現代の「死」と、トルストイ『イワン・イリッチの死』
日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団による『遺族によるホスピス・緩和ケアの質の評価に関する研究』(インターネット上で閲覧可能)では、多くの患者遺族が、余命告知に関して「希望を失ったように感じた」と回答している。
これについて、私は違った感覚を持っている。
確かに、母は、2016年11月上旬に余命1~3か月、病因は進行性すい臓がんで、これは進行が速いから今のうちにできることをやっておくように、と主治医からはっきり言われた。
厳しい告知であるが主治医に躊躇はなかった。
確かにこの時点で母は、ショックを受けていて、涙を流したと父から聞いている。
しかし、次に起こした行動は早く、すぐに姉を呼んで事情を話し、順次母の兄弟姉妹を呼んで対面し、洗礼を受け、昇天への十分な準備をすることができた。
このことについては『研究』でも、余命告知が将来の心の準備をすることに「役立った」と回答している遺族が多いことと符合する。
日本では家族に告知するが本人には告知をしない例が多いようであるが『研究』が海外の事例から推測しているように、これは有害であろう。
なお、告知のショックを和らげるために、ホスピス付きのチャプレン、私が行っている教会の牧師に宗教的ケアを依頼したが、これは有用であった。
これは、『研究』にあるように、聖職者のケアが限定的であるとはいえ有用であることと符合する。
なお、意外なテキストがこれは有用であることを示唆する。
トルストイ『イワン・イリッチの死』である。
この小説の中には、死という複雑な事態を前にして、死にゆくイワン・イリッチが自分の死期を悟っているというのにもかかわらず、周りの者が、告知をせず、イワンが死病に罹患していることを隠し、イワンを苦しめる描写がある。
裏を返せば、医師による率直な告知のほうがイワンを慰めたであろうことを読者に感じさせる。
母は生前、非常に自分が慰められた「医療行為」として、主治医が、優しい言葉をかけてくれながら、かけ布団の上から体をやさしくなでてくれたことに感謝していた。
ある種身体的な接触の有用性を感じさせるのであるが、『イワン・イリッチの死』にはこれと似た描写がある。
イワンの具合が悪くなると、足を上げながら座っている姿勢が楽なことが分かった。
だが、足の上げぐあいをうまく調節するのが難しい。
そこで家の下男がイワンの足を担いで座った姿勢を保ち、イワンの安楽を助けるのである。
その際にも、この下男が、概要「人間いずれ死ぬんでさあ、その時には助けるのが当たり前ってもんですよ」と妙に率直に死を認め、声掛けをする。
これがイワンを精神的に助けるのである。
適切な範囲で行われるのなら、終末期医療において、医療従事者の身体的接触は緩和ケアに有効であることが今日認められているが、トルストイは後世になって科学的に確認されることを予見してるかのごとくに死を描写してみせるのである。
見落としがちだが、エリザベス・キュブラー・ロスが、「何かと高速と巨大が支配する現代においては、むしろ、小さなやさしさのほうが貴重である」と指摘していることを見逃すべきではないように思われる。
もちろん、トルストイが『イワン・イリッチの死』を書いた19世紀末ロシアに今ほどの高速と巨大があったとは思われないが、歴史的な文豪が見せる観察眼は、まことに侮れないものだと思わせられた。
トルストイの描いた告知の重要さ、死を前にしたケアにお世話になった母を詠める
いにしえの 文豪の描く 介抱に 扶けらるるは 先おととしの母




