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 クローディアは馬車の中にいた。お供にニーナを連れ、今日もお茶会の帰りだった。話題はもっぱら第一王妃シンシアの懐妊について。一番の関心はなんといっても性別だ。王太子が誕生するのかどうかと、皆で息を詰めるように待っている。


 そんな中、クローディアが考えているのはアーロンのこと。周りにはぼんやりとしているように映ったかもしれない。しかし、先日の表情豊かな夫の顔は意外であり、クローディアを夢中にさせるには十分だった。


 アンジェリーナの名前を問うたときに、耳を赤くしていたアーロン。


(きゃーーー! 恥ずかしい!)


「アンジェリーナですって!」


 クローディアは両手で顔を覆ってしまう。


「は?」

「にゃーん」


 訝しげな表情を見せるニーナ。目の前にニーナがいることをつい忘れて叫んでしまっていた。


「い、いいえ。何でもないのよ。って、あら? 猫の鳴き声が聞こえたのだけど」

「猫の鳴き声? そうですね。ま、まあ! アンジェリーナ! お前いつからいたの?」


 黒猫がクローディアのスカートの裾から出てきた。クローディアの声に自分が呼ばれたと思ったようだ。嬉しそうに体をすり寄せてくる。クローディアはその体を抱き上げ膝に乗せた。


「いつからいたの? まさか屋敷を出るときから?」

「ちっとも気づきませんでしたねぇ」

「本当ね。でも、迷子にならなくてよかった。外に出ていたりしたら分からなくなってしまっていたわ」


 出先で迷子になってしまったら、おそらく帰ってこれないだろう。そう考えるとぞっとした。どこにも行かないでくれてよかった、と小さな温かい体を優しく撫ぜる。


「忍び込むなんて、なかなかやりますねぇ」


 丸くなって気持ちよさそうに瞳を閉じるアンジェリーナだが、急に耳をピンと立てて顔を上げた。ぴょんと膝から飛び降りると、尻尾が警戒するようにゆっくりと動かす。そして扉に向かって、ウウッと低い唸り声を上げ飛びかかって引っ掻き出した。


「ど、どうしたの?」


 異様な様子にクローディアは恐ろしくなる。シャーっという声を上げると、さらに勢い良くバリバリと扉を引っ掻いた。


「なんだか、開けて欲しいみたいですね……」


 ニーナも戸惑っているようだ。普段は聞き分けも良くて大人しいアンジェリーナの見たことのない様子にクローディアもどうしたらいいのか分からず、口元に手を当てた。そんな二人に構わず、アンジェリーナはさらに興奮を増していく。もう今にも体当たりを始めそうだ。


「止めてちょうだい」


 仕方がないという思いでクローディアが言うと、ニーナが御者に合図を送り間も無く馬車は止まった。それでも一心不乱に扉を引っ掻き続けるアンジェリーナ。御者が扉を開けるのと同時にアンジェリーナが飛び出した。


「待って!」


 それを追って、クローディアも飛び出した。すると路地へ入っていく。クローディアも後を追って、大通りから一つ路地へ足を踏み入れた。明るい大通りとは違い、薄暗い細い道。すれ違う人と肩がぶつかってしまいそうだ。


「ごめんなさい」


 先を急ぐクローディアはすれ違う人と肩が当たりそうになってしまったのだ。その返事として男の舌打ちが後ろから聞こえてきた。恐ろしいと思ったが、振り返ることはできない。そうしている間にもアンジェリーナの小さな姿を見失ってしまいそうだ。だんだんと人通りもなくなり、道路の舗装も所々剥がれかけていた。なんだか気持ちのいい場所ではない。


 やっとのことでアンジェリーナに追い付いたら、男に向かって唸っていた。


「すみません、その猫は私の猫です! 無礼をお許しください!」


 クローディアが慌てて言う。しかし、よく見れば相手の様子がおかしかった。男が小さな子供の口を塞いで小脇に抱えていた。しかもその子供は嫌がっているような様子だ。


「な、何を……?」

「へへ、この子は仕事をさぼってばかりいるからお灸を据えるところなんでさぁ。高貴なお嬢さんには関係ないことだ。さっさと、そのうるさいお猫さまをどっかにやってくれよ!」


 子供の口を塞いでいる男が、クローディアに凄むような低い声を出す。中年の男だ。着ているものは一目で流行遅れのサイズの合っていない服だと分かる。今にもベストのボタンははち切れそうだ。仕立ては合っていないし、生地は傷んでいるが、元は悪いものではなさそうだ。


