序章 彼岸の獣
その少年は、ただ一振りの剣であった。
*
あの世は存在するのか。
ありきたりなその命題に意味はない。どれほどの言葉を尽くしたところで、それが至ることのできる結論はただ一つ。――『死ななければ分からない』
だからこそ。
ここに住まう人々の誰もが、こう答えるのだ。
――あの世はある、と。
「――はっ、はっ……!」
天界。
死者の魂が行きつく世界。
おどろおどろしい地獄でも、至上の極楽が待つ天国でもない。現世と何ら変わりなく、ただ魂の寿命が尽きるまでの時間を過ごすだけの、『もう一つの現実』とでも呼ぶようなそんな世界。それが『あの世』の正体だった。
そんな天界の、日本の、穏やかな都市部。その一角。
春先の宵闇を割るように、二つの影が疾駆していた。
一つは少女。
高校のものと思わしき制服に身を包んだ彼女は、長い栗色の髪を振り乱し、すらりと細い体に鞭を打つように息を切らしながら必死に逃げ惑っている。その端正な顔立ちが今は泣きそうに崩れていた。
その背後に、もう一つの影があった。
犬のようだった。耳は鋭く尖っていて、体毛は黒く短い。筋肉質な肢体は猟犬のそれより、いささか勝っているようだった。
だが、ただそれだけではなかった。
その犬は、影をまとっていた。まるで布のように真っ黒い何かをはためかせ、アスファルトの上を駆けながら少女の頭蓋を噛み砕かんとその柘榴石の瞳を爛々と輝かせている。
その正体を、この天界にいる誰もが理解していた。
魔獣。
動物、特に人間の魂を喰らおうとする悪食の獣だ。
この天界では、魂の寿命が尽きるか、あるいは『核』という器官が破壊されない限り、魂は消えることがない。魔獣はその核を好んで食す。核はDNAや記憶のように魂の構成情報を記した情報――つまりはエネルギーの塊だ。彼らがわざわざそんな核を残す理由がない。
魔獣の爪牙にかかれば、核まで食われ魂は消えてしまう。それはこの天界において、現世で言う死とほとんど同義であった。
だから彼女は、必死に逃げる。わずかでも魂を繋ぐ為に。
しかし、大きな通りへ出てきたところで、彼女は足を止めた。
だらりと両手を下げ、まるで、何かを諦めたように。
それを察したのか、犬の形をした魔獣は五メートルほどの距離を保って止まり、彼女の出方をうかがっていた。どうやって喰らおうか、とでも考えているのかもしれない。
「――なぁんて、ね」
嘲りにも似た、小さな呟きがあった。
既に少女の顔には恐怖も絶望もなかった。あったのは、ただただ不敵な笑みだけだった。
パチン、と少女は指を鳴らす。
それと同時だった。
カッ、と辺り一帯にまばゆい光が叩きつけられる。
乱れた髪を整えている彼女の背後にあるのは、数台のカメラとスポットライトやレフ板。撮影班と思わしき数名のスタッフの姿だった。
「わたしは狩られる側じゃなくて、狩る側――魔術師だよ」
北条愛歌。
彼女は魔術師として、その犬の魔獣と対峙する。
その殺気を感じたのか魔獣は歯噛みすらなく北条を諦め、即座に撤退を選んでいた。獣の本能としては最も賢い選択だろう。
――だが間に合わない。
北条の視線が動く。それだけで、白藍色の半透明の壁が辺りを囲んでいた。それが魔獣の撤退を完全に阻んでいる。
編纂結界と呼ばれる、魔術師が魔術を行使する為に必要な空間だ。その檻から逃れようと何度か魔獣が爪を立てていたが、その程度で破壊できるほど柔ではない。
一辺二十メートルほどの立方体の中には、影をまとった魔獣と北条愛歌だけ。壁の向こうでテレビか何かのスタッフが盛り上がっている様子だが、その声すらもう届かない。可視光以外の全てが、この結界の内外で隔絶される。
「さぁ開幕の時間だし気を引き締めようか。ただの広報活動だから、負ける道理のない相手が選ばれているんだけれど」
これが魔術師の仕事。
魔獣を狩り、人々の安寧を守る。
そして同時に、職業としての周知徹底もまた。
現世にないが故に、魔獣の危険性や魔術師の重要さは常に周知しなければならない。現世での常識が邪魔をして、どうしても受け入れられがたい部分であるからだ。
こうして北条愛歌がカメラの前に立つのもその一環。
天界ではトップアイドルでもある彼女を表に立たせることで、より分かりやすく魔術師という存在を世間、正確には死んだばかりの人々に知らしめようとしているのだ。
