第一章 岸は遠く -7-
混乱が伝播するよりも遙かに早く、自身の鼓膜がその破砕音を捉えたとほとんど同時、上崎結城は既に階段を飛び降りていた。傍にいた六花には「控え室に戻ってろ」とだけ叫ぶように言い残した。
そして、その凄惨な状況に思わず息を呑んだ。
躍り出たその先を、本当に廊下と称していいかさえ分からなかった。窓どころか壁すら砕け散り、外と内を隔てる境界が失われている。春の穏やかだった日差しさえ、砕けたフローリング片に反射して心臓を掴むような鋭さを見せた。
――そして。
その奥に。
全長二メートルを優に超える、二足で立った岩の化け物がいた。
数十センチ四方の黄土色や灰色の岩石をいくつも無造作に積み上げて、無理矢理に人の形を模した、そんな不格好な異形の姿だ。
頭部にある窪みが目や鼻なのだろうとは辛うじて認識できるが、およそ表情らしいものはない。それでも、今なお獲物を狙って蠢く尖った破片ばかりを並べたようなそれが、数多の魂を喰らってきた顎であることだけは明白だった。
「カテゴリー3の魔獣か……っ」
思わず舌打ちを漏らしながら、上崎は周囲を見渡す。外壁や床の残骸は散乱しているが、人の呻き声も聞こえなければ血の色も見えない。人的被害は今のところないと見ていいだろう。
魔獣はその危険度からカテゴリー1から5までに分類される。知性を持たない、体躯が一メートルを超える、という条件だけでも眼前にそびえる巨石の魔獣がカテゴリー3に当てはまるのは自明だった。
「結城くん!」
上崎と挟むように、その魔獣の背後に京香が駆けつける。その赤縁の眼鏡に指をかけ、今にも外そうとしていた。――それは、魔術師時代の彼女が戦うときのいつもの仕草だ。
「やめろ、バカ! あんた後遺症で下手にオルタアーツ使ったら消えるんだろ!?」
思わず声を荒げた上崎に、京香の手が止まる。「でも……っ」と反論しようとする彼女に、それ以上有無を言わせずさらに怒号を飛ばす。
「京香さんは職員とボランティアの子供の避難誘導! 魔獣の相手は俺がするから!」
何かを言いかけた京香は口をパクパクとさせながらもどうにか飲み込み、眼鏡から手を離してキッと上崎を睨んだ。
「分かりました。ですが、バカという暴言は後でみっちりお説教――……」
緊張感のない彼女の戯れ言を遮って、キンと氷を弾くような澄んだ音が響く。――それは、上崎が周囲に編纂結界を張った音だ。
薄藍色の壁の向こうで呪詛を吐くように彼女の口元が動いていたが、もはや内外は隔絶されて聞こえない。ただ代わりに、踵を返して走り去っていく京香の眉間に深いしわが刻まれているのだけは、上崎からでもはっきりと見えた。
「あとは、俺が時間を稼ぐだけか」
意識を切り替え、上崎は自身の右手を腰だめに構える。その掌から零れ出た光の粒子が、少しずつ糸を撚り合わせるように何かの形を為していく。
だが。
バツン、と、まるでワイヤーが引き千切れるような音と共に、その全ては呆気なく霧散した。
「――ッ!?」
もはやまともなオルタアーツさえ扱えない。だから彼は落第寸前でこんな場所に来たのだと、最悪のタイミングに最悪の形で突きつけられる。
――そして。
そんな決定的な隙を、目の前の獣が見逃すはずもない。
巨石の右腕がうなりを上げる。
防ごうにも武器となるジェネレートに失敗している。挙げ句に、霧消した黒い剣の残骸に気を取られ、避けるという判断すら遅れている始末だ。――その一瞬の思考の空白は、間違いなく致命的だった。
だから。
「先輩!」
そんな叫びと共に、正面ではなく横から衝撃を受けて、上崎の身体が浮遊感に包まれる。左半身を包む柔らかく温かな感触は、覚悟していた岩石の殴打とはまるで違う。
「な、ん――ッ!?」
言葉にならない。突如として全身にかかったGで頭も舌も上手く回っていなかった。
しかし、それでも十分だった。
この場で自分を「先輩」などよ呼ぶ相手は他にいない。そもそも黒いセーラー服と銀色に近いアッシュブロンドの髪が見えた時点で確定だ。
「何してんだ、六花!?」
「先輩を助けに」
ゴーレム型の魔獣から十分に距離を取ったところで、上崎の加速は止まる。――どこからか現れ魔獣の攻撃すら置き去りに彼を抱えていた六花が、そっと上崎を下ろしたからだ。
「お前な……っ」
「控え室にいた他のボランティアの子たちは非常口から外に避難させました。事務室側はこの魔獣を挟んで反対側なので手を出していませんが、そちらは大人の方々なので、まずは先輩の助けを優先させた次第です。ここで足止めに失敗すれば避難誘導も意味がないですから」
「……、」
この一瞬で上崎の言いたい叱責を先回りして潰され、上崎は閉口するばかりであった。どこか勝ち誇ったように、彼女は笑みを浮かべる。
「私も来月からは東霞高校の生徒ですよ。――だから、先輩と一緒に戦います」
「馬鹿なこと言うな……っ。俺は学生でも魔術師に準ずる資格と義務があるけど、お前はまだただの一般人だろ」
「でも、私がいなかったら今ごろ先輩はぺしゃんこですよね?」
その覆せない事実を掲げる後輩に上崎は何も言えず、ただ代わりにその頬をぐいっとつねって引っ張り上げる。
「いひゃ、いひゃいですせんぱい!」
「……あぁ、くそ」
ぱっとその手を離し、赤くなった頬をさする彼女を横目に上崎は後頭部を掻く。
彼女の言い分はもっともだ。
何より。
そのフィジカルエンチャントの腕前は、専門課程を学ぶ前だとはとても思えない領域にまで達している。
上崎の視界に入っていなかったほどの距離があったところから、魔獣の攻撃に対して後出しで動いてなお間に合う。その速度だけでも異常。その上、六〇キロはある上崎を抱えてもスピードは落ちず、上崎を突き飛ばすどころか衝突感すら与えない繊細なコントロールまである。
落第寸前の上崎とは比較にもならない。あるいは、神童ともてはやされていたころの彼でさえ並べるかどうか。
間違いなく、彼女のオルタアーツの才能は一級品だ。
この魔獣を相手に避難を完了させ、プロの魔術師の到着まで時間を稼ぐのに、その手は必要不可欠だ。
「いきりなり怒鳴ったりつねったり悪かったな。ごめん。――ありがとう。助けてくれて」
「……っはい!」
彼からの素直なお礼の言葉にぱぁっと花の咲いたように顔を明るくする彼女へ、上崎は手を差し伸べる。
「悪いついでに、もう少しだけ手伝ってくれ」
「はい、喜んで」
きゅっと包むようにその手に応える六花に、上崎もまたその手を守るためにと、静かな決意と闘志を燃やしていた。




