世界で一番重い本
ジャンル的にホラーと悩みましたが、ホラーが「読者に恐怖感を与えることを主題とした小説」とあったのでローファンにしました。さすがにこの作品で恐怖感を感じる人はあまりいないでしょうし。
しかしファンタジー要素もあまりないのですがどうしたものでしょう。
私の前に一冊の本がある。かなり大ぶりで厚みは辞書ぐらいだろうか。
手に持って読むには分厚すぎ、そして重厚で年期を感じさせる黒い装丁。
「古書」と呼ぶに相応しい見た目をして机の上に鎮座している。
もっとも、「禍々しい」という修飾が付いてしまうのだが。
ふと呼ばれた気がして、部屋に似合わない大きな仏壇に目を向ける。
線香の煙に燻されている仏壇に置かれた、白風呂敷に包まれた真新しい骨箱。
我が母よ、こんな物騒な遺産相続は不要です。
目をかすげ、恨み言をつぶやく。
しかし何の釈明もなく眉尻を下げて苦笑する母さんの顔を幻視しただけだった。
§
「大事な話があります」
母さんからそう切り出された時、私はダイニングテーブルに頬杖を付いていた。
あまり良い予感はしない。
日に日に痩せ細っていく母親。どう見ても体調に異変があるのは間違いない。
勧めるまでもなく、病院には何度も行っているが詳細は聞いていない。
聞くのが、確認するのが怖かったのかもしれない。
そして今も、普通の親子の会話に仕立てたいのかもしれない。
しかし、いつの間にか自分の背中は真っ直ぐになって固まっていた。
「大事な話ってなに?」
日頃どちらが年上か判らない砕けた口調で話す母さん。
それが丁寧だとそれだけで怖い。
なんとなく、来るべきものが来たかと身構え問う。
「二つ、残念なお知らせがあります」
「二つ……そう」
何か様子が変だ。てっきり病気について深刻な話をされると想像していた。
しかし、話は二つあるらしい。
しかもなぜか困った風ではあるが薄く笑みを浮かべている。
「まず軽めの方から」
「軽いのと重いのとあるんだ?」
「ええ。母さんね、乳癌でステージⅣ、転移していて場所も悪いです」
息を呑む、とはこのことだった。
想定していた中で最悪の病気。そして状況。
全くもって「軽く」ない。
「五年後の生存率も正直十パーセント程度です。もちろん手を尽くした前提で」
「手を……尽くすしかないじゃない……」
当然のことを当然として言う。
父親もおらず、決して裕福とは言えないが極貧でもない。
会社の福利厚生はもちろん、生命保険にマニアかと思うほど手を出していた。
それらを駆使すれば、いろんな治療が出来るはずだ。
私の結婚資金にと結構貯めてもいたが、それも突っ込めばいい。
しかし、続けた母さんの言葉は理解のできないものだった。
「結論から言うと手を尽くしません」
「諦めるの? 頑張ってるうちにいい薬とか出来るかもしれないじゃない!」
「二つ目の、重い方に関するリスクが大きすぎるからです」
逃げたいというのもあるわよね、とつぶやきながらテーブルの下を覗き込む。
そしてごそごそと取り出したのはいつも持ち歩いている大きな革の鞄だった。
それは女性が持つにはいささか以上に無骨なデザインで傷だらけの鞄。
私が小さな頃から記憶している限り、母さんはこの鞄をいつも持っていた。
何かの節目で記念写真を撮っても、常に母さんはその鞄を抱えていたはずだ。
入学式の時も、卒業式の時も、合格発表の日も。
「これが二つ目の大事な話」
鞄がテーブルの上にごとりと置かれた。何か重量以上の重さを感じさせる。
母さんがもちろんこの中身の話ね、と鞄の蓋をめくる。
私は泣きたくなった。
これまで決して誰にも触れさせなかった鞄。
昔一度ふざけて触れようとしただけでぶたれた。それもかなり本気で。
そんな鞄の中に何が入っているのか私は知らない。
それを今持ち出してどうしようというのだろう。
