一 始まり
江戸中期だと思われる時代の、とある藩。
山もあり、海に面してもいるという豊かな土地で、ある子供が死に、ある子供が産まれた。
死んだ子供は誰にも悲しまれる事なく死んだ。
産まれた子供は誰からも祝福されながら産まれた。
この数奇な運命の巡り合わせを、一体誰が止められよう。
穏やかな昼下がりに、藩邸には側近の声が響いていた。
「姫様、姫様!姫様はおられまするか!?」
側近の深みある声は、既に怒りに近くなっている。
そのまま姫様とやらが出て行けば、すぐに首根っこを捕まれて引きずられそうな感じだ。
「あ、遊佐の息子!姫様を見なかったか!?」
彼が捕まえたのは姫ではなく、姫が良く遊んでいる武家の息子、遊佐あきらだった。
「なにすんだよ翁」
手を振り払い、あきらは怪訝そうに翁を見る。動作とは裏腹に、親しみのこもった瞳だ。
「姫様がまた脱走なされたんだ。今日はお見合いを予定していたのに…」
翁の言葉を聞いたあきらは、あっはっはと盛大に笑い出した。
「な、…何が可笑しいっ?」
「いやさ、彼奴に見合いなんか無理だって。今頃、宗助さんあたりと睨み合ってんじゃない?」一瞬翁はほうけていたが、すぐになるほどと理解したようだ。
あきらに別れを告げ、スタスタと歩き去った。
その後ろ姿を見ながら、あきらは呟く。
「…一生かけても無理だよ、翁」
因幡宗助。
この城下で一番剣の腕があり、城下に大きな道場を構えている青年だ。
人あたりが良く誰からも好かれており、城主からの信頼もある。その為、城内道場の師は彼に任されていた。
その、道場で。
防具を付け、竹刀を握る艶やかな少女。
ツヤのある黒髪、白い肌。瞳も綺麗な黒瞳だ。
対するは温和な表情の青年。髪が少し長めで、後ろで結っている。
少女は姫こと萬宮燕。
青年は因幡宗助。
「燕ちゃん、今日はここら辺で終わりにしないかい?」
宗助は竹刀を引き、少し言いづらそうに言った。
その言葉に燕はえー、と顔を上げる。
「何で何で?今日もお夢さんに会うから?」
「つ、燕ちゃんっ!?」
面を取り、燕はしてやったりとばかりに笑う。
対する宗助は未だにあたふたと慌て、顔を真っ赤にしていた。
お夢とは、宗助が二日に一度くらい会いに行く、いわゆる恋人だ。
一度だけ燕も見た事があるが、色白で微笑んだ顔が綺麗な人だったと記憶している。
燕は落ち着いてきた宗助を見ながら言った。
「良いな宗助さん。あたしもそーゆう人見つけたいな」
「見つける為に今日の見合いがあるのでは?」
「それがさー、見合い相手って言ったら……」
自然と燕の言葉が止まる。何故なら、見つける為に…を言ったのが宗助ではなかったから。
それを言った奴の事を凝視しながら、しばらくの沈黙が続く。
「……………………翁」
ぽつりと燕が呟く。
「姫様、今日は見合いでございますよ」
静かに言いながら、翁は燕の手を掴んだ。
「えっ、やだ、見合いは嫌だって言ってるじゃ…」
その言葉も、翁によって遮られる。翁が燕の腕を掴む力を強めたのだ。
「痛いよ翁」
やめて、と請う訳でもなく、燕は真っ向から睨み付けた。
翁は老いていても男、背は燕より断然ある。それでも燕は、翁を見上げながら睨んだ。
「…燕ちゃん」
沈黙を破ったのは宗助だった。諭すように、静かな口調で、燕の名前を呼ぶ。
「………わかった」
燕はそっぽを向きつつも、宗助の意見を聞き、案外簡単に折れた。
「因幡の息子よ、恩に着る…!」
そう言いながら、翁は燕と城へ帰った。燕は宗助の言う事なら大抵は聞くのだ、翁にとっては道場がやりやすい。
言ってしまえば、宗助さえいれば翁の勝ちなのだから。
「じゃあまたね、燕ちゃん」
宗助は穏やかに微笑み、燕に手を振った。
それに燕は一礼で応える。いつもはからかったりしているけれど、宗助は剣術の師匠である。
だからこそ、燕はきちんとする所はきちんとしたかった。
城内に入ると、ちょうど見合い相手が城門を出た所だった。
「あ、大江様…!」
翁が蒼白になり、大江という隣国藩主の息子の元へ駆け出した。
しばらく二人は何かを話し、それから翁だけが戻って来る。
「姫様、大江様はお怒りでしたよ」
「別に構わないよ、あたしはあんな人と結婚するなんて嫌だもの」
燕はサラッと言い捨てると、自分の部屋に戻ってしまった。
「なーにが見合いよ」
ダンダンと廊下を踏み鳴らし、燕は自室の障子を勢い良く開ける。
後ろから、ぱたぱたと走って来る足音が聞こえた。
「ひ、姫様お帰りなさいませ」
背が低くおどおどとした態度の少女。
一応は姫である燕の世話を担当する、お翠という子だ。
「きょ、今日も翁様を撒かれたのでしょう?」
にこ、と微笑みながら問いかける。翠は数少ない燕の理解者なのだ。
「まぁね」
「お疲れ様です」
翠は微笑み、そういえばと話し始めた。
「今日、遊佐様がお越しでしたよ」
「あきらが!?」
今まで静かだった燕が、ずぃ、と身を乗り出した。翠は驚きながらも頷く。
「それで、何て?」
あまりの豹変ぶりに苦笑しながら、翠は燕の問に答えてやる。
「ご用件はお告げになりませんでした。しかし、これを渡すようにと」
綺麗に折り畳まれた手紙。翠はそれを丁寧な手つきで燕に渡した。
翠から受け取った手紙を、燕はその場で読む。
そして、それを読み終えたらしい燕は、顔色を失った。
「姫様っ?どうかなさいましたか?」
慌てて翠が立ち上がる。
「いや…これ持って来たとき、あきらは何も言って無かったんだよね?」
「は、はい…」
翠は良くわからないまま、頷く。
それから、燕に一度出て行くよう言われ、翠は燕の部屋を出た。