄く割れた石片が震えるような、耳障りな音がした。
それは魔獣の四肢が蠢く音でも、周囲の瓦礫が崩れる音でもない。
「……し、ン」
それは。
魔獣の喉が震える音だった。
「こ、ゥ……ッ!!」
声。
言葉。
すなわち、理性の発露。
――これが中位か下位? 何を馬鹿な。
目の前の魔獣はカテゴリー4の座に指をかけた、上位個体だ。
「――ッしま――ッ!?」
己の愚かさを悔いる時間さえなかった。
知性を持った魔獣がそれを隠している理由など一つだけ。――魔術師の油断を誘うためだ。
そしてそれをやめたということは。
この時点で既に、魔獣は絶対の勝利を確信していることを意味していた。
「ご、ァア!!」
魔獣の雄叫びと同時。
ゴーレムが両の床に拳を叩きつけ、まるで波が伝播するかのように、瓦礫が隆起しながら上崎たちへと襲いかかる。
「っな……っ!?」
六花の反応にわずかに、しかし致命的な遅延が生じる。距離を取ることだけに意識を割いていた彼女にとって、これだけの間合いがある中で、その外から来たこの攻撃は想定外だったのだろう。
鋭く尖った瓦礫が蛇のように蠢きながら襲いかかる。それは上崎ではなく、その右――水凪六花だけを狙っていた。
「――っ」
とっさに上崎は六花を突き飛ばす。その二人の間に出来た空隙を、瓦礫の鞭は床も地面も引き裂きながら駆け抜けていった。――あと一呼吸遅れていれば、彼女の身体は原形を留めていなかっただろう。
「ふざけやがって……っ」
間一髪で助けられたことよりもまず先に、上崎はゴーレム型の魔獣に対し毒づいていた。
魔獣は通常、幽体化というあらゆる物理的干渉を受け付けない状態となって姿を隠し、捕食の際にのみ実体化して人間を襲う。だがこの編纂結界はその幽体化を阻害する。知性のある魔獣はそのリスクを嫌うからこそ、まず真っ先に結界を維持する術者を狙うのが常だ。
だが、この魔獣は違った。
明らかに上崎を捨て置いて、その右に立つ六花だけを狙っていた。
こんな瓦礫で出来た獣の思考など知ったたことではない。だがそれでも、魔術師の端くれとして、守るべき少女を傷つけられることだけは、看過するわけにいかない。
瓦礫を鞭のように操ったことから見て、おそらくはコンクリートなども岩、すなわち自身の身体の一部と見なし、使役する能力を有しているのだろう。カテゴリー3の中位以上であれば、そういった肉体的な能力以外に、超常現象じみた何らかの性質を発現することは多い。
ならば、戦闘が長引くほど上崎たちは不利になる。――この建屋が倒壊すれば、生き埋めなどではなく、魔獣の能力によって頭上から全身が挽肉になることが確定するのだ。
時間を稼いでなどいられない。
力不足であることを承知していても、次の一合で魔獣を屠らなければ命はない。
右手に握りしめた黒い剣を研ぎ澄ませるように、意識を深く右腕に集中させる。
その瞬間。
ぐにゃり、と。
比喩でも何でもなく、彼の右腕がその姿を失い、まるで溶けた飴細工のように不定になって黒い剣と混じり合っていく。
「――ッ!?」
それは魔獣の攻撃などではない。――それは今までの楽観視などとはまるで異なる、ただのありきたりな経験。この現象を、上崎結城はとうの昔に知っている。
瞼の裏、網膜のその奥にまで焼き付いたような、たった数ヶ月前の光景。上崎が自身の才覚を失ったことを認めた、その日の出来事と全くの同一。
その意識の濁流から引きずり上げるように、上崎は歯を食いしばって、どうにか右腕は歪んでいた輪郭を取り戻していく。――だが、その代わりとでも言うように、黒い剣はばらばらと解けるように、ただの青白く光る棒きれへと成り下がる。
息の仕方さえ、忘れていた。
「ぁ、が、……っ」
意識が明滅する。いま自分がどちらに傾いでいるかさえ、自分では判別がつかない。
通常、一度発動したオルタアーツの形状が変わることはない。一部とは言え、魂を切り離し粘土細工のように再成形するのだ。何のコントロールもなく発動しながら形を変えようとすれば、それは全身を内側から引っかき回すようなもの。
たとえ上崎自身の意思に反して歪んだオルタアーツであっても、それは一切の例外を許さず同様だ。その反動をまともに喰らい、上崎は敵前でありながら意識を失うほどの隙を晒す。
そして。
知性をいままさに獲得しようとしている魔獣がその好機を見逃すはずもなく、鞭のようにしなった無数の瓦礫が、致命の斧となって上崎の頭上から襲いかかる。
さしもの上崎も消滅を覚悟する。これだけの劣勢で、ただの一撃さえ回避する算段はもう残されていない。
――だから。
「よくやった、結城」
その声は、まさしく天恵のように。
上崎の鼓膜が震えると同時、真っ黒な何かが上崎の視界を頭上から覆う。同時、がぎり、と酷く耳障りな音とが結界の中に響き渡る。
だが、それだけ。
振り下ろされるはずだった瓦礫の斧を、その何かは真正面から受け止めていた。