今生の別れを切り出されているのを感じて感情が揺らぐ。
そして鞄から取り出されたのは一冊の本だった。
母さんは空になった鞄を脇に寄せると、よいしょとその本を二人の間に置く。
「まだ触らないでね。説明するから」
それは、ただの本というには明らかに異様な見た目をしていた。
どう見ても日本のものではなさそうだ。
ファンタジー系の映画で年老いた魔法使いが髭を撫でながら読んでいそうな本。
百科事典よりは二廻りほど小さいが、普通の本よりはずっと大きく分厚い。
そして装丁はどうやら何かの革で出来ているようだ。
しかし、何よりも……
「不気味でしょ」
母さんは私の心を読んだかのように言葉を繋げた。
そう禍々しい、そんな言葉がぴったりとくる嫌悪感が体を這いずってくる。
「何それ。それが病気よりも大事なことなの?」
「まぁそう怒らないで、といっても無理よね」
「当たり前でしょ……自分の母親が大病を患ってることより大事な本だなんて」
「説明するわ。信じる信じないは別として私にはこれについて話す義務があるの」
そう、血の繋がった娘のあなたに、と母さんは話し始めた。
§
その不気味な本は、お婆ちゃんから引き継いだ物らしい。
そしてお婆ちゃんはその母親から。さらにその人も自分の母親から。
何代にも渡って親から子へと引き継がれてきたのだと。
「引き継いでと言うか押しつけられて、だけどね」
そして今あなたが押しつけられるわけよ、と笑う。拒否権は無いらしい。
そして基本、女系に引き継がれてきたと言う。
どうしてもという時以外、男性には引き継がれていない理由を問う。
「男はこれを悪用しようとするからだめね」
「悪用? そんなやばそうな物を押しつけないでよ」
「言ったでしょ。私にもあなたにも、事実上拒否権が無いって」
「わけわかんない」
何代も前からと言うことは企業秘密とかではないだろう。毒薬とかの製法?
情報のあふれる今、そんなものはネットで調べれば判るはずだ。
埋蔵金……はないか。
母さんはくるりと本を回すと、表紙を撫でる。
「いろんな意味で時間も無いし、謎かけをする気も無いから話を進めます」
「そんな古い本にしては痛んでないわね。革は何度も張り替えたんだろうけど」
「ああ、これ人間の皮らしいわよ」
引いた。精神的にも、物理的にも。
こんな悪趣味な冗談を言う人ではなかった。心も病んでしまっているのか。
しかし、変わらず微笑んだまま母さんは話し続ける。
「最初はあれだけど、ずっと持っていれば慣れるわ。私もそうだった」
「いや、全然慣れたくないんだけど……一体なんの本よ」
「タイトルは無いわねぇ」
言われてみれば、表紙にも背表紙にも何も書かれていない。
人間の皮と言われてフランケンのような継ぎ接ぎの皮の不気味さが先に立つ。
「あえて題名を付けるなら死の本、かな」
「ええ……」
「ああ、違う違う。ドラマであった名前を書くとその人が死ぬとかじゃないから」
「当たり前よ。危うく黄色い救急車を呼びそうになったわ」
「それって都市伝説らしいわよ? あとこれドラマの本よりずっと質が悪いから」
すっと真顔になった母さんが真っ直ぐ私の目を覗き込む。
その視線に狂気が混じっているような気がして思わず目をそらす。
「端的に言うと、これは『人を殺す本』、持ち主の意思とは関係無しにね」
そう言いながら、母さんはその本の表紙をめくった。
唖然とする私を置いて、母さんは話を続ける。
「ここに名前が書いてあるでしょ、この本を押しつけられた人たちの名よ。最後の所には今は私の名前、そして今回あなたの名前が入るの」
「いや、書かないから」
「私やあなたが書かなくても、勝手に名前が浮き出てくるわ」
なにそれオカルトすぎる。母さんはホラーが大嫌いと言ってたのにあれは嘘だったのだろうか?
