第一章 セイヴ・オブ・クラウンズ -2-
「どう、なって……?」
ぽつんと、一人取り残されたような途方もない不安感に襲われながら、朱鳥はただ見たことのない街で立ち尽くすしかなかった。
どうにかこうにか思考を整理しようとするが、まず目の前の風景がまともな思考力をとことん奪っていく。ぐらぐらと揺れる頭か、それとも痛いくらいに心臓の暴れる胸か、どちらを抑えれば落ち着くのだろうか。そんな逃避ぎみの思考が関の山だった。
浅い呼吸を繰り返しながら、辺りを見渡す。
そこで、ようやくのように気付いた。
おかしな樹があった。遠近感さえ狂うほどの巨大な、黄金の大樹だ。直視するのさえ難しいほどの輝きは、いっそ神々しささえある。見上げてみた空は十分に暗いのだが、その輝きのせいでこの都市全体が昼間のように照らされているのだ。
見覚えなどあるはずがない。現実にそんな輝く樹など存在するはずがないし、そもそもサイズがおかしい。朱鳥の知る一番大きな樹は、せいぜいCMで見るあのモンキーポッドくらいだ。
だがそれでも、朱鳥はそれを知っていると、そう言わざるを得なかった。
その黄金に輝く大樹は、あの『セイヴ・オブ・クラウンズ』のイラストに描かれていたものと、全くの同一だったから。
「何だよ、これ……っ」
――夢を見ているのだろうか。だが、いったいいつの間に寝たと言うのだ。そもそも、頬を撫でるこの風の感触一つ取っても、鮮明すぎる程に鮮明だと言うのに。
禅問答のように堂々巡りを続けるそんな自問自答に、いっそ吐き気すら覚えた。がくがくと脚が震えている。深淵を覗き込んだみたいな、どうしようもない恐怖がこの身を包んでいる。
そんな中だった。
「おにーさん」
柔らかな声と共に肩を叩かれ、朱鳥は跳ねるようにして振り返った。そのオーバー過ぎるリアクションのせいで、声をかけた方の少女がびくっと怯えてしまったくらいだ。
「え、あ……?」
「おにーさん、もしかしてSoCは初めてなの?」
まだ全く状況が呑み込めていない朱鳥に対して、迷子でもあやすみたいにその少女はにこやかな笑みを向け続けてくれていた。
おそらくは年下――それも雪乃よりも小さそうな、せいぜい中学生の大人しそうな少女だった。華奢なその見た目は、こんな状況でも籖欲を刺激されそうになるくらいだ。
下はデニムのホットパンツにデニール高めの黒タイツ、上はTシャツにニットカーディガン。セミロングの黒髪はリボンを模ったピンで留めていて、何だか歳や外見の印象とは裏腹に男受けを狙っているような気がした。どこか違和感がなくもなかったが、最近は小学生でもメイクをすると言うし、このくらいの歳の女の子が背伸びし始めるのも当然だろう、と朱鳥は呑み込んでおく。
「なに、おにーさん。僕のことをじろじろ見て」
くすくす笑いながら、冗談交じりに彼女は身体を隠すような仕草をする、そんな彼女に、朱鳥は慌てて手を振って否定した。
「いや、違うんだ。ごめんな、この状況に頭が追いつかなくて……」
バツが悪そうに朱鳥はぐしゃぐしゃと髪を掻きながらそう答えた。それだけの余裕は取り戻せたのだが、しかし、依然としてこの状況に理解が追いついていないことは変わりない。
「っていうことは、やっぱり初心者なんだね。偶然プレイしちゃった系かな」
そう言いながら、彼女は朱鳥に手を差し伸べてきた。
「ここで会ったのも何かの縁。よかったら、僕が説明してあげようか? あ、僕の名前は新見みどり。よろしくね、おにーさん」
「あ、あぁ。俺は朱鳥大輝。悪いけどお願いするよ」
そう答えながら、朱鳥は手を握り返す。柔らかな掌の感触の中に硬さがあったのは、何か運動でもしているからだろうか。
「まぁ初心者には親切にしてあげるものだよね」
「な、なんて優しい子なんだ……。俺の後輩にも見習ってほしい……」
頭に浮かんだ尊敬度ゼロの後輩と目の前の彼女――新見と比べてしまい、思わず涙が出そうだった。
「あははー。流石にその後輩さんに失礼だよ? それにほら、こういうのは先輩プレイヤーの務めだしね。気にしないでよ」
「……え? 待ってくれ。プレイヤー? って、おい、これ、まさか――ッ!?」