まさしく茶番そのものだった。
その標的にされたのが、この小さな犬の魔獣――カテゴリー3、固有名アンダードッグだ。
知能のない獣でもこの見世物にさせられているという空気は感じ取れたのかもしれない。犬の魔獣は怒りに任せた咆哮と共に北条へと牙を剥いていた。
「ノリがいいのは結構だけど、少し気が早いかな。――もっとゆっくり楽しみましょう? イントロって大事なんだから」
迫る魔獣を前に笑みを浮かべたまま、北条愛歌は避ける素振りさえ見せない。
代わりにあったのは、一条の閃光だった。
とっさに転身した魔獣のまとう影をその閃光は射貫き、焼け焦げたような穴だけを残す。
くすりと笑い、北条愛歌の開いた五指に同じような光の球が灯る。狭い編纂結界の中を逃げ惑う犬の魔獣を追い詰めるように、その光は弾丸となって駆け抜けていく。
これが魔術――オルタアーツだ。
カテゴリー1から5までで分類される魔獣だが、カテゴリー2以下は従来の小火器でもどうにか対処できる。しかしカテゴリー3からは、その見た目にそぐわぬ表皮の堅さゆえに、それで討伐することができない。
そこで編み出されたのがオルタアーツだ。まさしく魔法のように、編纂結界の中でのみ許される超常の力。己の持つエネルギーを変換して、光や炎のような自然現象を自在に生み出し、あるいは時間さえも超越して魔獣を屠る力とする。
やがて布のようにまとっていた影を吹き散らされた犬の魔獣は動きを止め、北条愛歌へ牙を剥いて唸りを上げていた。回避ではなく、北条愛歌自身へと狙いを変えたようだった。
「さぁ、いい感じに盛り上がってきた頃かな。――じゃあ、そろそろサビに向かおうか」
ひらりと、その場で北条が舞うように手を動かす。まるで陽炎のように空間が揺らめき、気づけば彼女の手には一本の武器が生み出されていた。
銀槍だった。彼女の身長を優に超える三つ又の槍。その穂先は雪の結晶にも似ていた。
これが『ジェネレート』と呼ばれるオルタアーツ。
自身の魂の一部を書き換え、対魔獣専用の武器として再構築した、物質的な硬度や性質を凌駕する最強の矛。編纂結界の中でしか生成できないという制限はあるものの、魔獣との戦闘においては必要十分な戦力だ。
その槍をまるでマイクスタンドパフォーマンスさながらに振り回し、彼女は眼前の魔獣へと穂先を突きつけてぴたりと動きを止めた。
一瞬の膠着、先に動いたのは魔獣だった。
闇夜に輝く牙を突き立てんと、飛び上がって彼女へ迫る。
だが、北条愛歌は極めて冷静だった。
閃光の弾丸はおろか手にした銀槍さえ使わない。くるりと踊るように半回転。それだけで魔獣の牙は虚空を裂き、北条のすらりと伸びた足がそのがら空きの背を蹴飛ばした。
女子の筋力からは想像もできない音がして、魔獣は五メートル以上を吹き飛んでアスファルトの上を転がった。
これもまたオルタアーツ、『フィジカルエンチャント』と呼ばれる身体能力強化術式だ。流石に直接ダメージを与えるほどではないが、魔獣の動きと同等、あるいは凌駕するほどの超人的な身体能力を手に入れることができる。
決して一方的には見せなかった。アイドルというイメージを守るべく、番組スタッフから指示されていたとおりに、彼女は踊るように魔獣を手玉に取っている。
走り回り、飛び上がり、様々な動きで攪乱しようとする魔獣に対し、北条愛歌は流麗な舞を連想させる動きだけであらゆる攻撃を回避してみせる。器用に槍の尖端からいくつもの閃光を撃ち放ち、アンダードッグの動きを制限しながら。――もはやそれは、あらかじめ打ち合わせていた殺陣のようですらあった。
そして、終焉は一瞬だった。
魔獣の見せた隙を北条は見逃さなかった。爪を振り降ろさんと空中から矢のように向かってくるアンダードッグを迎え撃つように、北条は槍を突き出した。
一撃。それだけで弾丸すら跳ね返す身体は頭から串刺しにされた。
涎をだらだらと垂らしたまま、魔獣は目の前にある北条の姿を睨んでいた。だが、もう既に魔獣の核は破壊されている。
その牙は決して届くことなく、闇に溶けるように身体は粉々に弾けて消えた。
無傷の勝利も、彼女にとっては当たり前の結末。
くるくると槍を振り回しポーズを決めて、彼女はカメラ目線でアイドルらしい笑顔を見せた。
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