見返し、と言うのだったろうか。表紙の次の分厚い項に名前が書かれていた。
その数ざっと十数名。そしてその最後に、確かに母さんの名前がある。
知らないお墓で母親の名前を見つけたような不快感だ。
「この最後に名前を書かれた人がきちんと持っている限り問題は無いわ。今なら母さんね。でも不気味だからと手放すと人が死ぬわ」
「なんで?」
「いやなんでと言われても……ああ、私もお婆ちゃんにそう聞いたかしらね」
血は争えないわねぇ、と母さんは笑うが、ここは笑う所では無いはずだ。
そもそも病気のことはどうなったのだろう。
私のショックを和らげるつもりで出来の悪い怪談を仕立てたのだろうか。
もしそうなら母さん、あなたに文才が無いのは確定です。
私がそんなことを考えているのも知らず、母さんはさらに頁をめくる。
そこには小さな文字で延々と何かが書かれていた。
びっしりと。
ひとつの空白も無く。
項が四角の模様で埋め尽くされているかのように。
本自体が、まったく他者に読ませる気がないと主張しているようだ。
「これはこの本に殺された人たちの名前。これも勝手に浮き出てくるわ」
母さんが頁をめくる。
一枚。
また一枚。
さらに一枚。
しかしその拒絶の文様は途切れること無く続いていた。
まさか、この分厚い本の全ての項が名前で埋め尽くされているのだろうか。
もしそうなら、とんでもない人数になるはずだ。
まるで呪いの呪文のように人の名が書き連ねられた本。
最初のあたりは古い文字だろうか読み取れなかった。
しかし飛ばし飛ばしにめくられていくと、次第に知っている文字が増えていく。
次第にそれは人名とおぼしき文字の羅列へと変わっていった。
「燃やそう」
思わず口から出た言葉。
それに対し母さんは緩やかに首を振った。
「これまで何人のご先祖様がこの一冊の本に振り回されてきたと思ってるの?」
そう言うと、裏表紙側に挟まっていた数枚の紙を抜き出した。
それは真っ茶色の紙、和紙っぽい紙、それらに比べれば真新しく感じる紙。
その何枚もの様々な風合いの紙に何やら箇条書きされている。
「燃やしました、ばらばらにして川に流しました、穴を掘って埋めました……」
「火山口の溶岩に放り込みました、箱に入れて海に沈めました」
ああそうか、この本を押しつけられた人達はなんとか処分しようとして当然か。
「薬で溶かしました、海外に送りつけました、食べました、肥溜めに沈めました」
「ちょ、肥溜めって……」
「ああ、臭くないわよ。まぁ、何をやっても気がつくと枕元に戻ってくるわけ」
「最悪」
「本当に最悪なのは戻ってくるまでの間に人が死ぬことね」
母さんはちいさく溜め息をついた。
「持ち主から本が離れると理不尽に人が死んで戻ってくると名前が増えている」
「偶然の線は?」
「今は増えた名前でネット検索すればすぐに判るわね。あとは……」
母さんが本をどすんと裏返すと、最後の頁あたりを広げた。
これまで頁の全てが文字で埋め尽くされていたが、そこには余白があった。
最後の頁。
この頁が埋め尽くされれば、このできの悪いホラーは終わりになるのか。
だが、その最後の文字を見て息が止まる。
そこには父さんの名前があった。
「私たちの血縁以外の人が触れると、その人が死ぬ」
「まさか……父さんは病気でって……」
「小さいあなたに父さんはこの本に殺されたのよ、って言えるとでも?」
もう、冗談とか恐怖話とかのラインは軽く飛び越えてしまった。
父さんの、自分の夫の死を織り込んだ時点でふたつにひとつ。
母さんが狂っているのか、この本が狂っているのか。
ああ、もう選択の余地はない。私に疑うという選択肢は無くなってしまった。
信じなければ、何もかもを受け入れなければ、全てを失う。
「あと、これは人が死ぬことに比べれば些細なことだけど」
母さんは気を取り直したように少し笑う。
扱いの注意を色々と言われる。
しかし痩けた頬が痛々しい母さんの顔をじっと見つめることしか出来なかった。
結局私はその碌でもない本を引き継ぐことになった。
これから闘病生活に入る母さんにこの本の管理は難しいからだ。
とりあえず検査とかで百メートル程度離れたぐらいでは問題は無いらしい。
しかし病室に置いていて、看護師さんとかが触れたら確かにまずいだろう。
そんなわけでついさっき引き継いだのはいいが、まだ触れるなと言われている。
「では行きましょうか」
看護師さんが迎えに来た。
入院初日、点滴台を持ったまま検査着に着替えた母さんが部屋を出て行く。
今日は検査三昧ね、と減らず口を叩きながら。
その後ろを肩に鞄を担いでついていく。
母さんはこれをこれまで何十年も担いできたのか。
肩に食い込むその重みに私は耐えられるだろうか。
ストレッチャーの入る大きなエレベーターの前で母さん達は立ち止まる。
私はここまでだ。
チン、チン、何基もあるエレベーターの鈴が鳴る。
(だいじょうぶ?)