「あれ、まだその認識の確認から必要だった? そうだよ」
そう言って、彼女――新見みどりは両腕をばっと広げて、大仰な仕草で後ろの風景を見せた。
「ここは対戦ロボット格闘ゲーム、セイヴ・オブ・クラウンズ――SoCの世界――『アリスゲート』の中央都市『セントラル』だよ」
ここがあのゲームの中だと、彼女は言った。
何を言っているんだ、と、そう笑い飛ばしたいくらい突飛な言葉だった。つい五分前なら、こんな言葉を聞いた瞬間に相手の正気を疑っていただろう。
だが、それは今や出来なかった
目の前にそびえ立つ巨大な黄金の樹木が、そんな当たり前をとっくの昔に破壊し尽くしてしまった後だったから。
「まさか、世界中のプレイヤーがここにいるって言うのか……?」
「残念。そんな人数がいたら、今頃ここはスクランブル交差点も真っ青だよ」
そんな風に彼女に笑われて、朱鳥も確かにと納得した。先程から辺りを見渡しても、ほとんど人通りはなさそうだ。――そもそも、プレイヤー全員がこんな目に遭うのなら、ニュースにしろネットにしろとっくの昔に話題になっているはずだ。呑気にゲームランキングの真ん中くらいに居座っている場合ではない。
「ここに凝られるプレイヤーが、何かの法則で選ばれてるってのか? どうやって?」
「その質問が『How』を訊いているなら答えられないよ。僕も知らないもの。けど『What』を尋ねているなら答えられる。どういう基準で選ばれているか、って言うならね」
そう言って、彼女は朱鳥の額を指差した。まるで、その奥に鍵が眠っているとでも言うかのように。
「能力者。それがこのゲームにおいて、本当に世界を渡って『アリスゲート』へと至ることの出来る、唯一にして絶対の条件なんだよ」
言われて、しかしどうしようもないくらい朱鳥には理解が出来なかった。本当に夢ではないのかと、そう思うくらい無茶苦茶だ。
けれど、もうこれは事実だと、受け入れるしかない。実際、未来視の能力に気付いたときだって受け入れ難かったがそう時間が経たない内に受け入れてしまった。あの経験に比べれば、もう大抵のことは受け入れる用意が出来ている。
「ってことは、君も?」
「もちろん。あぁ、でも能力は教えられないよ? ここではそういうのを訊くのはマナー違反だから。女性に年齢を訊くようなものかな。――あれ、そう言えば『おにーさん』で合ってるよね? 実は同い年とか?」
「十七だけど」
「あぁ、じゃあ大丈夫だ。うんうん、おにーさんって響きは良いよね」
何だか人懐っこさを感じる物言いに、気付けば朱鳥も気を緩めていた。後輩の雪乃の使う『センパイ』という呼称など一切敬意が感じられないのに対し、この『おにーさん』という響きの何と甘美なことか。
「おにーさん、何か気持ち悪い顔してるね……」
「あ、でもやっぱり雪乃と一緒で容赦ないな、この子……」
最近の女の子はみんなこうなのだろうか、と少し気落ちした朱鳥は、これ以上変なことを言われないよう露骨に話をスライドさせた。
「それでさ。ここで能力者を集めて、いったい何をしてるんだよ?」
「主催者の考えは僕にも分からないかな。けど、プレイヤーたちのやることは決まってるね」
そう言って、彼女は五指を開いた。
「このゲームにはVer.X.0からVer.X.4までがある。それぞれにクリア条件があって、個人のプレイヤーか、あるいはそれが集まって作るスクワッドがそれを達成することでゲームクリア。彼らには、報酬が与えられるんだよ」
「報酬……?」
「そう。願いを叶える権利が、ね。Ver.X.0からVer.X.3までなら、まぁお金で済む問題なら大抵が叶う感じだね。――そして、Ver.X.4なら何だって叶う。それこそ、神の摂理を覆す奇跡だってね。ちなみに、今の現行はVer.4.1だよ」
一瞬、さっきまでとはまるで違う意味で心臓が跳ねた。こんな世界の存在はまだ半信半疑だと言うのに、それでも、確かにその報酬はあまりに魅力的だった。
「……本気で言ってるのか? いくら何でも、都合がよすぎる」
