第二章 六花 -8-
怒号が、朱鳥の身を叩く。
聞き覚えのあるなんて話じゃなかった。その声を、朱鳥が間違えるはずがなかった。
この少し高い少女らしい声そのものも。
朱鳥のことを『センパイ』なんて呼ぶのも。
全部たった一人の少女――姫咲雪乃のそれだ。
「うそ、だ……」
そんな言葉に、果たして意味があったのか。――どうせ、自分が一番よく分かっていたのに。
初めて朱鳥がSoCに興味を示したとき、何故か雪乃は必要以上にそれを止めようとしていた。変なオカルトめいた噂話を聞かせてまで、だ。
そのオカルトの内容も、おかしなものだ。火のないところに煙は立たないと言うのなら、それはきっと裏のSoCのことを伝えているのだろう。――だが、そもそも一般人には裏のSoCにログインした人間の存在を知る術がない。例え目の前でアリスゲートに転移したって、初めからいなかったのと変わらず過ごしていくのだろう。
神隠し、なんて噂が立つ道理がない。だからそれは、雪乃の作り話でなければならない。
だったら、分かっていたことだ。彼女は、初めからこちら側の人間であったと。
だから、彼女はそんな嘘をつけた。能力者がログインすればこの裏の世界に引きずり込まれることを理解していたから、とっさに思いついたオカルト話で朱鳥を遠ざけようとしたのだ。
その末路が、こんなことになるだなんて誰が予想しただろう。
「……センパイ、あたし、あんなにログインしないでって言ったのに」
いたずらした子供を叱るみたいな穏やかな口調だった。――その顔を、悲痛に歪めさせていなければ、心地よくすらあったかもしれない。
「……ゴメン。俺も、こんなことになるなんて思ってなかったから」
「悪いとは、思ってくれるんですね。――だったら、その呵責を胸に今は退いて下さい」
そう言って、リッカ――いや、雪乃は朱鳥に氷の刃を突き付けた。
「これはあたしとお姉ちゃんの問題なんです。センパイには関係ない」
「……駄目だよ」
そう言って、朱鳥は首を横に振った。
彼女に刃を向ける覚悟もないくせに、それでも。
「それは出来ない」
「どうして」
「ミツキさんは、俺の恩人だ。復讐を果たさせる訳にはいかない。――お前こそ、踏み止まってくれよ……っ」
朱鳥はただ、懇願した。年上だとか先輩だとか、そんなことはもうどうでもよかった。雪乃とミツキが傷つけ合うだなんて、そんなことを見たくなかったから。
「……やっぱり、お姉ちゃんはまだそんなことを言ってるんですね」
呆れたように、雪乃はそう言った。――けれど、朱鳥へ突き付けた切先を降ろす気配はない。
「センパイは、どこまで聞いているんです?」
「……お前が不死身になって、ミツキさんと戦ってるって」
「あぁ、そこまで知っているなら話は早いです。――それは、確かに本当ですよ。お姉ちゃんの中では、ですけどね」
そう言って、力なく彼女は笑う。
「本当に、あたしがお姉ちゃんを恨んでいるとでも? どうして、そんなことをするんですか」
「何を、言って……」
「放っておいても死ぬしかなかったあたしに、命をくれたあの人を。真っ白な病室の中でテレビとネットでしか世界を知らなかったあたしに、陽の光の温かさを、風の心地よさを、海の匂いを教えてくれたあの人を。どうして、恨めるって言うんですか……っ」
何故、とそう思った。
話が合わない。
ミツキは確かに、今一度SoCをクリアしようとしている。それは、妹であるリッカ――雪乃の不死身の呪いを解く為だ。
雪乃にはミツキと戦う理由がない。復讐心すらないと言うのなら、いったいどこに理由があるのか。
「どうして……」
「だって、お姉ちゃんはもうあたしの声も聞いてくれない。勝手に一人暮らしだって始めて、あたしにはもうどこにいるかも分からない。向き合うには、この世界で戦うしかないんです」
ミツキは、雪乃に背を向けた。彼女を見れば自分の罪の重さを見せつけられてしまうから。だから逃避した。
そんな姉に対して、雪乃は対話を望んだ。だから、ここで叩くしかなかった。
ただそれだけの話なのだ。