声にせずそっと私に問いかける。その視線は私の肩にかかった鞄に向けられる。
(み・せ・て)
やはり心配なのだろうか。触るなと言ったはしからこれだ。
鞄の留め金をパチンとはずす。
その中に覗くのは関係のないものが触れると死ぬ、と言われた本。
一瞬ためらったが、その時母さんの前のエレベーターの扉がチンと開いた。
思わずその音に押されるように鞄に手を入れ、本を少しだけ取り出す。
顔を上げると、母さんは私にこれまで見たことのない笑顔を向けていた。
その母さんの身体が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
廊下にどさりという鈍い音と、点滴台が床を打つ甲高い音が木霊した。
§
結局死因は病死、ということになった。
実は自然死が一番近いらしかったが、病院的にはそうもいかないらしい。
状況が状況だけに、医療事故の線から警察まで出てきたこともあるのか。
おかげで病院側の対応は下にも置かないもので少し申し訳なかった。
だが、山のように契約しまくられた生命保険の受取人は全て私だった。
警察から疑いの目を向けられていたような気もする。
病院のおかげで眩しいデスクライトを向けられずに済んだのかもしれない。
司法解剖が済み母さんが帰ってきたのは三日後だった。
慎ましやかに家族葬を終わらせ、馴染みの寺で四十九日も一挙に終わらせる。
残念なことに呼ぶ親戚も懇意な知り合いもいないのだ。
DNA的にはどこかに親戚がいるのだろうが。
ご丁寧に寺に仏壇型の納骨堂も契約してあった。
田舎にはお墓もあったのだが、墓じまいして持ってきていたらしい。
あの本のことを考えると誰しも子孫繁栄と励む気にはなれまい。
親戚筋もいなくなっていたから無縁墓になるよりはいいかもしれない。
落ち着いてから数日すると、郵便が届いた。
差出人は母さんだった。同じ物が三通。郵便事故を憂慮したのだろう。
消印はそれぞれが違う郵便局だった。
その手紙には詫びの言葉が連なっていた。
あの本は、無関係の者が触れると死ぬ。だがそれだけではなかったのだ。
血縁の者が触れると所有者が切り変わり、前の所有者はやはり死ぬらしい。
あの時私は母さんに求められ本に触ってしまった。
それをもって自分を責めないで欲しい、知っていて謀ったのだからと。
病だけならいい。だが本と病の両方は重すぎた、とも書いてあった。
そんな重い本を押しつけておきながら、
「いい人を見つけて少しでも幸せになって子供を作りなさい」
「事故とかで死ぬと一番血の濃い人の所に飛ぶらしいから気をつけて」
「でも本の加護で少々の危険は回避できるらしいわ」
後出しもたいがいにして欲しい。
それからそれは加護ではなく呪いなのではなかろうか。
しかし一番頭にきたのはこれだ。
「最後の頁がいっぱいになると、いつのまにか白紙の頁が増えているらしいの」
最初の頃はもっと軽かったのかしらね、で母さんの手紙は終わっていた。
それが本当なら、いつかこの本は世界で一番重い本になるだろう。
ご先祖様は、やはり息子に押しつけるルールにするべきではなかったろうか。
お読み頂いてありがとうございました。