「もちろん本気だし、騙す気もないよ。これが僕らが『裏』って呼んでるSoCの本当の姿。――と言っても、そんな言葉だけじゃおにーさんも納得できないよね。だから見せてあげるよ」
そう言って、彼女はお尻のポケットに手を入れ、何かを取り出した。
それは、眼鏡のレンズくらいはある大きな歯車だった。ただ、中が本当にレンズのようになっていて、印象はむしろ歯車と言うよりモノクルに近いかもしれない。
「何だ、それ……?」
「あれ、本当に何も知らないんだね。もしかして、攻略サイトとかネットの評判記事とかでゲームの基本設定も読んでない感じ?」
そう言って、彼女はその歯車を自分の右目の前にかざした。
「これは端末だよ。この歯車の中央がレンズになっていて、AR機能でゲームの様々な情報をくれる。たとえば、機体の破損状況とかレーダーとかね」
「機体って、そうか。これはロボットゲームだよな」
「そう。そしてこれが虹彩認証になっててね。認証に成功すれば、この『アリスゲート』の好きな個所に自分の機体を転送できるの。――こんな風に」
パチン、と指を鳴らす。
同時だった。
彼女の背に、突如三メートル四方の銀色の立方体が姿を現した。
地面が割れてそこから生えてきた訳でも、空から落ちてきた訳でもない。ただ、まるで初めからずっとそこにあったとでも言うかのように、何の前触れもなく現れたのだ。
「な、何が……!?」
「驚くことじゃないでしょ? ただの瞬間移動だよ」
何でもないように言って、彼女はその箱に触れる。すると、それだけで認証が済んだのかスポーツカーのウィングドアみたいに箱の前面が開いた。
そこにあったのは、深緑を基調にした二メートルほどのロボットのような鎧だった。重厚な、まるで大樹そのもののような巨躯がそこに静かに鎮座していた。
「これがクラウンギア。いわゆるパワードスーツってやつだね」
「これで、戦い合うのか」
「そうだよ。誰にも譲れない自分の願いを叶える為にね」
そう言って、彼女はパンと手を叩いた。
「さて、僕からのレクチャーは大まかに終了した感じだけど。他に聞きたいことは?」
「ログアウト……。そう、ログアウトはどうするんだ?」
まさか出来ないなんてことがあるのでは、と危惧して不安が表情に出ていたのか。焦った朱鳥を見て、新見みどりはくすりと笑った。
「大丈夫、大丈夫。ログインもログアウトも自由に出来るよ。まずは僕みたいに歯車を目に当てて。そうすればARで大抵のコマンドは使えるようになるから」
ほっと胸を撫でおろしながら、ふと朱鳥は自分の手を見る。
状況が状況だったせいで全く気にする余裕すらなかったが、よく見ずとも、手にあったはずの端末が消えて、大きな歯車に姿を変えていた。
「これが……?」
「そう。どういう理屈か、自動でログイン端末が歯車にコンバートされるんだよ。まぁその辺はさっきのクラウンギアの瞬間移動だって不思議ではあるから、気にしたら負けだよ」
さぁ、と彼女に促されて、朱鳥はそれを右目にかざした。同時、ふわりと磁力にも似た力が働いて、自然に右目の前で静止した。左右どちらの方向を向いても、その歯車は一ミリの誤差もなく一秒のずれもなく追従してくる。
「今は虹彩登録中。それが完了すれば、起動するよ」
言われると同時、歯車がくるくると回り始める。――と言っても、既に視界は歯車の内側のレンズ部分しか見えていないので、左目側の微かな視界と空気の流れでしかそれは感じ取れなかったが。
やがて回転を止めたレンズの中央に、何かが映った。
地面の方から、まるで3Dプリンターで印刷でもしているかのように、徐々にその姿が浮き彫りになっていく。
パンプスがあった。女性の脚だった。それが純白のニーハイソックスで覆われていて、その上には白のフリルのついた黒いミニスカート。ワンピースタイプだったそれは上体も包んでいて、スリットで肩が見えるようになっている、可愛らしい服だった。
現れたのは、身長は一七〇センチの朱鳥とそうは変わらない、可愛らしい――そして、メイドの女の子だった。頭にはきっちりと白のカチューシャのようなものを付けていて、さっとスカートを摘まんで恭しくお辞儀をする。