「センパイは、お姉ちゃんを手伝う気ですか?」
「それがあの人の望みなら。――それが、お前を助けることに繋がるなら」
「それで、お姉ちゃんが血を流してもですか……っ!?」
今にも泣きそうな顔で、彼女は吠えた。
そして、ようやく朱鳥は気付いた。
雪乃が戦う理由は復讐などでは決してない。
ただ、もう自分の為に傷付く姉の姿が見たくないから。言ったって止まらない彼女を止めるには、実力行使の他になかったから。
もう一度、雪乃を救うということは。
もう一度、命を賭けるということなのに。
「あたしは救われた。それで十分だった。なのに、あたしはあの日、何も知らないで『化け物』なんて口にした。それがどれほどお姉ちゃんを傷つけて、追い詰めるかも知らないで!」
――だから、ミツキは立ち上がってしまった。
その言葉を憎悪と受け取って、その償いをする為に。
――だから、雪乃は立ち上がらなければいけなかった。
その言葉を取り消して、その償いをする為に。
「退いて下さい、センパイ。これは、あたしたちの問題です」
その言葉が、朱鳥にはもう否定できなかった。
どうしようもない真実だ。赤の他人の朱鳥大輝に割って入れることでは、決してない。
幼いころから患っていたであろう心臓病と向き合ってきた雪乃の勇気も。
いつ死ぬとも分からない妹を見守り続けたミツキの恐怖も。
それから解き放たれた二人の感動も。
さらなる地獄を見せつけられたミツキの絶望も。
犯してしまった過ちに対する雪乃の悔恨も。
何一つ、朱鳥には理解できない。人様が勝手に頷いて、理解した気になって、訳知り顔で同情するだなんて、冒涜以外の何ものでもないだろう。
「手伝ってくれるなら、あたしの方を手伝って下さい。勝手に苦しんで、自己嫌悪に陥って、身動きの取れなくなっているお姉ちゃんを救う為に。きちんとあたしが謝る為に」
「……それじゃあ、お前が救われない」
「じゃあ、お姉ちゃんに任せれば救われるって? Ver.2.4はクリアできましたよ。けれど、3.4ではお姉ちゃんは惨敗した。きっとこれから先だって、何度だって傷付くんです。あたしを助けることが出来るまで。――そんなの、あたしには耐えられない」
だから、と彼女は言った。
「あたしのSoCに懸ける願いはただ一つ。この世界の完全閉鎖です。もう二度と、下手な希望でお姉ちゃんを傷付かせてしまうことがないように。きっちり、この場で終わらせるんです」
その覚悟は、並大抵のものではないだろう。だって、セイヴ・オブ・クラウンズを閉鎖してしまえば、奇跡を叶えるチャンスを失う。クリア報酬によって雪乃の『不死身の呪い』を解く術は永遠に失われる。
彼女自身がその身を元に戻すように願えばいいように思えた。だが、ミツキが犯したようにたった一つの齟齬で全ては台無しになるかもしれない。もしかしたら、心臓病だって治っていなかったことにされるかもしれない。そうなれば、またきっとミツキは立ち上がろうとする。
それを止めるなら、もう自分の呪いを諦めたって、この世界を鎖すほかないのだ。それでも、彼女は姉を護りたいと願ったのだ。
どうすればいい、と朱鳥は自問を繰り返した。
けれど、答えは出ない。
ただ分かるのは、こんなことを続けてはいけないと言うことだけだ。
「……雪乃。通信妨害のチャフを解いてくれ。ミツキさんを俺が説得する」
きっと、これは悲しいすれ違い。
ちゃんと話し合えば、こんな風に殴り合う必要なんかなくなるはずだ。
そう思って、朱鳥はそんなことを言った。
一瞬、雪乃は何かを言おうとしていた様子だった。だが、ぐっと呑み込んで刃を降ろした。それに合わせるように、周囲の雪が解けるように消えていく。
「――ミツキさん」
「よかった、無事だったんだね!」
通信が途絶えていたことで、ミツキも心配していたのだろう。顔は見えないが、安堵の色がその声から感じ取れた。
「リッカと――雪乃と話をしました」
「――ッ」
息を飲む音がした。間違いなく、空気が張り詰めていくのが分かる。
「雪乃は、別に復讐なんて――」
「うる、さい」