「お、お灸ってそんな子供に……」


 男に凄まれることなんてクローディアは経験したことなく、男の粗野な雰囲気も合わせて、恐ろしさに逃げ出してしまいたくなった。しかし、とクローディアは後ずさる足を奮い立たせる。おかしいと感じた。子供が仕事を怠けるからといって、こんな薄暗い路地に口を塞いで連れ込んでいるなど尋常では考えられない。それに。おそらく、二、三歳の男の子。仕事をサボるというが、こんな小さな子供が何の仕事ができると言うのだろうか。


「た、助けて!」


 逃れようともがいていた子供がクローディアに手を伸ばした。その顔は恐怖にこわばり、涙が溢れている。クローディアも自然と手を伸ばす。すると。


「うるせぇ!」

「きゃあっ!」


 ガツッと骨が当たるような音をさせて、子供の頬に男は拳を下ろした。小柄な子供の顔ほどもある男の拳。子供は動かなくなってしまった。


「や、や、やりすぎではありませんか。もう、お灸を据えるのも十分でしょう!」


 クローディアは足が震えるのを感じながら男に言った。アンジェリーナは男に今にも飛びかかりそうだ。男の暗く澱んだ瞳は、クローディアを睨みつける。


「うるせぇ! ごちゃごちゃ言うならお前も同じ目に会わせるぞ!」


(お、お、お、同じ目ですって! でも、どうしたらいいの? この男からこの子供を取り返して逃げるには。考えるのよクローディア! どうすればいい? ……そ、そうだわ!)


「あなたは、私を誰だか知って言っているの? 私の夫は仕事で王宮へも通っているし、それに陛下の友人でもあるのよ! その夫がこんなことを知ればどうなるか分かっていて?」


(あああっ! 駄目だわ! これでは虎の威を借る狐というだけじゃない。しかも、ただの脅しだし)


「ほほう。それはそれは、大層なご身分の奥様でしたか。しかし、残念だが、その素晴らしい旦那もいねぇみたいだな。ってことは、いまここであんたがどうなっても分からねぇってことか」

「でっ、でも、私に何かあれば、夫はきっとあなたを見つけますわ! ええ。そうよ。そしてあなたは弾劾されるのよ!」

「は?」


 ドスの効いた男の声。恐ろしさにクローディアは竦んでしまう。だが、クローディアは自身も気づかないうちにアーロンのことを信頼していたようだ。


(だけど、何かあってからでは遅すぎるのよ!)


「奥様! 大丈夫ですか!」

「クローディアさま!」


 後ろから、ニーナと御者の足音が聞こえてきた。それを聞いて男がチッと舌打ちを打つ。加勢が来たと思ったようで子供を放り出すと、そのまま足早に逃げ出してしまう。クローディアは急いで投げ出された子供に駆け寄る。意識はないようだが、息はしていた。


(よ、よかった。えーん、怖かった)


 へなへなと身体から力が抜けていく。安堵に涙が出そうだ。しかし、子供の柔らかい滑らかな頬に男から受けた痛々しい暴力の跡を見たら背筋がゾッとした。


「申し訳ありません。私たちクローディアさまを見失ってしまって……クローディアさまがご無事でよかったです。ま、まあ! ああっ、何て痛々しい。こんな小さな子供に」

「酷いわよね」

「本当にご無事でよかったです。もしかしたら。もしかしたら、この子もそうだったのかもしれませんね」

 ニーナは子供の痛々しい姿を見て涙を浮かべていた。

「ほら、子供の誘拐が多いって言っておりますでしょう。だから、この子も誘拐されるところだったのかと」


 そういえば、アーロンも子供の誘拐が多発しているから気をつけるようにと言っていた。たしかにこの子供もそうなのかも知れない。


「とりあえず、早く運んで手当てをしてあげないと」


 ここから屋敷までまだ距離があるし、あまり動かしたくない。この子の親だって近くにいるかもしれない。しかし、適当な場所もなさそうだ。仕方がない屋敷へ連れて行こう、と考えていたら後ろから声がかかった。


「それなら、我が家が近くにありますからどうぞ」


 意外な人物にクローディアは驚く。なんとレイラが立っていた。アーロンの以前の婚約者だったという女性。クローディアは訝しく思った。


「なぜ、あなたが」


 ここに? という言外の意味を組んだ御者が決まりが悪そうに視線を泳がせた。叱責されると思ったようだ。


「先ほど私たちが奥様を見失ってしまったときに、場所を誘導してくださったのです」

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