「お初にお目にかかります、我がご主人様。わたくしは、ユーザー名『アスカ』様に与えられたサポートAIでございます」
「AI……? え、これが?」
助けを求めるように新見みどりの方を向いてみるが、彼女はただ首を横に振った。
「それ、おにーさんの歯車にしか映ってないから。音声も歯車の極小のスピーカーからの指向音声で僕にも聞こえないし。まぁ、初めの内はAIに頼るのも手だよ。訊けば大抵は何でも答えてくれるんだから」
「そ、そうなのか」
改めて、そのサポートAIとやらの彼女を凝視してみるが、どこからどう見ても人だった。確かに表示された物らしく動きにはどこか違和感があるものの、容姿は完全に普通の人間と区別がつかない。不気味の谷、なんて言葉はどこかに消えてしまっている。
「お、女の子なのか……?」
「サポートAIに性別はありません」
「でも、その格好はどう見てもメイド服だし」
「サポートAIに性別はありません」
AIだから同じ返答しか出来ないのだろうか、とも思ったが、どうにも違う。何と言うか、二回目の物言いには『それ以上触れるな』という風な圧があったような気がした。
「……やっぱり女の子だよね?」
「俺に性別はねぇって言ってんだろうが、ぶっ殺すぞ」
地雷を踏んでみたらガンを飛ばしながら男みたいな低い声で脅されてしまい、もう朱鳥には何も言えなかった。その辺りはコンピュータプログラムだから自由自在なのだろう。一瞬にして朱鳥が縮み上がるくらいにはどすの利いた声だった。
「あの、名前を尋ねても……?」
「サポートAIに名前はありません。如何様にでもお呼び下さいませ」
おどおどと尋ねる朱鳥に対しコロッと元のメイドボイスに戻りながら、また彼女はお辞儀をする。
「え、名前を決めるシークエンスあんの……? えっと、えっと……」
AIだから『アイ』なんてどうだろう。あ、でもプレイヤーみんなにサポートAIがいるみたいな口ぶりだったし、名前としては日本人だからニホンちゃん、みたいな適当さじゃないかこれ――なんていう思考が朱鳥の中を駆け巡っていく中で、彼女の記号を一つ抜き出すことにした。
「メイド服だし、メイでどうだろう……?」
「……性別は女性ではありませんが、ご主人様が考えて下さったそのお名前、ありがたく頂戴いたします」
最初の前置きにはやや不満があったようにも感じられたが、流石にコンピュータプログラムのAIにそこまで感情はないだろう、ということで勘違いと思うことにした。
「サポートAIとの最初の邂逅は済んだ?」
「あぁ。とりあえず今日はもうログアウトしたいくらいなんだが……」
「まぁまぁ。ここまでおにーさんに親切にしたんだし、僕にも付き合ってくれない?」
「それは別にいいけど……。大したことは出来ないぞ?」
「別に大丈夫だよ。ただ、おにーさんの初期機体を見せてほしいんだ」
そう言って、彼女は自分の後ろに鎮座しているクラウンギアを指す。
「やっぱりこの『裏』のSoCの醍醐味って、リアルにロボットに触れることだと思うんだよねぇ。出来れば対戦とか関係ないところでじっくり観察したいくらい!」
「あぁ、そういうこと。別にいいよ」
そう言って朱鳥はメイドのAI――メイの方を向く。
「それで、俺のクラウンギアってどうすれば見られるんだ?」
「基本的にギアは脳波を読み取ることが出来ますので、慣れれば念じるだけで可能です。――が、今回は発声コマンドとしてわたくしが承ります」
そう言ってメイがにこりと微笑むと同時。
彼女の背後に、新見みどりのときと同じように銀色の巨大なコンテナが姿を現した。
「こちらがご主人様の初期クラウンギアになります。加えて申し上げれば、わたくしはこのクラウンギアに付随するサポートAIです。今後他のオリジナルのクラウンギアを使用する際にはそれぞれのサポートAIが起動することになりますのでご留意を」
既定のセリフだったか、当たり前ではあるが噛むこともなくすらすらと言って、彼女はその箱の横にまで下がった。さぁ開けてみろ、とでも言うかのように。
ごくり、と思わず喉が鳴った。