朱鳥の言葉が、彼女に遮られた。決して語気は強くないのに、有無を言わせぬ力があった。
どうしようもない違和感が、初めからあった。
――悲しいすれ違いなんて、そもそも、ミツキに理性が残っていたなら起こるはずもなかったのだから。
「アスカくんに、何が分かるの? あの日、あの子は自分の身体を見て『化け物』って言ったの。わたしがそう言わせるものに作り替えた! 聖人君子を気取って、気持ちのいい自己犠牲に浸って彼女を救おうとして、手に入れたのがあの呪いなの! それでどうして、あの子がわたしを許してくれるの!?」
叫んでいた。喉が裂けそうなくらい、彼女は叫んでいた。
話を聞いてくれなかった。いや、きっと聞いてはいけないのだ。
彼女は、自分の過ちの大きさを正しく理解している。理解しているからこそ、それは決して許されてはいけないと思うしかなかった。
たとえ雪乃が笑顔でミツキを受け入れようとしたって、駄目なのだ。彼女自身の心が、その容赦に耐えられない。
雪乃は恨んでいると、そう思わなければ、そう思い込まなければ、自分の心が保てないところまで追いつめられてしまっているのだ。
彼女は雪乃が恨んでいると思うことで、それを罰だと思うことで、ギリギリのところで精神の均衡を保っている。
「――もし」
ぞっとするほど冷たい声がした。
彼女の姿は見えないのに、雷光で貫かれたみたいな衝撃があった。
「もしアスカくんがリッカ――雪乃ちゃんを護ると言うのなら、それは、わたしの大切な妹を呪いの中に閉じ込めるって言うのと同じだよ」
理解していたことを、理解していたままにミツキは告げる。決して逃避したり、良いように解釈したりする隙を残さない。残酷なまでの真実を以って、朱鳥の動きを縛る。
「そのときは、わたしは君を容赦なく殺すよ」
ぞわり、と全身の毛が逆立った。
同時、額に鋭い痛みが走る。抑えてうずくまると、視界が一気に遠のいた。
見下ろすのは、自らの身体。その身には真紅のクラウンギア――イクスドライヴを纏っている。もう何度も見せつけられた、自分の死の瞬間だ。
ただ。
その胸に突き付けられているのは氷の刃ではなく。
漆黒の銃身。
ミツキのクラウンギア『ベルセルク』の持つ、スナイパーライフル『アンバーレイル』だ。
「――ッ!!」
視界が急激に元に戻る。未来視の唐突な発動に、頭がまだ追いつかない。
――けれど、はっきりしていることはあった。
「ミツキさんは、本気で俺を殺す……ッ」
このまま彼女と決別しても、朱鳥を殺す相手が雪乃からミツキに変わるだけだ。
結局、何をどうすることも出来ない。
「雪乃ちゃんを救いたい。だから、わたしに手を貸して」
「お姉ちゃんを助けたい。だから、あたしに手を貸して」
二人が同時に、朱鳥に呼び掛ける。
だけど、朱鳥はそれに応えられない。
雪乃を救いたければ、ミツキの手を取るしかない。だがそうなれば、姉の犠牲をいとわない朱鳥を許せない雪乃が、朱鳥を殺すだろう。
ミツキを助けたければ、雪乃の手を取るしかない。だがそうなれば、妹の呪いを見過ごす朱鳥を許せないミツキが、朱鳥を殺すだろう。
どちらを選んでも、結果は変わらない。
初めから、もう、どうしようもなかった。勝負をする前からとっくに盤面にはチェックがかけられていた。ただ、それだけの話だ。
「……ご主人様。時間です」
どうしようもなく震える朱鳥に、AIのメイが囁く。
同時、止まった耳をつんざくような時間制限を告げる鐘が鳴る。――朱鳥の視界に浮かんでいるのは『Lose』の文字だった。初めにホイールを破壊されたダメージを引きずった結果だろう。
「……これで、センパイのパーツはあたしのものですね」
そう言って、雪乃は背を向けた。四方八方を塞がれて呼吸すら忘れた哀れな少年に、彼女は目もくれない。さよなら、なんて挨拶も残しはしない。
トリニティエンプレスのパーツを失ったのだ。もう既に、彼女たちにとって朱鳥の存在は関わり合う必要のないものにまで落ちたのだろう。
朱鳥はただ、呆然とその背を眺めるしか出来なかった。