そんなにこのゲームにもクラウンギアと言うものにも興味があった訳では決してない。何なら、今でもこの日現実的な出来事に思考はパンクの一歩手前にいるくらいだ。
しかし、それでもなお、目の前にある箱の奥に、意識が吸い寄せられていく。
ゆっくりと、けれど確かな足取りで、朱鳥はその箱に近づいた。やがて、その指先がコンテナの一部に触れると同時、何かの認証が働いたのか、ゆっくりとその重い壁が開いていった。
闇の中には、真紅の機体が佇んでいた。
紅い、紅い機体だった。二メートルほどの機体を滾る炎のような赤のグラデーションに染めたその姿は、見ているだけで焼き焦がされそうなほどの迫力があった。
背に当たる部分には、白い翼のような装備があった。鳥類と言うよりは、コオモリやドラゴンのような、そういうつるりとしたものだ。右腕にはそれと同じデザインの、山すら両断せしめるような、機体の全長を優に超す大剣が握られている。
見れば見るほど、引き込まれていく。その炎のような輝きに、心が吸い寄せられる。
「これが、俺の機体……?」
「はい、ご主人様。これがあなたの機体――EXC-01 イクスドライヴでございます」
そっと、その機体に朱鳥は触れた。ひんやりとした感触の奥に、どこかひりつくような熱さを感じた。何故だか、気分が高ぶってくる。
「へぇ。おにーさんの機体はイクスドライヴか。Ver.1.4のクリア機体。いやぁ、初期機体はランダムっていうけど、それはかなりの幸運だよ。この『裏』じゃリセマラなんて出来ないし」
不思議な高揚感に包まれている朱鳥の傍に立って、まるで品定めでもするように新見みどりはそう呟いていた。
「――これなら、十分かな」
「ん? 何が十分なんだよ?」
「何でも。――それよりおにーさん。これも何かの縁だし、フレンド登録しない?」
「別にいいけど、これからもこのゲームをやるって決めた訳じゃないぞ」
「いいよ、別に。気が向いて来たときに挨拶してくれるくらいでさ」
そう言って、新見みどりは何もないところで手を振っていた。――おそらく、ARで彼女にだけ見えているウィンドウがあるのだろう。
「はい、申請するよ」
「あぁ」
言われて、自分の方の視界にも謎のウィンドウがポップアップした。ARで視界に画面が表示されると言うのは慣れない感覚で、思わず驚いてしまう。
「ほらほら、イエスって押すだけだよ」
「分かってるよ」
そう言って、赤く光る『YES』のボタンをAR上で押した直後。
朱鳥の目に、ようやくのようにそのウィンドウのタイトルが映った。
「……って、バトル申請……?」
表示されていたのは、『Fight Request』という文字列。フレンド申請でないことくらい、未来視のカンニングに頼っている朱鳥の頭でも理解できる。
「おにーさんさぁ」
ため息交じりの声がする。
朱鳥のAR上に制限時間やレーダー、機体の状況などの情報アイコンが表示されていく中で、新見みどりのその不気味な笑顔だけに焦点が合っていた。
「せっかくだから、いくつか忠告してあげる」
そう言って、彼女は一つ指を立てた。
「まず、知らない人には名乗られたからって名前を名乗らない。仮にもこれはゲームなんだからさ。――まぁ、その辺りは本名を名乗りまくってる僕が言えた義理ではないけれど」
「何を……」
言葉は続かない。
ただ、新見みどりはゆっくりと自分が転送させた緑の機体によじ登り、そのクラウンギアを身に纏っていく。
どうしようもない絶望感と焦燥感が、足元から朱鳥を呑み込んでいく。
「もう一つ。親切にしてくれたからって、初対面の相手を信用し過ぎちゃいけないよ。年下の女の子だと思って油断し過ぎ。申請の内容くらい確認しなきゃ。初心者に新設にするのも先輩プレイヤーの役目だけれど、初心者を騙すのも先輩プレイヤーの趣味だからさ」
「何を、言って……」
「最後に、何でも見た目で決めつけちゃ駄目だよ」
もはや朱鳥に何も言わせる気はないと、そう告げる代わりに。
彼女は前髪のピンを外した。
「僕の本名は新見碧。――僕、男だから」
そう言って彼女――いや、彼は獰猛に笑う。
直後、その深緑の銃口が朱鳥の額を捉えた。